『夢の』かなたへ!
さあ伝えておくれ、ツカサが来ると。
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自宅警備を再開して3日、俗世ではいったいどんなことが行われているのやら。ケータイには幾度となくハタケから電話なりメールなりきているが無視、いや敢えて返事をしなかった。
ハタケに彼女ができたことが悔しいからじゃない、決して。絶対に、絶対に、絶対に違う。俺はただ、浮き世の穢れが嫌になっただけなのだ。
「そうさ、ウフフ……」
画面の向こう側にいる可愛い彼女を見やる。ああ、こんな清楚で、お淑やかで、それでいて積極的に話しかけてきてくれる女の子がいたらなぁ。
暗幕のかわりとばかりに閉ざしたカーテンから西日が入る。おお、もうこんな時間か。私はあらかじめ買っておいたクリスプを開け、それを食べながらアニメイション視聴七週目に突入した。
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俺を知る人間ならいざ知らず、知らない人は不思議に思うだろう。何故、こんな不健康かつ退廃的な生活が俺に許されているのかということを。
理由は単純明快、両親が放任主義にしてまったく私の行動に文句を言わないからである。そもそも父は仕事で一年中日本を飛び回っているし、母も文筆業を生業とする悲劇としてアンバランスな、まあ昼夜逆転だとかそういう感じ、とても俺をかまっている余裕などないのだ。
自由放任だから、俺は自室にこもることが許される。食べるものだってそう、母は常に死んだ魚のような目をしていて食事を作ることなんてない。だから適当にジャンクフードを食べることだって許される。
あれ、思えば俺ってかなり充実した生活をしているんじゃ?
そう思えてくると、なんだが元気が出てきた。だから俺は一層気合を入れて目の前の画面を注視することにした。目が痛くなったって、何の栄養剤を使えばどうにかなる。今はとにかく、脳裏に彼女の笑顔を焼き付けることだ!
しかし、さすがに一日中ぶっ通しで画面を眺めていると目もそうだが、肩もこる。私はマッサージがてら身体を動かしながら時計を見た。時刻は既に夜中の十一時になっていた。あと一時間で明日、明日は土曜日、休日だ。
休日か。ハタケは、もしかしなくても彼女とデートだろう。あいつはあれで、人に優しいからな。きっと良い彼氏になるだろうな。まったく彼女さんも運がよい。
しかし、そうなると私がハタケと遊ぶ時間も必然的に少なくなるんだな。それは何というか、寂しいものだ。いや、別に俺はハタケが好きなわけではない。
そうさ、俺は一人で生きていける。そんなにクヨクヨすることもない。画面の向こうとはいえ大好きな人がいる、混ざることはできないけれど楽しい世界がある。これ以上望んではバチが当たるというものだ。
「よし、頑張って最後まで見るぞ!」
気合十分、両頬を叩いて再びテレビの前に座る。ついでに近くに転がっていた炭酸飲料を手にして、それとなくペットボトルを上に掲げた。
「このろくでもない世界に乾杯!」
そうさ、ろくでもない。浮き世なんてろくでもない。俺だってどうせ、ろくでもない。
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フローリングの硬い感触が私を起こした。うむ、気合を入れたというに寝落ちしていたらしい。見れば画面はとっくにタイトル画面に戻ってしまっている。
「あ痛たた……」
軽く背伸びをしてみるが、どうにも身体が鉛のようだ。思えばこの数日、外にも出ていなかったから身体が『なまって』いるのだろう。プレイヤーとテレビの電源を落とした後、私はふと散歩に行こうと思った。
あまりになまった身体が運動することを要求している。時間は、俗にいう丑三つ時ってやつだが気にしない。トレーニングウェアに着替えて部屋を出る。そのまま階段を下って廊下を抜けようとして、リビングに薄っすらと明かりがついているのに気づいた。
「やれやれ」
リビングに入ると案の定、蛍光灯を炯々とつけて眠る母の姿があった。成る程、俺は母親似らしいなと思いつつ、私は机に突っ伏して眠る母の背に毛布をかけてやり、蛍光灯を消した。
とたんに暗くなって足元がわからなくなったが慌てない。むしろ今まで暗い所にいたから夜目のほうがきくというものだ。私は抜き足差し足忍び足でリビングを後にして、玄関でランニングシューズに履き替えて外に出た。
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気持ち悪い、とか、気色悪い、とか、腐れオタク、とか昔から女子に散々言われてきたものだ。むしろその罵倒が気持ちいい、わけはないがとにかくその罵倒のなかに『デブ』がなかったことを俺は誇りにしたい。
突出したところがあるわけではないが、まあ運動はそれなりにこなせる方なのだ、わりと。自前でトレーニングウェアやらランニングシューズを持っているのは私の趣味が深夜徘徊、ではなくてランニングだとか散歩であるからで、実にこれは健康的なことだと思う。
五月とはいえ、外はまだ寒かった。しかし軽く柔軟をして、走りだしてしまえば寒さなどどこかにいってしまう。今はめくるめく景色を楽しむ余裕もある。
「はっはっはっ、見よやこの走り! これでどうしてキモいオタクと馬鹿にされよう!」
深夜も深夜、路上には俺しかいないから何だって言える。これは実に愉快なことだ。心拍数も次第にあがってきて、テンションも高くなってきた。更に速度を上げて走る、走る。今なら時速60キロくらいで二千メートルくらいを余裕で走れそうだ。もちろん下は芝生で!
「アハハ! アハ、アハハッ……?」
深夜の恐ろしく高いテンションの俺だったのだが住宅地を抜けたすぐ先、そこは土手になっているのだが、見知らぬ影がある。
「この俺より先に深夜徘徊しているやつがいるだと?」
俺は足を止めて、慎重にその影を見た。夜目はいかんなく発揮され、やはりそれが枯れ尾花ではないことがわかった。
「人、だな……」
参ったな、これから土手の上を全速力で走ろうと思っていたのに。まあ深夜だし、気軽に「やあ、こんな時間に運動とは大変だね、HAHAHA!」とか言えば大丈夫だろう。根拠などあるものか、とにかく俺は土手に上がった。
みるみる影がはっきりと人になり、そして俺は凍りついた。古い映画のワンシーンを見ているようだった。
その影は月明かりを舞台に踊っていた。俺はその姿を見て思わず、
「フェアリー……」
と言っていた。その影、まさしく俺が理想とするような美しい、可愛い女の子が踊っていた。俺はそのまま間抜けにも女の子を呆然と見ていた。
しかしそれもすぐに終わった。どうやら女の子もこちらに気づいたらしく、俺のほうを見て何かを口にしたようだった。
「……は!」
俺も我に返って、とっさに女の子のほうに近づいた。すると今度ははっきりと女の子の声が聞こえた。ただしそれは悲鳴だった。決して黄色くなかったと言っておこう。
「へ、変態よっ……!」
女の子がそう言ったのがはっきりとわかった、と同時に何かが俺に向かってやってきた。ゴン、と鈍い音を立てて何かが俺の額を襲い、勢い余って俺はもんどり打って川沿いのほうへ転がり落ちた。
「ぐぅ……。何なんだ、いったい!」
痛む額を押さえるとあらびっくり血が流れていた。まあ、顔はちょっとした怪我でもよく血がでるからな。じゃなくて!
俺は立ち上がり、さっきまで立っていた場所に駆け上がった。しかし無駄足だった。
「いない、に決まっているわな……」
鈍い痛みが額に残る。走ったせいで余計に血も出ているようだ。だが、そんなことはどうでもいいのだ。せっかく理想の女の子に出会えたというのに、せめて名前でも聞けていれば……。悔しさに俺はうつむき、
「うん?」
路上に何かが落ちていた。ああ、これが俺の額を直撃したものか。俺はそれを拾い、思わず笑ってしまった。
「アッハッハ、なんじゃこりゃ!」
それは硬球だった。もちろん俺の血糊つき。何故月明かりの下で踊る女の子が硬球を持っていたのか、わからんが、そのコントロールやあっぱれ。きっとうちの高校の野球部に入ればエースになれるね。
ひとしきり笑ったところで俺は硬球をポケットにしまい、帰路についた。素敵なパーティー・ナイトに俺はおおいに満足だった。やはり可愛い女の子は大正義、しかも怪我まで負わせてくれた。こんなに楽しい夜はない、アッハッハ……。
でもやっぱり、硬球がぶつかると痛いな……。