良子と小説
前作「ひまわり」より前に書かれた文章です。某新人賞で落選したやつです。
当時は紗絵のようなお嫁さんが欲しかったんでしょうね。もちろん今も欲しいですが。
黒板の前の教壇に立った担任教諭が、芝居染みた引き締まった顔で講説をしていた。
「本日から2学期です。高校生活最後の半年間はあっという間に過ぎ去ってしまいます。受験や就職活動といった、皆さんはそれぞれ違う道を歩み始めています。その中で、残された大切な時間を決して無駄にしないように、自覚を持って生活しましょう……」
僕は、担任教諭のその演説を、まるでラジオを聴いている時みたいに耳を傾けつつ、窓の外を眺めていた。僕の席は窓沿いの、後ろから3番目の席であり、そこは晴れ渡る夏の終わりの空の下で、近くは真下の運動場の様子から、遠くは周囲の街の様子を一望できる場所だった。だから興味が湧かない授業の最中は、欠伸混じりにこうしてよく外の景色を眺め、雲や人々の流れを見て過ごしていた。僕は窓際の席に座れて本当に運が良かったと思う。
しばらくしてホームルームが終わり、学級委員長の起立、礼の掛け声と共に解散となった。生徒達が次々と教室を後にしていく。その中で僕はひとり、席に座り直して、再びぼうっと窓の外を眺めていた。
「高校生活最後の2学期なのに、ぼんやりしてますね」
クラスメイトの少女が正面に現れて、僕の顔を覗き込むようにして話しかけた。
「最後だから、ぼんやりするんだよ。まだ学校終わらないんだなって」
僕は少女の視線に、自分の眠そうな目線を合わせた。
「そうかな? でもみんな忙しそうだよ。就職とか、受験とか。人生における、一つの分岐点ってやつじゃないですか。高校3年生の9月って」
少女は、ホームルームが終わって空になった僕の前の席に「よっこいしょ」などと、年寄りじみた掛け声を発してちょこんと腰掛けた。それが少女の口癖だった。僕は、その年寄りじみた少女の掛け声が、実は割と好きだった。
「そういう紗絵はどうなんだよ。余裕っぷりは僕と良い勝負だろう?」
少女は夏野紗絵という名前で、僕のクラスメイトだ。幼稚園の頃から数えると、十年は同じクラスで過ごしているのだから、筋金入りの腐れ縁だと思う。ただ、僕が腐れ縁だと他人に説明すると、紗絵はいつも決まって「幼馴染って言ってよ!」と怒るのだ。確かに、「縁が腐る」なんて誰も得しない言い方だと思う。それでも他人に説明する言葉としては有用だから、この言葉を作った先人の言語感覚には脱帽する。
「私はちゃんと真面目に勉強してるから大丈夫なんです。それより雄ちゃんが心配で、心配で。そっちの方が悩みの種だよ」
紗絵は、出来損ないの息子に呆れかえる母親のようにため息をついた。
僕には両親がいない。そのことを意識しているのか知らないが、紗絵は度々母親じみた口調で僕を諭す時がある。お節介な人間というのは、大抵親みたいな話し方をするものなのかもしれないが。
「で、いい加減就職するのか、大学行くのか決めたの?」
紗絵が、両手で窓の外を見ている僕の頬を包んで、自分の顔の正面に向けさせた。紗絵のぱっちりとした二重瞼の瞳に見つめられると、それは僕の心を掴んで揺さぶってくる。紗絵の瞳がとても美しいということは最近気づいたことだ。本人はそんなこと露ほども感じていないだろうけど。
「そうだな……とりあえずR大の願書は出すよ。まぁ無理なら、浪人するのも何だし、それから就職活動でもするよ」
僕は、紗絵がじっと目を合わせてくるので、その視線を外そうと必死に目を泳がせた。
「もう。そんな適当じゃ駄目でしょ。雄ちゃん、いつまでもそんな調子だったら、後で絶対後悔するよ?」
紗絵が頬を膨らませて怒りを表現した。肩に少しだけかかるくらいの黒いショートヘアがさらりと揺れた。周囲から見れば滑稽に映るが、それが彼女なりの怒り方であることも僕は理解していた。
「適当じゃないさ。紗絵はR大の法学部だろ? でもさすがに僕だって法学部が無理ってことくらい調べたさ。だから文学部。幸い、僕は我が校における唯一の文芸部員だからな。志望動機としてはぴったりだろ?」
紗絵は呆れて物も言えない、とでも言いたげに、首を横に振った。
「雄ちゃん、一学期の頃はあたしと同じ法学部を受けるって言ってくれてたよね? 僕は検事になるんだって……もう気が変わったの?」
「あの頃は、検事モノの推理小説にハマってたんだよ。ほら、宇宙モノのSF読んで宇宙飛行士になるっていうのと同じ理屈さ。でも冷静に考えて、偏差値20くらい足りないのに、小説が面白かったから受験するなんてそれこそ馬鹿みたいだろ?」
「てことは、文学部だって偏差値10くらいは足りてない計算になるね。あーあ、どっちにしても可能性は僅かみたいだね。だったらいっそ、法学部を受けてみよう。雄ちゃんなら、奇跡を起こせるかもしれないよ」
僕は机に右肘をついて、そこに頭を預けて脱力した。
「お前な……大学まで僕と一緒に通学するつもりか。そんなんじゃ大学デビュー出来ないぞ」
「大学デビュー? ああ、大人なお化粧とか髪の毛茶色に染めたりするやつ?」
「いや……まぁ当たらずとも遠からずだと思うが」
紗絵の反応は、ブームがとうに過ぎ去った芸人のネタくらいに全く関心が無い様子だった。
「しょうもないこと言ってないで、ほら、帰ろうよ?」
紗絵が立ち上がると同時に、僕もようやく席を立とうとしたが、
「ああ……あ、いや、今日はちょっと部室寄っていく」
「文芸部室? なんで?」
「部活だよ。あとちょっと勉強も」
「うーん。今日はあたし、早く帰らないといけないんだけどな」
紗絵が逡巡したので、
「いや、ごめんな。気にしないで、先に帰ってくれ。創作活動とは、孤独に行うものなのさ」
「むぅ、勉強もちゃんとしないと駄目だからね?」
「はいはい」
「はい、は一回でいいの。あ、そうだ。ちゃんと今日の帰り、うちに来てよね。お母さんが雄ちゃんのこといっつも心配するんだから。たまには帰ってくれないと」
「はいは……解ってるよ」
僕は曖昧に頷いた。勉強をしなければならないのは解っていることなのだ。そして紗絵だけでなく、紗絵の両親から今の自分を心配されていることも。
教室の外で紗絵と別れた後、僕は別棟の3階にある文化系クラブの部室群の最奥にひっそりと存在する文芸部室へと向かった。
文芸部の部員は、僕一人だった。すなわち、僕が卒業することによって部活動は自然消滅する運命にあるわけだが、K高校文芸部の歴史は古く、高校設立当初より存在する数少ない部である。本棚の一角には活動初期の頃の部誌が連綿と並んでおり、僕自身も暇な時に先人達の作品を読み漁ることもあったが、部誌の発刊は二年前の冬を最後に止まっており、実質的に部室は格好の昼寝場所になっている。部室の鍵はもはや個人で保管している状態で、職員室の鍵庫に返却することもしていない。
僕はポケットから取り出した部室の鍵で扉を開けた。
文芸部室は、普段授業を受けている教室の半分くらいの広さがあるものの、外周スペースの多くを本棚で埋め尽くされているので狭く感じられる。さながら学校の第二図書館といった状態だ。
そして部室中央に鎮座した長机の上に鞄を置き、その鞄の中から大量の原稿用紙を取り出して机上に置いた。そしてパイプ椅子に座り、一呼吸。さらに真っ新な原稿用紙をしばらく見つめて、ぼんやりとした。僕はこの部室で一人きりになっている時が、一番自分の本質を捉えることが出来ていると感じていた。
僕は小説が書きたかった。それは僕が、高校卒業までに自分に課した漫然とした目標だった。
僕が最後に小説を書きあげたのは、最後の部誌に載せた短編小説だった。それ以外にも散文詩を数点寄稿した程度で、後は当時3年だった先輩達がファンタジー風味だったりSFチックな長編小説を書き連ね、まるで統一感の無い部誌(おまけにタイトルは「迷走」)が完成した。
僕はこれまでの人生において、生きる意味や、生きる目標も持たずに、地図も無く、ゴールも決めずに歩いてきた。だから僕は、何かしらの形で自己表現が出来るものを作りたかった。
僕の母が死んだのは僕が10歳の誕生日を迎えてすぐの頃で、父は物心のつかないうちに既に死んでいた。僕は父の写真を一度として見た事が無い。母はよく、僕が父親に似ていると指摘していた。その度に僕の心境は複雑に渦巻いて、どう返答したらいいのかよく解らなかった。
母は、生前僕に十分な愛情を注いでくれたが、生きる指針を教えてはくれなかった。というよりも、教えることが出来なかったのだろう。優しい人であると同時に、心も身体も弱い人だったから。そして彼女自身、父を失ったことで、当ての無い人生を送らざるを得なかったのだろう。
親戚もおらず、天涯孤独となった僕に手を差し伸べてくれたのが紗絵の両親だった。僕の母と紗絵の両親は高校の同級生だったそうで、母の生前は親しくしていた。
何故紗絵の両親が僕を拾ってくれたのか解らなかったが、高校の入学に至るまで、僕は紗絵と同じ家に住まわせてもらっていた。そして紗絵の両親は、僕に対して本当の家族であるかのように接してくれたし、紗絵も、まるで僕らが双子の兄妹であるかのように接してくれた。本当は、高校進学後も一緒に住まないかと打診されたのだが、僕はそれを断り、アルバイトと一人暮らしを始めた。そうすることで、僕が何の為に生きるのかが見えてくるような気がしたから。
しかし僕は相変わらず、惰性に従って学校に通い、将来の夢の一つも見えずに、紗絵の両親をはじめとした周囲の人々に支えられて、高校生活を送り続けた。そして残り僅かな時間となった今でも僕は、未だに自分の生きる価値や存在のことを認められずにいた。小説を最後まで書ききれないのも、中途半端な今の自分の象徴と言えた。
僕は目の前の原稿用紙を一枚めくり、単純な構造の紙飛行機を作った。そして部室の窓を開けて、その紙飛行機を飛ばした。紙飛行機は夕闇の中をまっすぐに飛んで行くかと思えば、すぐに急に吹いた風に攫われて、校庭へ墜落していった。僕はその行方なんか気にせず、夏空に浮かぶ白い雲を見つめていた。雲は少しずつゆっくりと流れていた。つまり紙飛行機なんてどうだって良かったのだ。
僕は学校からの帰り道、紗絵との約束を守るために紗絵の家に寄った。僕にとっては慣れ親しんだ、第二の我が家だ。しかし今は少しだけ入り辛くなっている。僕は躊躇いがちにインターホンを鳴らした。しばらくしてそこから女性の声が聞こえた。
「はい、もしもし」
「雄一です」僕はインターホンに顔を近づけて答えた。
「あら、雄ちゃん。お帰りなさい」紗絵の母である雪絵さんの声だった。
僕が玄関の扉を開けると、雪絵さんが待っていた。
「もう、インターホンなんて鳴らさなくていいのよ。あなたのお家なんだから」
黒く長い髪を後頭部で一括りにした雪絵さんは、高校生の娘を持つ母とは思えないくらいに可愛らしい外見の女性だ。
雪絵さんは、いつも僕のことを息子のように可愛がってくれた。そしてそれは今も変わっていない。大体、僕の一人暮らしに最後まで反対していたのは雪絵さんだった。
「すみません……」僕はいつもその優しさに恐縮しきりだ。
「ふふ、謝る必要は無いのだけど。紗絵は友達と一緒に出掛けているのよ、もうすぐ帰ってくると思うわ」雪絵さんは、見ただけで幸福になれるような柔和な笑みをたたえて言った。
僕は2階に上がり、かつて自分の部屋として使わせてもらっていた部屋に向かった。
部屋は綺麗に片付けられており、まるで主の帰還を待ちわびているかのように生き生きとした雰囲気に満ちていた。僕はこの部屋に入るたびに、申し訳無い気持ちになる。僕のような、出生のよくわからない半端な人間に居場所を作り続けてくれている紗絵と両親に対して。
僕は折りたたみ式の丸テーブルを部屋の真ん中に置き、その上に勉強用具一式を拡げた。本当ならビスケットも置きたいところだったが、久しぶりの夏野家で食べる晩飯のために我慢した。勉強は好きではないし、本当なら今からでも就職活動を始めても良いと思っている。大学受験の勉強は、紗絵の影響でやっているに過ぎない。とはいえ、大学に行く事自体が悪いとは思っていない。結局、僕が頭の中に並べるのは言い訳ばかりで、靄がかかった虚ろな将来が横たわっているのだ。
僕が英語の参考書に苦闘してから30分程度で、玄関から紗絵の声が聞こえてきた。
「ただいま、お母さん。ねえ、雄ちゃん帰ってる?」
すぐに雪絵さんの声が返ってくる。
「お帰りなさい。帰ってるわよ。今2階で勉強してると思うわ」
「そう、それはなにより」
紗絵が満足そうな顔で会話している姿が目に浮かんで、僕は自然と笑みがこぼれた。
しばらくしてから、パタパタと2階を駆け上がってくる音がした。
「おっ、勉強してますなぁ。えらいえらい」
紗絵が淡いピンク色のブラウスと、白のスカート姿で僕の部屋に入ってきた。お盆に氷で冷やした麦茶をいれたポットと、透明なグラスを二つ乗せている。いかにも夏らしい涼やかな姿だ。
「どこか出掛けていたのか?」
「友達と本屋さんへ参考書を買いにいってたんだよ」
「そうか」
「なになに、もしかして、男の子とデートしてるのかとか思って焦っちゃった?」
紗絵がニヤニヤした笑いを浮かべて、僕の左腕を指先で何回も突いてきた。
「馬鹿、そんなこと思うかよ。もしそうだったらもっとそわそわしてそうだしな、お前」
「あはは、そうだね。そんなことより雄ちゃんは勉強に必死にならないといけないものね」
紗絵が麦茶を二つのグラスに注ぎ、机の上に並べた。カラカラと爽やかな氷の音がした。
「……もし、大学に行くってちゃんと決めるんだったら、もっと早く勉強すべきだったよな」
僕がそう言うと、紗絵はまるで重大な秘密を打ち明けられた時みたいに目を丸くして、
「あらら、どうしたの。弱気になっちゃった?」
「弱気というか、自分でも何がしたいのかよくわからなくて」
僕はグラスを傾けて麦茶を喉に流した。夏野家の麦茶の味はどちらかといえば甘く感じるのだが、僕にとってはすっかり慣れ親しんだ家庭の味だ。だが、不思議なことに、昔母が入れてくれていた麦茶の味には敵わなかったし、その味は今でも明確に覚えている。過ぎ去った思い出はニスを塗ったみたいに補正されているから、今それを飲んだら大したことが無いのかもしれないが。
「それを言ったら、私もよく解ってないよ。漠然としてる。何となく自分は文系かな、とか、それだったら、法律は社会の役に立ちそうとか。そんな感じだよ。そりゃ、小さい頃から夢があって、それに真っすぐに進む人はかっこいいと思うけど、ほとんどの人は深く考えてないと思うよ。社会のことなんて、子供はわかんないもの」
紗絵が言いたいことは、僕にも理解できた。社会のことなんて子供には解らない。それを明確に理解出来ている紗絵は、本当に聡明だと思う。ただ、僕はその「ほとんどの人」の位置にすら立てていないという思いを抱えている。人々が確かな毎日を歩み続ける中で、僕だけが取り残されているような感覚。そのことは、これまで誰にも話してこなかった。
「でも、雄ちゃんが、私の親に申し訳ないから早く就職したいとか考えるのは間違ってるよ。お母さんもお父さんも、雄ちゃんが一人前の大人になってくれることを一番に考えてるんだから」
紗絵は自分のグラスに麦茶をたっぷり注いで、一気に飲み干した。
「解ってるよ、僕がどれだけ恵まれてるかってことくらい。何にせよ、当面は小説よりも英語に専念することにしたよ」
「ホントに? ふふ、英語は私得意だよ。後で教えてあげるね」
「お前は今から勉強しないの?」
「これから晩ご飯の準備。お母さんから料理教えてもらってるの。最近は結構上手くなったんだよ。だから今夜は期待していてね」
「え、晩ご飯までごちそうになっていいのか?」
内心では期待していたが、僕は久しく食べていない手料理を心待ちにしていた。
「当たり前でしょ。今日はご飯食べて、夜は一緒に勉強するんだから」
紗絵は自分のグラスだけ引き上げて部屋を出た。一人になって、英語に再び取りかかろうとしたが、夕食の話題をしたためか、まるで集中することが出来なくなった。
夕食が出来たと呼ばれ、僕は1階のリビングに降りた。
五穀米のご飯と、とろろ芋、秋色に焼けたサンマ、鰹節がかかったオクラ、冷奴、ひじきの煮物に味噌汁……僕にとっては有難いごちそうがテーブルの上に並んでいた。
「普段なかなかお魚とか食べないでしょう? 今日はしっかり栄養取ってね」
紗絵が、並べられた食膳の前に箸を置きながら言った。それぞれ自分用の箸があり、僕の箸は薄い茶色で、少し太い木製の箸。紗絵の箸は真っ白に着色された細い木製の箸だ。
「それじゃあ、いただきましょうか」
雪絵さんの一言で、僕らは椅子に座り、いただきます、と手を合わせた。
まず最初にサンマから食べ始めた。香ばしい匂いに包まれている身に脂が程よくのっている塩焼きだった。
「ちなみに今日は、私がほとんど全部作りました」
胸を張って、得意げな顔をして紗絵が宣言した。
「そりゃすごいよ。立派なもんだな」
僕が素直に褒めると紗絵は顔を赤くして、
「珍しく褒められると、照れるじゃない」
小さな声で、僕を批難した。
「照れるなら言うなよ……」
僕はとろろ芋に醤油を垂らして、それをご飯の上にかけて搔き込んだ。
「もう、意地悪。ねぇお母さん」
雪絵さんはいつものニコニコ顔で僕らを眺めていた。
「雄ちゃんの言う通り、本当に紗絵は本当に料理上手くなったわよ。もういつお嫁さんに行っても大丈夫ね」
雪絵さんの言葉に紗絵が頬を膨らまして、
「もう、お母さんまで!」
「いや、紗絵は良い嫁さんになれるよ」
僕はますます調子に乗ってそう言った。久しぶりに食べる手作りの夕食が美味しくて饒舌になっていた。
「えっ……そ、そうかな」
すると紗絵は、顔をさらに赤くして、いきなりまんざらでもないような顔をしたものだから、僕も思わず、
「馬鹿、真に受けるなよ。恥ずかしいじゃないか」
と途端に恥ずかしくなって顔を歪めてしまった。紗絵もようやく平静になり、
「えへへ、ごめんなさい」
と笑った。
ただ、紗絵は本当に良く出来た娘だというのは、こんなに近くにいる僕ですらも間違いないと感じる。紗絵はこれから大学にちゃんと進学して、誰に対しても誇れるような人生を歩んでいくのだろう。
では僕はどうだろう。今こうして紗絵と同じテーブルで食事をしている僕は、半年もすれば高校を卒業するのに、すぐ先の未来のことですら何も考えられていない。
「僕なんて何の取り柄も無いんだから、紗絵はすごいと思うよ」
僕がそう言うと、雪絵さんと紗絵が顔を見合わせた。
「あのねお母さん。雄ちゃん最近、自信喪失気味みたいなの」
「あらあら。何かあったの?」
雪絵さんが僕の方を心配そうに見つめた。
「いえ。ただ、もうすぐ高校も卒業するっていうのに、進路のこととか何にも考えられてなくて……本当なら自分一人で生きていかないといけないのに、こうして夏野さんの家に甘えてしまってて。情けないなって思ってるんです」
すると雪絵さんが僕の肩を優しく掴んで、
「雄ちゃん、子供が親に頼るのは当然なのよ。まして雄ちゃんはまだ学生なんだから、そんなこと気にすることじゃないのよ。でも……そうね。今日お父さんが帰ってきたら、相談してみても良いかもしれないわね。男同士で解り合えることもあると思うし」
「ああ、それがいいんじゃない? お父さん、最近また男一人になって寂しそうだもん」
紗絵がとろろ芋をかき混ぜながら口を挟んだ。
「寂しそうなら、紗絵が構ってあげたらいいんじゃないのか」
「そういう問題じゃないみたいだよ。お父さんったら、いっつも『最近息子は頑張ってるのか』ってしょっちゅう私に尋ねてくるんだもの。頑張ってるかと言われれば……ちょっと返答に困るのよね」
紗絵は、まるで使い古された冗談を言われた時のような顔で苦笑した。
「お父さんは雄ちゃんのこと、自分の息子だと思ってるんだから、ちゃんと甘えておかないと駄目よ」
雪絵さんや紗絵は、僕の心配事など杞憂でしかないというように明るく接してくれる。少しだけ僕の心も軽くなった。
秀樹さんが帰宅したのは午後7時くらいだった。
「雄、元気だったか?」
秀樹さんは夕食を終えると僕の部屋を訪れた。僕はその時、勉強に苦闘する余り集中力が切れ、拡げた数学の問題集の余白スペースを用いてパラパラ漫画を描いているところだった。
「ええ、おかげさまで。秀樹さんも、お仕事の調子はいかがですか」
僕はその漫画を急いで見えないように隠しつつ答えた。
秀樹さんは役所に勤務している公務員だ。今は課税の仕事をしている。
「いやあ、今年から管理職になって仕事がどっと増えたよ。給料は大して増えないのに、責任ばかり降ってくるんだから……そうも言ってられないけどね」
そう言って僕の隣に「よっこいしょ」と言って腰を下ろした。そういえば紗絵が口走るのは、秀樹さんの口癖が移ったのかもしれないと思った。秀樹さんは持っていた缶の日本酒とスルメイカを机の上に置き、蓋を開けた。
「雪絵さんに怒られますよ」
「大丈夫だ。あいつには、男同士で話をするから入るなと言ってあるからな」
そう言って秀樹さんは日本酒を口にした。僕は置かれたスルメイカをつまんだ。
しばらく僕たちは無言になった。
「雄は未来のことだけ考えれば良いんだ。金の事は気にするな。他の家の子と同じようにな」
秀樹さんがおもむろに切り出した。
「お前はうちの子じゃないか。そりゃ高校出てすぐに働きたいのなら仕方ないが、それが俺たちに迷惑をかけたくないとかいう理由だったら、それは許さないぞ」
「……はい」
秀樹さんは普段無口な人だ。だから今は酒が必要だったのだと思った。
「それに親としては、大学は出たほうがいいと言うぞ。まして今の段階で雄が、将来何をしたいか解らないのなら、余計にな。選択肢は拡げておいた方が良い」
秀樹さんらしい、建設的な考えだ。そして僕もその意見は正しいと思った。
「雄には幸せになってもらいたいんだ。紗絵と同じくらいにな」
僕は驚いて秀樹さんの方を見た。
「おいおい、親が子供の幸せを願うのは当たり前だろう?」
僕は嬉しかった。本当に夏野家の人々は、僕を息子だと思ってくれているのだ。
だが、僕は心の奥底では、それと逆の言葉を望んでいることも気づいていた。
僕が夏野家の人間ではない、赤の他人であるという事実。僕が何故それに固執している自分でも理解ができない。
秀樹さんは、僕のことを息子と思ってくれている。雪絵さんもそうだと思う。
だが僕には本当の両親がいて、彼らが望んで僕が産まれたという確かな事実から、僕はいつしか逃れたくないと思っていた。
それとも、僕はもう両親のことを考えるべきではないのだろうか。未来のことだけを考え、陽炎のようにぼやけた過去を追い求めてはいけないのだろうか。
「僕は本当に幸運だと思います。両親がいなくて、孤独と戦いながら必死に生きている子供が世の中には沢山いるはずなのに、僕は夏野家に拾ってもらってここまで何不自由なく生きて来られたんです。おかげで、これまで自分が不幸だとか思ったことはありません。だから、僕は頑張って幸せになりたいと思います」
僕は秀樹さんにそう言うと、秀樹さんはにっこりと笑って、
「ようし、よく言ったな。そうだ、それで満足だよ。俺はね」
と言って、僕の頭をポン、ポンと二度軽く叩いて、部屋を出た。
「それで、どうしてお前は枕と布団を担いでるんだ?」
紗絵が桃色のパジャマ姿で僕の部屋を訪れたのは午後11時頃のことで、その時僕は古文の現代語訳の勉強をしていたが、解らない単語を補完するべく、適当なイメージで訳したために全く違う内容の訳をしており、あと数ヶ月で受験を迎えるという揺るぎない現実に心の底から焦っているのであった。
「だって、一人で寝たら寂しいかなって思って」
「お前それ、あの2人は知ってるのか」
「お母さん? あはは、大丈夫だよ。お父さんには特に言ってないけど」
紗絵は敷き布団を僕のベッドの隣に要領よく拡げ、そこにごろんと寝転がった。紗絵の身体から石鹸と、紗絵自身の匂いがした。
「お父さんと話はできた?」
横になった紗絵は僕のほうを見た。
「ああ、まあな」
僕がそう言うと、
「うーん、あんまりできてない感じ?」
紗絵は僕の顔をじっと見て、僕の同意も聞かずにそう言った。両足の膝から下をジタバタさせている。
「いやだからなんで……まぁ、そうだな」
僕は観念したようにため息をついた。
「にしても、お前こういう時は鋭いよなあ。普段のんびりしているくせに」
「雄ちゃんがわかりやすいんだよ」
紗絵がクスリと笑った。
「雄ちゃんって、学校卒業して、すぐに働くようなキャラじゃないよね」
「なんだよそれ」
「違うの?」
「キャラとかそういう問題じゃないだろ。働かないと生きていけないんだから」
僕は少し意地になって、子供のようにムスッとした。
「でも、お父さんは、大学の学費出してくれるって言ってるんでしょう? だから雄ちゃんは余計なこと真面目に考えなくていいんだよ」
紗絵の声はゆったりと諭すような口調だ。まるで僕の事を全部理解しているとでも思っているかのように。
「別に余計なことなんて考えてないよ」
「そうかなぁ」
僕らは少し無言になった。部屋の外からは秋の虫の澄んだ細い鳴き声が聞こえてきた。リーンリーンと、鈴を演奏するかのように。
「お父さんもお母さんも、雄ちゃんに大学に行ってほしいんだと思うよ。それは雄ちゃんのことをあの二人なりに理解した上で、そう言ってるんだと思うよ」
「じゃあ紗絵は、どう思うの?」
僕は紗絵に思わず問いかけた。すぐにしまったと思ったけれど。その問いを紗絵に投げても仕方が無いのだから。それでも紗絵は、私? うーん、としばらくうなった後に、
「私は、雄ちゃんの答えを尊重するだけだよ」
と答えてくれた。
「そう……」
僕は、紗絵が彼女の両親に同調しない答えをくれたことに、不思議と安堵を感じた。
しばらくすると、それに加えて紗絵の寝息が聞こえてきたので、僕は勉強道具を片付けて、部屋の電気を消した。暗闇の中、僕は天井をぼうっと見上げて、今日秀樹さんや紗絵に言われたことを反芻した。
(余計なことはいくらだって考えたいさ。多分、大人になってしまうと、余計なことを考える暇が無くなってしまうと思うから。今しか迷う事が出来ない気がするから)
翌朝は、紗絵と二人で家を出た。久しぶりの揃っての登校だった。
紗絵の身長は、僕の肩より少し高いくらいで、二人で並んで歩くと、自分の身長が伸びたことを実感する。高校に入学する前までは、紗絵の方が身長が少しだけ高かったのだ。
「とりあえず大学目指すことにするよ」
家を出てしばらく経ってから、僕は隣で歩く整った顔立ちの幼馴染に告げた。
「法学部は無理かもしれないけど、R大。また紗絵の両親に甘えてしまうのが申し訳無いんだけど……」
「そうなの? それは良かった。えへへ、私の粘り勝ちだね」
紗絵が、まるで私の説得が功を奏したと誇示するかのような、得意そうな顔をして笑った。
「大丈夫だよ、雄ちゃん。何も日本一難しい大学に入る訳じゃないんだから」
「それでどうして大丈夫だと言えるのかが解らないけどな」
僕らが他愛のない話をしていると、
「よう、なんだお二人さん。今日は久々に夫婦揃っての登校じゃないか」
後ろから不意によく通る大きな声をかけられた。振り向くと、声をかけたのは石田一樹というクラスメイトで、彼の妹で一歳下の春香と一緒だった。
「おはよう石田君、春香ちゃん」
紗絵がこの二人の兄妹に挨拶した。
「おはようございます。夏野先輩、荒木先輩」
春香が元気一杯の笑顔で僕達に挨拶した。一樹は中学一年からの友人で、クラスの中でも騒ぎ役で、活発な性格をしている。妹の春香も一樹同様に元気な女の子で、女子サッカー部ではフォワードをしている。僕は何度か、春香がコートの右サイドを何度も駆け上がっていく様子を見た事があった。
「おはよう二人とも。にしても誰が夫婦だよ、一樹。あと何で誰も突っ込まないんだ」
「だって、お二人が一緒に仲良さそうに歩いていたら、誰だってそう思っちゃいますよ。それに今更じゃないですか」
春香がいつになく兄の意見に同意した。この兄妹はよく言い争いをしているのを見るが、こと色恋ネタになると二人して盛り上がる傾向にあるのだ。
「まあ、これまで散々言われ続けてきたことだけどな。最近は随分減ったけど」
「そりゃそうだろ。もう既にお前らが二人でいるのは日常風景だからな。それでも雄一が一人暮らし始めてから、揃って登校することが少なくなったもんな。中学の頃と違って」
一樹が大げさな身振りで解説した。
「なんか懐かしいですね。中学の頃は、あれだけ周囲に囃されてもずっと一緒に登校されてましたもんね」
「そうそう、夏野なんて、一緒に登校して何がおかしいの? って感じで、涼しい顔だもんなあ。女はそういうの意識するもんだと思ってたけど、夏野はもしかしたら一生子供のままかもって当時は危惧したもんだぜ」
当時の僕としては、一緒の家に住んでいるのに、別々に登校する方が不自然だったし、紗絵と一緒に登校することが恥ずかしいと思ったことは一度も無かった。思春期ならそう思ってもおかしくなかったのかもしれないが、その頃の僕は夏野家の優しさに支えられていたし、紗絵自身がいつも僕を元気づけてくれていたからだ。そういえば紗絵は、僕に特別な感情を抱いたことがあるのだろうか。
「それにしても、二学期は体育祭や文化祭やらで、ただでさえ忙しいのに、三年は加えて勉強とか就活だもんな」
「石田君は実家の酒屋さん継ぐんだよね?」
「いや、大学行くことにしたよ」
僕と紗絵は思わず目を見合わせた。一樹は勉強以外のことなら何でも才能を発揮するタイプだが、逆にいえばテストの成績は目も当てられない。実際、一樹が酒屋を継ぐことは、校内では周知の事実としてわざわざ話題にも上がらなかったくらいだ。
「どうしたの? 何か悪いもの食べた?」
紗絵が本気で心配そうな顔をして、一樹の顔色を窺っている。
「一樹、大学に行くためには、せめてアルファベットは覚えないと駄目だよ」
「あのなあお前ら、ほんと失礼だね」
一樹はため息と同時にやれやれ、と肩をすくめた。
すると春香が口を挟んできた。
「聞いてくださいよ先輩方。お兄ちゃん、いきなり親に、音楽やりたいから上京させてくれって言い出したんですよ」
すると一樹は慌てて、
「あ、こら春香。余計なことバラすな」
「いいじゃない。それで、うちの親って割と寛容な方だと思うんですが、それでも反対しまして……私も反対ですよ。だってお兄ちゃんに音楽の才能なんてある訳ないし」
春香の突き刺すような言葉に、一樹は隣で素直にショックを受けているようだった。
「それでも諦めきれないっていうもんですから……だったら大学に行くんだったら好きになさいってことになったんです。ただし現役で。浪人するくらいなら家継ぎなさいって言われてるんです」
春香は、どうせ無理だろうなという顔を浮かべている。僕自身も、それは街中を闊歩している付近の野良猫に盲導犬並みの教育を施すくらいに難しいと思った。
「だから俺も結構ヤバめなスタートライン立ってるってわけ。な、雄一、一緒に頑張ろうぜ」
そう言って僕の肩に腕を回して、馴れ馴れしくもたれかかる一樹。
「いや、さすがに一樹のペースに合わせてたら、それこそ多くの人に迷惑かけてしまう気がするので一人で頑張れ」
僕は一樹から距離を取った。
「おいおい雄一、お前いつの間にそんな冷酷な薄情者になっちまったんだ? あーあ。雄一は夏野っていう家庭教師がいるから良いよなあ。あ、そうだ。なら俺も一緒に教えてもらったら良いんだ」
すると一樹はチラチラと紗絵に目配せしながら訴えかけている。
「じゃあ、今度一緒に勉強会でもやる?」
紗絵が屈託の無い笑みで答えると、
「いいねえ。やろうぜ! おつまみ大量に持ってきてやるよ」
一樹はすっかり乗り気になっているが、おそらく勉強会は30分ともたないだろう。
「折角だし、春香ちゃんも来なよ」
僕はこの際だからと春香を誘った。
「いいんですか? 何かすみません。出来の悪い兄のせいで、お二人の邪魔しちゃって」
いや、邪魔も何も無いから、と僕が突っ込みを入れようとすると、その前に、勉強の話はもう満足したのか、一樹が不意に話題を変えた。
「そういや雄一、今年の文化祭は手伝わなくていいのか?」
「ああ……一応申請はちゃんとするよ。一応、伝統だけはある部だから、最後くらいはきっちりやっときたいしね。と言っても、例年通り先達の小説を並べるだけになりそうだけど」
文化祭の手伝いとは、文化祭におけるクラス展示ではない。そもそも3年はクラスの展示を行わないのだが、文芸部は毎年、部室を文化祭で誰もが入れるように少しだけ片づけて、歴代部員が作成した小説本を展示するのが恒例となっている。
「毎年、お一人で店番してますよね、先輩。暇そうに……それも今年で終わりなんて、ちょっぴり寂しいですね」
春香が鞄を握る手をぎゅっとして、少しだけ感傷的な表情をして呟いた。
「そんなことないさ。文芸部なんてここの生徒の大多数が存在すら知らない部活なんだから。部員の勧誘だって碌にやってこなかったしね」
「でも、どうせ最後だったら、雄ちゃんの小説読んでみたいな」
紗絵が軒下で日向ぼっこをしている三毛猫のような暢気な顔で言った。
「紗絵、朝の話をもう忘れたのかよ。勉強やるんだったら小説書いてる暇は無いの」
「そうなんだけど、でもやっぱり読んでみたいじゃない? 願望ってだけだよう。ねえ、二人とも」
「俺も雄一がどんな小説書くのか楽しみだしなあ。それに案外、卒業後の思い出の品、みたいな感じになるかもよ?」
便乗して一樹が相槌を打つと、紗絵や春香が楽しそうに笑った。
久しぶりに賑やかな朝の登校になった。ふと僕は、こんな風にして友人と笑って騒いで登校することができるのも、あと数ヶ月しかないのだと思い、泡沫のような寂しさを感じた。
授業が終わってから、僕と紗絵、石田兄妹は文芸部室に集まった。理由は春香が登校して別れる前に提案したことがきっかけだった。
「文芸部室の掃除も兼ねて、どんな本が眠っているのか見てみたい」とのことで、今年で廃部になる前に一度文芸部室の作品群を見学したいのだという話だった。僕からすれば、春香が文学に興味があること自体意外に感じたのだが、春香は漫画よりも小説が好きで、本屋の入口付近に平積みされている大衆小説なんかを読んでいると聞いた。そこに、ついでだからと面白半分で紗絵と一樹がついてきた。
「にしても、これだけの本を整理するのは大変だよな。雄一が卒業したらマジでどうすんだろ」
一樹が、僕が指示した通りに書棚から本を取り出しながら呟いた。
「まぁ、今年中に古くなった雑誌とかは出来る限り捨てておくよ。部誌だってダブりが多いし、形だけの顧問と相談して整理するさ」
僕は取り出された本から、文化祭で展示するものを峻別しつつ、捨てるものを箱に入れる作業を続けた。紗絵は部室の窓を全開にして、本を取り出したことによる埃を拭き取っている。
「一樹は机で勉強した方がいいよ。俺も一区切りついたらそうするつもりだし」
「いや、それは遠慮しておく。最低限、湯沸かしポットとお茶菓子が無いと集中できないんでな」
「それがある環境だと、次はテレビか漫画を探すだろ」
「まぁな。はあー、ままならないね世の中」
一樹がパイプ椅子にゆっくりと腰掛けて溜め息をついた。
「湯沸かしポット、家庭科室ので良かったら持ってきてあげるよ。使ってないのあるし」
紗絵が僕らの方を向いてそう言った。
「マジで。さっすが家庭科部部長だね」
「紗絵、あんまり一樹を甘やかすなよ。調子に乗るから」
「いいじゃん別にー。夏野が良いって言ってんだから、なぁ?」
「いえいえー。じゃ、ちょっと待っててね」
紗絵がそう言って部室をパタパタと足音を立てて出て行った。
「いやあほんと夏野はいい嫁になりそうだな。お前が羨ましいよ、雄一」
一樹がニヤニヤしながら僕の方を見る。
「冗談はよせよ。紗絵がいないのに揶揄っても無駄だぜ?」
僕はもう何度揶揄われたかわからないのに、律儀に言い返した。
「冗談じゃないさ。夏野は、昔からの友人っていう贔屓目抜きにしても可愛いし、何より優しいからな。うちの学校の男子でも人気度すげえ高いし」
「そりゃまぁ……でも、人気度で言ったら、告白されまくってる大島さんとかいるじゃん」
僕がそう言うと、一樹は心底呆れたように、
「はぁ……お前それ本気で言う? 夏野に告りづらいのって、お前がいるからみんな諦めてるだけだぜ? それでも夏野に告って玉砕した奴何人か知ってるけどな」
それは知らなかった。紗絵はそんな事一度も僕に言った事が無かった。
「実際俺は大島より夏野派だし。あ、もちろん恋愛じゃなくてファンって意味だけどな。大島は確かに美人だけどあいつは計算しまくってる感じがね」
「とかなんとか言っておいて、大島さんに付き合って、なんて言われたら断らないだろ?」
「それとこれとは話は別。そんなに気に喰わないなら春香にも聞いてみろよ。あいつ色々情報持ってるし」
僕らが春香の方を向いた。すると春香は、本棚から見つけてきたであろう本を真剣な表情で読んでいた。
そういえばさっきから随分と静かだと思っていた。
「春香ちゃん、何か面白い本でもあった? 気に入ったなら持って帰ってもいいよ」
僕が話しかけると、春香ははっとした顔をして視線をあげた。
「あ、先輩。すみませんお手伝い出来なくって……」
「いいって別に。で、その本は?」
春香が持っていたのは、古い灰色の板目表紙で綴じられた本だった。
「随分古い本だな……昔の部員が作ったオリジナル小説か。ちょっと興味あるな」
一樹がそう言って、春香が持っていた本を覗き込む。
「私もそんな感じで、ちょっと試しに読んでみようと思った程度だったんですけど……」
春香は何故か、隠し事が見つかった時の子供のような、少し困った顔をして、本の表紙を見せた。表紙には題名と著者が書かれていた。
題名:春が訪れる日
著者:K高校文芸部
「ふぅん。著者が『文芸部』なんていうのは見た事が無かったなあ。これ、どこにあったの?」
僕は春香に尋ねた。
「そこの棚の一番下の段にありました。だいぶ埃が積もってましたので、取り出す時に思わず咳き込んじゃいました」
「普通はこういうの、部誌を並べている所に保管するんだけどな……ちょっと読んでみるか」
僕と一樹は、本に目を通し始めた。
* * *
私が何故この物語を残そうと思ったかについてだが、勿論K高文芸部員として、小説を書きたいという欲求があったことも事実だ。しかしそれ以上に、我々にとって大切な友人であり同志でもあった良子とYの将来が光に満ちたものであることを願って筆を認めようと思った。よって私はこの物語を、まだ見ぬ彼らの子供に捧げる。
良子が文芸部室を尋ねたのは、校内に咲く桜が舞い散る新学期早々のことだった。
良子を連れてきたのは、部長の秋代だった。
ーーこちら、3年1組の藤本良子さん。仲良くしてね。
闊達な秋代の陰に隠れて、赤面しながら紹介を受ける良子は、男子ならすぐに惚れてしまいそうな程愛らしい少女だった。実際私も初対面の時は幾分か心臓がはねた。
その日から、文芸部に一輪の花が加わったのだ。
良子は、病気がちだったためか、本の知識は豊富であった。読書家であった彼女は、多くの文学作品を読破していたため、事に文学評論に関しては私が驚く程鋭敏な見解を述べていた。
そんな彼女が、やはり文芸部随一の読書家であったYと心を通わせるようになったのは、当然の帰結と言えた。
Y……彼は優しく、知的で思慮深い人間であった。小説は書くより読む方を好んでいたように思う。それは文芸部員として如何なものかとも思ったが、Yの蘊蓄の効いた会話はとても充実した、心地の良いものであった。
ーー僕は良子、君が好きだ。
ーーはい、私もあなたが好きです。
ーーとても嬉しいよ。だけど、僕は君と付き合う資格がない。
ーー何故ですか。
ーーいつか別れなければならないから。僕は君と結婚できない。僕らに訪れる未来は不幸だ。
ーーそれは違います。私を幸せにしてくれるのはあなただけです。私達の結婚は私達で決めるのです。
Yは、自分が良子と親しくすることで、どのような過酷が待ち受けるのか、彼は理解していた。
良子は地域の所謂地主の娘で、藤本の家を知らない人間はいない程だった。一方でYが自分の出身を語ることは無かったが、貧しい暮らしをしているとのことだったので、私自身も彼らの恋愛は非常に難しいと感じていた。
一度だけ、私が部室に入った時に二人が抱き合っているのを見てしまったことがあった。あの時の二人は、私の顔を認めた瞬間に、驚いてさっと身を引いた。そのせいでYが机の角に足をぶつけて痛がった。その瞬間、何故だか私はとても可笑しくて、すまないすまない、と何度も彼らに謝った。彼らは安心したように、笑顔になった。
* * *
「なになに? 面白い本でも見つけた?」
家庭科室から戻ってきた紗絵が、僕らの輪に加わった。
「いや、面白いというか、何やら曰くありげな本を我が妹が見つけてね」
一樹が紗絵に言った。一樹は僕が読み始めて数秒後には興味を無くし、スマートフォンを弄っていた。
「春香ちゃん、この本読みたかったら持って帰っていいよ」
僕が本から目を離してそう言った。
「うーん、その前に、先輩が読んでください。これ、文芸部が作者になってますから、まず先輩が読むべきだと思います。ページ数も少ないですし」
「いや、別にそこは構わないんだけど。良いの?」
すると春香は僕ににっこりと笑みを浮かべて、
「先輩、結構続きが気になるんじゃないですか? とても真剣に読んでいらっしゃいましたから。私は後でいいですよ」
確かに僕は、この本が気になっていた。もちろん文芸部が作者名になっていることもあったが、それ以外に引っ掛かる点があったのだ。
「とりあえずお湯が沸くまで作業に戻ろうよ。お茶と紙コップも持ってきたし」
「そうだな。キリのいい所で終わって構わないから」
そうして僕らは順番に作業を終えて、お茶を飲んで一服してから部室を出た。
一日ぶりにアパートに帰ってきた僕は、部屋の灯りをつけ、鞄を無造作に床の上に置き、制服も着替えないままに、部屋の奥にある戸棚の一番下の引き出しを開けた。開けにくくなった引き出しを、力を入れて引くと埃が舞う時の旧い臭いが立ちこめた。
そこには母に関する遺品が残っていた。今となってはその引き出しを開けることも殆ど無くなっていたが、元より大層な貴重品が入っている訳ではない。自分と母のアルバム写真であったり、母が身につけていた時計等の装着品、愛用していた万年筆といったものだ。僕はその中で、母の名前が書かれている健康保険証を見つけた。
「荒木良子」それは僕の母の名前だった。とはいえ、僕は母のことを「良子」と呼んだことなど一度として無かったので、部室にあった小説を見た当初は、記憶の蓄積の奥で引っ掛かった程度のことだった。
思えば、母がどんな人生を歩んできたかなど、僕は全く知らない。もちろん僕が生まれる前のことは母から聞く以外に無かったのだが、子供の頃の僕は、例えば父と母はどのようにして知り合い、結婚したのか、そこまで知りたいと思うことは無かった。もしかしたら尋ねたことは一度くらいあったかもしれないが、母は父のことを詳細に語ることはしなかった。かといって、父の存在を不必要に隠すようなこともせず、僕にとって父がいないことは、雨が降れば水溜りが出来ることくらいに自然な事だった。
気になるのは「Y」という人物のことだ。もし「良子」が母だったとしれば、「Y」は父である可能性がある。何故彼はイニシャルで書かれているのか。例えば、本人が名前を書かれることを嫌がった? それとも、何らかの配慮?
僕は、持って帰った小説の登場人物が自分の両親だったなどという思考は馬鹿げていると思っているが、それでも最後の結末が気になった。
* * *
彼らの恋愛について、我々文芸部員は暖かく見守ることに決めていたが、同時に、学校中の噂とならぬよう、決して口外しないようにしていた。
しかし、誰かが漏らしてしまったのか、それとも逢い引きを第三者に見られたのかは解らないが、いつしか文芸部外の生徒に噂が広まり、教師の耳に届いてしまったのだ。そうなれば、好奇心が悪意へと転換し、批判と軽蔑の的になることに然程の時間はかからなかった。
紅葉がいよいよ盛りになった11月頃。Yは校長室に呼び出された。30分程で帰ってきたYは、冷静にこう言った。
ーー良子に今後一切関わるなと言われた。彼女の親も承知だという。
私はこう尋ねた。
ーーそれで、君はどうするのか。
すると彼は私の方を見て、こう言った。
ーー覚悟は決まっている。君達に迷惑をかけたくないが、もう頼れるのは君達しかいないのだ。だから無理を承知で頼む。良子に会わせてくれないか。
ーー会わせることは可能だが、その後どうするんだ?
ーー良子を連れ出して、二人で住む。学校は辞めて働く。今、知り合いのツテを頼って、仕事探してるんだよ。
私はため息をついた。答えがあまりにも予想通りだったし、彼らの今後の人生の困難さを考えると憂うしかない。
ーー君の覚悟は解った。では明日良子さんに聞いてみるよ。
次の日、私は授業終了後直ぐに良子のクラスを訪れた。彼女はひどく落ち込んでいた様子だった。おそらく親から事の顛末を聞かされたのだろう。
私は彼女を、出来るだけ目立たないように教室の外へ連れ出した。
ーーYが君に会いたいと言っている。正直、僕はどちらでも良い。選ぶのは君だ。
彼女は、既に心が決まっていたのか、迷い無く言った。
ーー会わせてください。あなたに出来るだけ迷惑をかけないようにします。
やれやれ、彼らは同じ事を言うのだなと私は思った。
ーー別に僕の迷惑なんてどうでもいいさ。ただ、君達が不幸なまま別れてしまうのはいずれ寝覚めが悪くなるなと思っただけだよ。もちろん他の部員達もね。
私は、何故Yと良子は出逢ってしまったのだろうと考えたことがある。しかし理由なんて存在する訳も無く、彼らは運命的に惹かれ合ったのだと思う。ならば、私はその運命こそが正しく、それを阻む何かしらのしがらみこそが間違いなのだと思うのだ。
* * *
数日後の朝は眠気が酷くて、朝の学校までの道程はずっと目がうつらうつらしていた。朝日が眩しくて、瞬きを何度も重ねた。よく遅刻せずに自力で起きられたものだと思う。休憩時間と暇な授業は全て睡眠に費やそうと胸に誓った。
いざ勉強を始めると、自分が何を理解していないのかが段々と明らかになってくる。すると、いかに試験までの時間が足りないかが実感できる。すると焦る。言うなれば僕は、ジグソーパズルのピース数をようやく把握した段階だ。これからの作業を考えただけでも途方に暮れてしまう。一応、把握しただけマシなのかもしれないが。
それでもきちんと勉強した次の日は充足感があった。今までの自分が時間を無駄に過ごしてきたことを痛感した。まるで真っ当に生きることに目覚めた不良のようだ。
「雄ちゃん、今日の英語ちゃんと予習やった?」
始業前の教室にて、いつも通り母親が確認するように紗絵が尋ねる。
「ああ、一応教科書の英文は訳してきた」
僕が普段とは違う答えをすると、紗絵は驚いた表情を見せた。まるで初めて有効な実験結果を得られた科学者のように嬉しそうな笑みも携えて。
「へえ、びっくりした。ちゃんとやれば出来るんじゃない……本当に?」
「疑いたくなる気持ちは解るが、本当だよ。だから眠いんだ。とにかく今日は寝かせてくれ」
僕は机に両腕を置き、その上に頭を突っ伏して睡眠体勢に入った。紗絵が「ふうん、ふうん」と言って何度も僕の顔を覗き込もうとした。
「そうだ。この前、家でお豆腐ハンバーグ作ったら、お母さんもお父さんもすっごくおいしいって言ってくれたんだよ」
「そう。それはおいしそうだね。紗絵は料理、上手くなったもんな」
僕は少しだけ顔を上げて返事をした。
「今度作りにいってあげるよ。今日は駄目だけど……明後日とか」
「そう。それは嬉しいね。じゃあお願いするよ」
僕はもう顔を上げることなく生返事をした。
紗絵はそれでも満足したようで、僕の席から離れた。
* * *
我々文芸部員はYが仕事を見つけるまでの間、Yと良子の駆け落ちについての作戦を練った。良子は卒業するまでの間、校門にて親が車で送迎に来ることになったため、正門以外から時間を合わせて脱出させることにした。
但し、Yに対して、脱出はあくまでYが一人で仕組んだものであり、逃走が発覚した際は、他の者は一切の関与をしていないことにするという取り決めをした。それに、仮に作戦通りにYが良子を連れ出したとして、その後の彼らの人生を保証するものなど何も無いのだ。
私はYに協力することが、本当に彼らの幸せに繋がるのか。それが私を悩ませ続けた。
そして決行の日。授業終了後、Yと良子が裏門を通って道路に出るまでの間、我々は周囲に目を配りつつ、二人が一緒にいることを悟られないように注意を払った。
学校の敷地から出た時、彼らは我々の方をちらりと見て、一礼をした後、道路を駆けていった。
私は、その後ろ姿を眺めつつ、いつか幸福な家庭を築いた彼らに再会することを願った。だが、落ち葉が消え、冬が訪れ、雪が積もり、梅が咲き、そして卒業式を迎えても、結局彼らと出会うことは出来なかった。
今日、私は文芸部を去る。部室の窓の外を見れば、桜の季節を迎えた一面の春の空である。桜は全ての人に対して、春の訪れを平等に祝福してくれる。桜の樹の下に立つと、緩やかに花びらが舞い落ちてくれる。だから私はそんな未来を信じて、この小説の筆を置きたい。そして未来の文芸部員に、この小説の「後書き」を委ねる。
* * *
学校からの帰り道、僕と紗絵はスーパーマーケットに寄り、ひき肉や豆腐等の食材を買った。僕が住んでいるアパートの部屋に着き、紗絵は一通り僕の部屋を眺めた後「一応掃除はやってるね、よしよし」などと言いつつ、「それじゃあ私は料理作るから、雄ちゃんは勉強しといてね」と僕に命じた。僕は、手伝おうと言いかけたのを辞めて、勉強を始めた。しかしつい気になって、合間に僕はエプロン姿で豆腐ハンバーグと味噌汁を作っている紗絵の後ろ姿をちらちらと眺めた。
「なあ、そのエプロンって中学の時、家庭科の授業で作ったやつだよな?」
僕は紗絵に話しかけた。
「うん、そうだよ。どうしたの?」
「いや、その……随分似合ってると思って」
なぜ僕はそんな事を口走ったのだろう。紗絵のエプロンは、家庭科実習で作ったもので、熊のキャラクターが大きくプリントされたものだった。
「あはは、何それ。普段私が可愛いお洋服着てるときだって、一度もそんなこと言ったことないくせに」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃなくて……」
「うーん? なになに? 言い慣れてないこと言ったから困ってる?」
「えっと、そうかもしれない……でも、紗絵はエプロン姿が似合うってふと思ったんだ」
同じ事を再度繰り返した。まるで覚えたての言葉を発する小学生のように。
「そうなんだ。じゃあ、いっぱい着ないといけないね」
紗絵が僕に背を向けたまま言う。顔は見えないが、優しく笑ってくれているのだと思った。味噌汁の具材を包丁で切る音がトントンと、リズム良く聞こえている。
「うん。いっぱい着て欲しい」
だから僕も素直に、気を許してしまう。
「いっぱいって、どれくらい?」
「できれば、毎日がいいな……紗絵が良ければだけど」
ふと、紗絵の動きが止まった。
「毎日って……ずっとってこと?」
「うん。ずっと」
「ふうん、そうなんだ」
それからまた、トントンと音が再開される。二人の会話はそこで途切れた。
音が少しだけ早く、大きく感じられたのは、僕の気のせいなのかもしれなかった。僕は再び勉強の方へ意識を向かわせた。
鉛筆がノートに擦れる音。具材をフライパンで焼く音。教材のページが捲れる音。味噌汁を煮込む音。そこに二人の息遣いと、心臓の音が途切れることなく聞こえていた。
「出来たよ。お皿置くから、テーブルの上空けてね」
僕は紗絵の言葉に、待ってましたとばかりに勉強道具をテーブルの上から下ろした。
豆腐ハンバーグには大根おろしとポン酢がかかっている。隣にはキノコと根菜の味噌汁が置かれた。
僕は、頂きます、と手を合わせて、箸を進めた。紗絵が僕の様子をニコニコとした笑顔で、身を乗り出して、じっと眺めていた。
「美味しい?」
「ああ、美味しいよ」
紗絵の料理は、どんな料理でも心地が良くて、優しい味がする。それが当たり前すぎて、今まで気づかなかったくらいに。
「良かった……ねえ、私が作った料理、毎日食べたい?」
紗絵がいたずらっぽく笑って僕に尋ねる。
「ああ。紗絵の料理だったら」
「そっか。じゃあ私も、毎日美味しいって言って欲しいな」
そのくらいのわがままで毎日作ってくれるなら、本当に幸せだ。
「ずっと?」
「うん、ずっと」
僕らは顔を見合わせて、お互いに思わず吹き出して笑った。何故おかしくて笑ったのかは、僕らにだけ理解できた。言葉にして伝えなくても、二人の心の中で共有し、全て完結した。
そして僕は気づいた。生きることが何故尊いのかということに。目の前に僕のことを真っ直ぐに見つめてくれる人がいることが、どれだけ素晴らしいことかということに。
僕らは可能な限りゆっくりと食事をとった。
しばらく他愛無い話を交わして、静かになった後、僕は紗絵に切り出した。
「あのさ、今から言うことは、他人に話すには恥ずかしいし、僕も本当に大したことじゃないと思ってることだから、紗絵にだけ話すね」
こくん、と紗絵は頷いた。
「大人になることの意味について、僕はずっと考えてた。そんな時いつも、僕は両親のことを考えてきたんだ。あの人達はどんな人だったんだろう、どんな気持ちで僕を生んで、育てようとしたのかってこと。でも、あの人達はもう死んでしまって、僕はあの人達がどんな人間だったのかも知らなくて、僕は一体何なんだってね。せっかく紗絵の両親が大切に僕を育ててくれたっていうのに……そんな事を考えても仕方が無いのにね」
紗絵が僕の顔をじっと見つめて、話を聞いてくれている。だから僕は話を続けた。
「僕は勝手に、一人きりで親から社会に置き去りにされた人間で、何の意味もない人生を送ってるんだ、なんて思い込んでたんだ」
そんなことない、と紗絵は呟こうとしたのを、僕は静止する。
「ただ、最近はこう思うことにしたんだ。少なくとも僕は、両親が恋をして、お互いを愛した結果生まれたんだってことには違いないんだから、堂々と生きていけばいいんだって。だから、紗絵と同じ道を歩いても良いのかなって思えるようになった」
僕の話が終わると、紗絵は口元を手で覆って笑った。
「随分色々と考えてたんだね、雄ちゃん。私は、雄ちゃんと将来は一緒に生活出来たら幸せだろうなあとか、そんなくらいにしか考えて無かったよ」
のんびりとした口調で紗絵が言った。
「けど、紗絵はそれで良いのか。僕なんかより優れていて、金持ちなんていくらでもいるじゃないか」
「でも、私と一番仲が良いのは雄ちゃんだよ。それは誰にも負けてないでしょう?」
「それは、そうだと思うけど……」
「もっと自分に自信を持ってもいいんじゃない? そうじゃないと、雄ちゃんのことが大好きな私の立つ瀬が無いよ」
そう言った紗絵は、みるみるうちに顔を桜色にして、視線を僕の方から横に外した。
その時に見た紗絵の愛らしい横顔を、僕はこの先ずっと忘れることが出来ないだろうと思った。
文化祭当日はカラッとした空気に包まれた秋晴れで、学校全体が一種の観光地にでもなったかのように多くの一般人で賑わっていた。今年度初めて着たセーターが、少し暑く感じられた。
文芸部室の存在する別棟も例外ではなく、多くの文化系クラブが、活動展示や、イベント等の開催を行っている。その最奥にある文芸部室は、毎年のことながら、純粋に「文芸部」に用事がある人しか訪れない、秘境の地となっている。
僕は一人で部室の椅子に座って、勉強したり、ぼうっとしたり、喧噪に溢れる窓の外を眺めたりしていた。
「こんにちは」
廊下から入ってくる女子生徒の声がした。春香だった。
「こんにちは、春香ちゃん。模擬店は大丈夫なの?」
春香は女子サッカー部の模擬店で売り子をやっていると聞いていた。
「今休憩で抜けて来たんです。それで、文芸部に来て、先輩の様子を伺おうかなと思いまして」
部室のドアを開けて、彼女らしく、大きな歩みで僕に近づいてきた。
「せっかくの貴重な文化祭の時間を、無駄にしてはいけないよ。君のお兄さんだって、今日は来ていないんだから」
僕はそう言っておどけて、春香に諭すように話した。
「無駄になんてしてませんよ。それより、あの本って置いているんですか?」
春香は部室をぐるりと見渡した。
「ああ、ここに在るよ。僕はもう読んだし、何ならあげるよ。これ」
僕が近くの机の上に置いてあった、「春が訪れる日」を春香に渡した。
「本当ですか? えへへ、ありがとうございます先輩」
春香が嬉しそうに言った。僕はちょっと躊躇いがちに、
「実はね、ちょっと僕が後書きを付けたんだ。その本、未完成でさ」
と付け足した。
「えっ、そうなんですか、じゃあそれも含めて楽しみです!」
春香が目を丸くして、興味深そうにしている。
「まあ、最後の文芸部員だし、他に書く奴がいないから、仕方なくってやつさ」
僕は照れながらそう言った。春香は、もう一度、ありがとうございますと言って、模擬店の手伝いに戻っていった。
僕は、ようやく文芸部員になれたような、そんな感慨を抱きながら、春香の後ろ姿を見つめていた。
* * *
あとがきに代えて
僕は、この本を読むまで、僕がこれからどうやって生きていくのか、迷っていました。しかし、今この本を読み終えて、考えたことをここに記し、それを後書きにかえたいと思います。
僕は、大人になるということは、子供に夢を託すことだと思います。
大人は、次の世代を生きる子供達にきちんとバトンを引き継ぐ者なのだと思います。
とはいえ、僕の本当の両親が、僕に何を託していたのか、今となってはわかりません。
ただ、僕は確かに今こうして、大切な人達に支えられて生きています。だから、僕は今きちんとバトンを引き継いでいるのだと思います。
僕も、いつか大人になって、子供に夢を託す日が来たら、今よりももっと幸せな日々を子供に渡せるように、生きていきたい。