停滞ランナウェイ
仙宕。どこかの地名だろう。その下に印刷された800という数字が俺に許された移動距離を示しているはずだ。
これが俺の握る唯一の手掛かりなのだと、文字通り、橙色の心許ない手掛かりを握り締めながら考える。片手で握り込めるほどに小さく、薄く、軽い、情報の断片。
判ることは差し当たって仙宕から800のどこかを目指していたということだけだ。最終的な目的地に至るためにはそこから別の交通手段を使うのかもしれないし、同じ理由で仙宕を始発点と決めることはできない。刻まれた数字にしても仙宕からここまでの距離を示したものではなく、現在地を知る手立てにはなりえない。
ここはどこなのか。もっと困惑すべきことはあったはずなのだが、まず、そう思った。自分が見知らぬ場所にいるという認識は視覚情報によって瞬間的に訪れる。それは自分のいるべき場所が判らないことに気付くより早く、自分の名前が思い出せないことを知るよりもずっと早い。
記憶喪失というやつだろうか、気が付いたら俺はここに立っていた。随分と田舎の、寂れた駅のプラットホーム。不思議と駅名の表示は見当たらない。二本の線路を挟んだ向こう側のホームにも人の影はなく、俺以外には誰もいないらしかった。既に俺の乗って来たであろう列車の姿も見られない。右手に握り締めた切符の他に所持品はなく、身に着けている衣類を除けば財布や鍵の類さえ持ってはいない。
その服装はといえば、どこにでもあるストーンウォッシュのジーンズに、ネズミのキャラクターで有名なあの会社の、悪戯者の青い宇宙生物がプリントされた、それこそ大量生産に違いないティーシャツだ。何等かの業種に必要とされるそれでないことは明白で、俺の身元を知る手掛かりにはなりそうもない。
切符の見方も、ストーンウォッシュも、某人気キャラクターも知っている。忘れていない。立場上、実在の企業名や商標を出してはまずいことも判る。要するに、俺が誰で、これまで何をしていたのか、それが欠落しているのだ。ここがどこで、これから何をすべきかも後者に含まれるだろう。つまり、俺は俺でなくても知っていることだけを知っているということになる。妙に気の利いた言い方を思い付くじゃないか。くそ。
仙宕、手掛かりがあるとすればそこだろう。旨くすれば俺を知る人物に出会えるかもしれない。全く、平生なら何の価値も持たないと一蹴してしまえるもの、それに頼らねばならなくなったとき、一本の藁は救命胴衣にも見える。
だが、出発する前に仙宕とこの場所の距離を確認しておいた方がいい。もしここが仙宕から800の位置にあるとすれば、それも重要な情報と推認していいはずだ。そもそも、ここが仙宕かもしれないではないか。そうだ、その可能性があった。まずは仙宕との位置関係を確認して、それから、いや、待て。
「お待ちしておりました。」
まっすぐ俺に向かって歩いてきた黒いスーツ姿の男がそう言った。状況から、お待たせしましたでないということは、俺の方から出向いて行くべきはずだった相手だろうか。何にせよ、俺を知っているなら地獄で舟だ。
「あの、こんなことを言って信じてもらえるかどうか、俺、何も覚えてなくて、あなたが誰なのかも解らないんです。」
「そうでしょうね。でも違います。覚えていないのではありません。覚えていないのではなくて、君は何も知らないのです。」
全体何を言ってるんだ、こいつは。地獄で泥舟か。冗談にもならない。
「あなたは、いや、その前に、俺は誰なんですか。」
「どういう意味かな。君についての何が知りたいのか、質問の趣旨を明確にしなさい。」
何だか腹の立つ口調だな。
「すみません。少し混乱してしまって。そうですね、まず俺の名前を教えて貰えますか。」
「いいえ。その必要はありません。」
まあ、シュールな会話だこと。
「必要がないって、どういうことですか。俺は自分が何者か知りたいだけです。」
「いいですか。君は何も知らないんです。君自身について。君の名前さえ。僕は君を知っています。だから、君にとって何が必要か、君の目的、君の理由、それを知っているのは君よりも僕の方なんです。解りましたね。では、行きますよ。」
行くってどこへ。解らないよ。解るように説明したつもりか。
男は俺の右手から切符を奪い取ると踵を返して歩き出した。ついて行くしかないだろう。路線内に監禁されてしまうし、変な奴だが、少なくとも俺のことを知っているらしい。男はスーツの胸ポケットに切符を押し込むと、そのまま無人の改札を出て行った。
切符とはそうするものだったろうか。しかし切符を買ったのは恐らく俺で、多分ここを目指していたのだろうから、ここが仙宕から800の距離にあるのだと考えよう。800、結構な距離だが、途方もないほど遠くではない。尤も、それが俺に必要な情報なのか俺は知らないが。
頻りに振り返って俺の姿を確認しながら歩を進める男に続いて俺は駅を出た。個人経営であろう小さな商店も点在しているが、至って静かな住宅街だ。真新しい建築は稀で、土地に余裕はあるようだが、殆ど重なるようにして並ぶ年季の入った小さな住宅が窮屈そうに見える。箱の隅に寄った大福みたいだ。
丁字路の突き当たりに建つ比較的新しい家屋の前で、二人の中年の女が話をしている。それ以外に人通りはない。気になるのは、その家の屋根に金属製の矢が突き刺さっていることだ。女たちもそれについて何かを論議しているらしい。
「白羽の矢ですよ。あのお宅には今年十四歳になるお嬢さんがいますから。」
相変わらず意味不明の説明を施して、スーツの男は女たちの方へと進みながら声をかけた。
「また嶋さんのところですか。」
二人の女は一瞬俺を見たが、すぐにスーツの男へ向けて解説を始めた。
「これで三人全員。」
「お気の毒に。」
もう一方の女が言う。そして憐れむような、それでいて軽蔑するような、まるで路上の死んだ猫を見るような目でその白羽の矢とやらを見つめる。
「可愛い子なのにねえ。きっと美人になったと思うわ。」
よく解らないが、不幸のあったことを知らせる道具なのだろうか。
「失礼なことかもしれませんが、白羽の矢って何ですか。」
鋭い視線が俺に向けられる。やはり訊くべきではなかったか。
「新しい人なんですよ。」
男は声を上げて笑い、女たちに説明する。どうやら本当に可笑しかったようだ。全く状況が理解できないが、女たちも極まり悪そうに笑顔をつくると、一人がやや高い声で、やけにはっきりと発音して言った。
「ごめんなさいね。どれくらいになるの。」
どれくらいって何が。
「八枚です。」
男が答えた。何の単位だろう。それを聞いた女は目を細めて、ゆっくりと言う。
「そう。解らないことがあったら、何でも訊いて頂戴ね。」
ここには解らないことと腹の立つことしかないようだ。
「白羽の矢って何ですか。」
「ああ、そうだったわね。献身のこと、教えてやってくださいな先生。」
女はスーツの男を先生と呼んだ。
「この街には鬼が出ます。鬼は人を食べますね。穏やかじゃない。そこで、年に一人、十四歳になる女の子が鬼を満足させることで街の平穏を保つ必要があります。白羽の矢はその献身に選ばれた証です。」
白羽の矢の意味は何となく解ったような気がするが、それ以外の部分が全部解らない。
「その鬼って何です。」
「鬼は鬼ですよ。人を食べる。知りませんか。」
駄目だ。話にならない。
「鬼に食べられるんですか。この家の子が。」
「違うわ。満足させるの。そんなこと言っちゃ駄目よ。」
厳しい語調で割って入った女をスーツの男が穏やかに制する。
「まだ九枚ですから。」
意味不明どころじゃない。支離滅裂だ。
「さっき選ばれたって言ってましたけど、誰かが選ぶんですか。献身って。」
「新しい人って、面白いこと訊くのね。」
女がスーツに微笑みかける。質問に答えるのはスーツの専権なのだろうか。
「そんなことを考えても無意味でしょう。選ばれるのは十四歳になる女の子だけです。」
だから何だよ。
「その十四歳の女の子っていうのはどうして。」
「伍堂様がそう仰ったのよ。」
今度は女が答えて、別の女が補足する。
「私たちを鬼から護ってくださるの。」
よく解らないが、そのロリコンのカリスマが同時に鬼ということか。食べるもいいが満足させるも生々しい。余程の実力者なのだろうか。
「伍堂様って何をしている人なんですか。」
「何をって?」
女は狐に抓まれたような顔をする。
「だから、議員とか、実業家とか。」
「実業家? どうして伍堂様がそんな、議員だなんて、伍堂様がなさることじゃないわよ。お金儲けだとか、権力を笠に着たりなんて、汚らわしい。」
「じゃあ何を――」
「さっき言ったじゃないの。私たちを護ってくださっているのよ。」
そこでスーツが割って入った。
「咎めてはいけません。まだ十一枚ですから。」
「別に咎めてはいませんよ。」
女は不服そうではあるが、非を認めるような調子だ。
解らない。町ぐるみで幼気な少女の体を差し出している対価は何だ。護ると言ったか。雇用、福祉、交通。鬼。まさか。
「護ってくださるって、鬼からですよね。」
俺がそう尋ねると二人の女は急に目を輝かせた。
「そうよ、解ってるじゃない。」
「偉いわ。立派だわ。」
嫌に腹が立つが構っても仕方がないのだろう。
「鬼というのは、人を食べる。」
「素晴らしいわ。」
「まだ来たばかりなのに、ねえ先生。」
「うん。平均より一枚は早いな。」
女たちは一度顔を見合わせて、次いで愉しげに拍手を始めた。スーツも一応それに続いた。
「一人の女の子が、鬼を満足させる。」
この俺の一言で拍手が止んだ。一瞬の沈黙。
「しかし、そうしなければ、結局その子だって助からないんですよ。悲しいですが、現実から逃げては何も解決しません。」
スーツが諭すように言った。
助からない。どうして。鬼。頭から信じ込んでいる。馬鹿な。
「鬼を、見たことがありますか。」
「え? ないわよ。だって伍堂様が護ってくださっているんだもの。見るわけないわ。ねえ?」
呼びかけられたもう一方の女は無言で大きく二度頷いた。二人とも、全く意外の質問に驚いたという様子だ。
「それなら、どうして伍堂様が護っているって判るんですか。」
「伍堂様を疑うのはいけないことですよ。」
スーツが悲しげに言った。女たちは質問の意味が解らなかったようだ。それでいて犬の躾に手を焼く愛犬家よろしく困惑の表情を俺に向ける。どうなってる。対価はないのか。何の為の犠牲だ。
「見たこともない鬼の為に、女の子の犠牲を?」
「それは、」
女が言い淀む。
「私たちにだって、その心配はあったし。」
「町の平穏の為だもの。」
もう一人の女が小さく呟いた。
「十四枚。おめでとう。君は独立だ。」
スーツが唐突に言った。毎度お馴染みの不可解発言である。
「独立って?」
「独立は独立だよ。それくらい解るだろう。」
スーツは苛立ちを顕わにした。言動が理解不能だが、今に始まったことではない。
「実は鬼がいないとは考えないんですか。」
「何ですって!」
女の一人がヒステリックに叫んだ。
「伍堂様のご苦労を侮辱するだなんて!」
一方の女が泣き出した。
「その伍堂様に騙されているとは――」
「反逆罪だ。」
スーツが後ろ手に俺を押さえ付けた。
「テロリストよ!」
「悪魔だわ!」
どこから集まってきたのか、不気味なほど静かだった通りに続々と野次馬が群がってくる。そして駅前にいつの間に用意されているのは断頭台である。
そんな馬鹿な話があるか。まだ謎がひとつも解明されていないではないか。小説として成立していない。それどころか、物語の体裁を成していない。ここで俺が死んだら全くのナンセンスだ。俺がここで死んでいいはずがない。そんな小説はありえない。第一、記憶喪失譚でありながら、まだ記憶を失った理由が明かされていないではないか。
しかしそれを作者に尋ねたら、作者はきっとこう答えるだろう。そんなこと、私だって知らないよ。
大勢の男たちに押さえ付けられて、頭が納まるべき場所に収まる。群集の興奮が熱を増す。聞き取れない言葉が飛び交う。今まで何人の少女が献身に出たと思っているんだ。自分は伍堂様に護られていながら。そんな声。
スーツの男が大きく息を吸い込んだ。
「死刑を執行する。」
歓声が挙がった。