02 チャンスと決意(上)
緑の葉が赤や黄色へとその色を変え始め、辺り一面が秋らしくなった並木道を、あたしは足早に突き抜けた。足元ではカサカサと落ち葉が音を鳴らし、橙色の陽の光が淋しく辺りを染めている。
急がないと……。
チラリと見たお店の時計の針は、六時を少し過ぎていた。いつもだったらとっくに家に着いていて、自室で勉強をしている時間だ。あたしは遅くなってしまった原因を思い出し、心の中で舌打ちをした。
それは放課後。日直の仕事を片付けていたときだ。
日誌を早々に書き終え、あとは教室の環境整備だけだと、まだ教室に残る数名の生徒を横目に席を立とうとしたとき。とっくに教室を出ていった担任が、ふらりと戻ってきたのだ。そして、あたしを見つけるとほっと息を吐きながら近づいてくる。
「よかった。松田さん、まだ帰ってなかったんだね」
「……はい。日直だったので」
何となく嫌な予感を感じながらも頷けば、担任は納得したように笑みを浮かべた。
「そっかそっか。今日の日直は松田さんだったね。もう全部終わったの?」
「いえ、教室の環境整備が」
「あーそれはね、もういいよ。今日は珍しく整ってるし。それよりも、ちょっと松田さんにお願いしたいことがあるんだけどいいかな?」
その顔に笑みを浮かべながらも、あたしの言葉を遮ったりと少し焦った様子の担任に、嫌な予感が高まる。だけど断るなんてできるはずもなく、あたしは小さく頷いた。
「よかった。じゃあ、荷物全部持って着いてきて。キミたちも、用事がないなら早く帰りなさいね」
「はーい」
「センセーじゃーねー」
「さようならぁ」
スタスタと足早に教室を出ながら、後半は残っていた生徒達に向けて言う担任。そんな担任に笑顔で手を振る生徒達。
あたしは手早く鞄に教科書類をしまい帰り支度を済ませると、鞄と日誌を手に担任の後を追いかけた。
「ごめんね、松田さん。急にお願いだなんて」
「いえ……」
廊下の少し先で待っていた担任は、ゆっくりと歩きながら申し訳なさそうに眉を下げた。その顔にさっきまでの笑みは無く、嫌な予感が確信にかわる。
あたしは担任の斜め後ろを歩きながら、こっそりと息を吐き出した。いったい今度は何をやらかしたんだ、義姉は。いろいろと思い当たる要因がありすぎる。
担任の後についてたどり着いたのは、やっぱり進路相談室。
「松田さん、佐々木先生を呼んでくるから、ここで待っててもらえるかな?」
「はい、わかりました」
「ほんとごめんね。急いで戻ってくるから」
そう言って職員室に向かって足早に去っていく担任。その後ろ姿を見送って、あたしは進路相談室のドアを開けた。とたん湿気とカビと埃の混ざったような、なんとも言えない臭いが流れてきてあたしを包み込む。
あたしは教室に体を滑り込ませると、そっとドアを閉めた。
きっと五分もかからず戻ってくるでしょ。相手は義姉の担任だし。いつもの席に座りながら、そっと息を吐き出す。
それから数分。音をたてて開けられたドアに顔を上げれば、疲れた表情をした義姉の担任がいた。
「待たせてごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です」
小さく首を振れば、義姉の担任は眉を下げて微笑み、あたしの向かいの席に腰を下ろした。そして手にしていた書類を机に置く。
「あのね、真由美さんの事なんだけれど……」
「はい」
「……彼女は今三年生でしょう? 透夏さんも二年生の先生方からお話を聞いていると思うけど、今の時期って自分の進路をしっかり決めて、それに向けて努力しなくちゃいけないのよ」
「それなのにね……」とため息混じりに呟いて、義姉の担任は一枚の紙をあたしに見せた。それは、白紙の進路希望用紙だった。氏名を書く欄には、松田真由美、と書かれている。
ここまでくれば、呼び出された理由も、義姉の担任があたしに頼もうとしている内容も想像できる。あたしは吐きそうになったため息をグッと堪えた。
やっぱりろくでもなかった。いや、義姉に関する事でまともな事なんて、一度もなかったけどさ。それでもさすがに……。
「白紙……」
「実はね、これが初めてじゃないのよ。夏休み前の調査の時も、夏休み明けの調査の時も、彼女白紙で提出したの」
「…………」
「でも、一学期初めの時は書かれていたから、もしかしたら何か考えるようなことがあったのかもしれないって、思っていたのよ。面談でも、そんな雰囲気だったし……。だけどさすがに、この時期になっても何も決まっていないのは大変でしょう?」
「そう、ですね……」
小首を傾げる義姉の担任に、小さく頷く。
それなりに学力があるなら、ギリギリに志望校を決めてもなんとかなるだろう。だけど相手は義姉だ。なんとかなるだなんて言ってられない。
推薦なんてとれるわけないし、AO入試なら既に手遅れ。一般入試しか道はないのに、まだ志望校すら決めていないなんて……。義姉はいったい何を考えているんだろう。
いや、そもそも……進路の事、ちゃんと考えてるのかな。
「それでね、透夏さん。もし真由美さんが悩んでいるようなら、相談にのってあげてほしいのよ。ほら、真由美さんと透夏さんは歳が近いし、仲も良いじゃない? 卒業後の進路は、将来を大きく左右するものだし。真由美さんの力になってあげてほしいの」
義姉の担任の言葉に、思わず顔が歪みそうになった。「ダメかしら?」なんて首を傾げているけど、あたしに拒否権なんてないに等しいのに……。
松田の家族に入る条件として押し付けられた義務が、いつでもあたしを縛りつける。
「大好きなお姉様の力になれるのなら、喜んで」
あたしはいつも通り笑みを浮かべて、義姉の担任が求める返事をした。
その後、話も終わって帰ろうとしたところを、なぜか引き留められて……。ようやく解放されたのは、だいぶ時間が経ってからだった。おかげで急いで帰らなくちゃいけなくなったのだ。
家まであと少し。運悪く義母に遭遇でもしたら、嫌みを言われること間違いなしだ。それもこれも、全部義姉のせいだ。
あーあ、憂鬱。できることなら、このままあの家に帰らないで、どこか遠くに行ってしまいたい。
「はぁ…………」
玄関の前で息を整えて、それからそっとドアを開ける。
「ただいま、帰りました」
小さく呟いて、鍵を閉めて靴を脱いだら、できる限り気配を消して自室に向かう。義母は遭遇さえしなければ、あたしをいないものとして扱ってくれるから楽だ。気分で絡んでくる義姉とは大違い。
なんとか義母と遭遇せずに自室の近くまで来たとき、義姉の部屋の前に何か落ちているのに気づいた。お手伝いさんが徹底的に掃除をしているし、そもそもこの家でゴミが落ちているのを見たことがないから、ゴミじゃないのは確かだ。
「……なんだろう」
そばまで行って拾い上げたそれは、二つに折られた一枚の白い紙だった。なんの紙かはわからないけど、義姉の部屋の前に落ちていたんだ。たぶん義姉のだろう。
とりあえず、先に自室で着替えを済ませちゃおう。紙を持ったまま、義姉の部屋を通りすぎて自室に向かう。
あたしの部屋は、義姉の隣の部屋だ。だけど、義姉の部屋があたしの部屋二つ分はあるため、義姉の部屋のドアと、あたしの部屋のドアは、だいぶ離れている。
自室に着いたあたしは、鞄と紙を置いて、手早く部屋着に着替えた。
「はぁ…………」
これから義姉の部屋に行かなくちゃいけないと思うと、かなり気が重い。その上進路についても聞かなくちゃいけないなんて……。
「はぁ…………」
あたしは小さく息を吐き出すと、白い紙を片手に義姉の部屋へと向かった。
一度深呼吸をして、コンコンコンコンとドアをノックする。
「…………」
「はい」
「真由美さん、透夏です」
「……どうぞ」
ドアの向こうから聞こえてくる、傲慢さを感じさせる少し高い声。あたしはこぼれそうになったため息を飲み込んで、代わりに笑みを浮かべると、そっとドアを開けた。
義姉には似合わない、ピンクと白を基調とした可愛らしい部屋で、義姉はふかふかのソファにふんぞり返るように座って、あたしを迎えた。ツンと上向きの澄ました顔が、あたしの顔を見たとたんくしゃりと歪んだ。
「なんの用?」
嫌悪感を隠すことなく睨んでくる義姉に、あたしは困ったように眉を下げる。
「あの、真由美さんに聞きたいことがあって……」
「なによ」
下手に出れば、義姉は嫌そうな顔をしながらも、聞く体制をとる。義姉は、あたしを見下すことに喜びを感じているから。だから大抵のことは、こっちが下手に出れば楽に事を運ぶことができる。
さて、どうやって切り出そうか……。ヘタにオブラートに包んでも、義姉に伝わらなかったら意味がないし……。
「真由美さんは卒業後、どこに進むんですか?」
結局直球で聞くことにした。もしこれでキレられたら、その時はその時だ。表面上はしおらしくしながら、義姉がどう反応するか観察する。
しかし心配をよそに、義姉は訝しげに眉を寄せただけだった。そしてすぐに、あたしを見下せて嬉しくてしかたがないといった顔で笑った。
「なぁに? いきなり。わたしの進路が知りたいなんて、図々しいにもほどがあるんじゃない? ……まぁでも、教えて上げてもいいわよ」
「…………」
「進路はね、まだ決まってないの」
あたしをバカにした顔でクスクス笑う義姉に、無言で続きを促せば、進路が決まっていないことを自慢気に言われてしまった。
どう反応すればいいんだろう。決まっていないのは知っている。だってそれを義姉の担任に相談されたんだから。でもまさか、それを自慢気に言われるとは思わなかった。
「えっと……。それは……」
大丈夫なのか? 言葉にしなかった疑問に、義姉は更にバカにした顔であたしを見た。
「これだから一般人は……。いい? わたしのパパは政治家。そしてわたしはそのパパの娘よ。あなたと違って本物のね。そのわたしが、あなた達みたいに進路に必死になると思う? あり得ないわ。だってこのわたしよ?」
「…………」
「あなたでもわかるように、わかりやすく教えてあげる。いい? 世の中はね、わたしみたいな勝ち組のために回っているの。だから進学にしろ就職にしろ、わたしが行きたいと一言言えば、喜んで迎え入れられるの。わかる? わたしはあなたみたいに、必死に頼み込む必要がないの。逆に来てくれって頼まれる側なの」
開いた口が塞がらないってこういうことを言うんだ、って思ったのはこれで何度目だろう。本当に義姉は、何度あたしを唖然とさせる気なんだろう。
ひどすぎる。いったい何をどうしたらこんな思い違いをすることができるんだ。いくらなんでも、今回の妄想はひどすぎる。まさか政治家の娘だからと、どこでも好きなところに入れると思っていたなんて……。
「それは、誰から聞いたんですか?」
「なに? 変に期待させても可哀想だから教えてあげるけど、あなたはムリよ。松田の苗字をもらったからって勘違いしているみたいだけど、あなたはパパの娘じゃないの。わかる? あなたとわたしは違うの。わたしは勝ち組。あなたは負け組」
「…………」
「そんなに知りたいなら教えてあげる。あのね、才ある人は誰にも言われなくても、そーゆうことがわかっちゃうのよ。だって、わたしのために世の中が回っているんだもの」
「わかった?」と言ってツンと顎を上げる義姉。
いったいどうすればいいんだろう。これはもう、あたしの手には負えないんじゃないかな。痛む頭に、あたしはため息を飲み込んだ。
とりあえず、この件に関しては義姉の担任に任せよう。あたしには無理だ。だからさっさとこの部屋から退出することにする。
「えっと、教えてくれて、ありがとうございました。真由美さんの話が聞けてよかったです」
「そう。ならさっさと出ていって。わたし、いつまでもあなたの顔を見ていたくないの」
「はい。…………あ!」
「なに? まだ何かあるの?」
嫌そうに顔を歪める義姉に近づく。危ない、危ない。すっかり忘れてた。あたしはずっと持っていた紙を、義姉に差し出した。
「これ、真由美さんの部屋の前に落ちていました。真由美さんのですか?」
「…………」
義姉は紙を奪い取ると、それを広げ、次の瞬間すごい形相であたしを睨み上げてきた。
「いったいなんのつもりよ! こんなくだらないことして! 嫌がらせのつもり?!」
「え……?」
「出てって。……早く出てってよ‼」
紙をくしゃくしゃに丸めて投げ捨て、真っ赤な顔で怒る義姉。何をそんなに……。あたしは困惑したままとりあえず紙を拾って、部屋から退出する。
廊下に出てドアを閉めると同時に、ドアに何かがぶつかった鈍い音が。
……危なかった。あと少し遅かったらあたしに当たってた。たぶん音からして、義姉の机にあった使われていない辞書だと思う。
その後も、ゴン、ゴンと続く音を背に、あたしは足早に自室に戻った。




