プロローグ
その日は久々に、家族全員が揃った日だった。
日が沈み始め徐々に薄暗くなってきた頃、エリーヌは今晩の食事を作りながら、背後で楽しそうに会話をする夫のウィリーと一人息子のアルヴァに声をかける。
「もうすぐできるから、出来上がったものからテーブルに運んでくれる?」
エリーヌの声に、真っ先に反応したのはアルヴァ。
両親が大好きな彼は、どちらが呼びかけてもいつでも喜々として応える。そして今日も例外なく、少し長めの黒髪を揺らしながらエリーヌの元へ近づいた。
その様子を見たウィリーが苦笑しながら、アルヴァの後に続く。
キッチンのすぐそばにあるマホガニーで染められた木製のテーブルには、すでにエリーヌが作り終えた料理が置かれていた。
大きな鍋には、ウィリーもアルヴァも好んでいる野菜スープ。そのそばに置かれた大皿には、ハーブと塩胡椒で味付けされた程よく焦げ目のついたチキンが、レタスの上に並べられていた。その横には色とりどりの野菜を使ったサラダもある。
「今日はご馳走だな」
ウィリーは目を細めて、嬉しそうに言う。
「久しぶりだよね、三人揃ってご飯を食べるの!」
15歳になったばかりのアルヴァは、まだ幼い顔に満面の笑みを浮かべながら、スープの入った鍋を持った。
食卓にはすでに食器が並べられ、その中央には鍋敷きがおいてある。
そこに鍋を置いたアルヴァは、残りの料理を運んでくる両親を眺めながら席に着く。
研究者として多忙な毎日を送る両親はなかなか同じ時間帯に帰ってくることがなく、アルヴァ1人だけになることこそ少ないものの、二人揃うことが稀である。
両親は申し訳なさそうな顔をするが、アルヴァは十分に愛情を貰っていることを自覚していたこともあり、淋しいと思ったことはほとんど無い。
少しでも休みができればアルヴァとの時間を優先し、どんな小さな話でも楽しそうに聞いている。誕生日やクリスマスには必ずプレゼントに手紙を添えてアルヴァに渡す。
そんな両親に不満を持ったことなど無く、陰ながら仕事を応援していた。
「母さん、父さん、早く」
アルヴァの弾んだ声が二人を急かす。
待ちきれないといった様子のアルヴァに、両親は揃って笑みを零した。
「はいはい」
笑いを含んだ声でエリーヌが返事をすると、それに続いてウィリーがアルヴァの頭をくしゃりと撫で、手にした料理の皿を置いて向かいの席に着いた。
三人揃ったところで手を合わせて食事をはじめる。
「おいしいよ、母さん。さすがだね!」
野菜スープを一掬いして飲んだアルヴァは、喜々として感想を述べる。
そんなアルヴァに、エリーヌも嬉しそうに笑う。
「ありがとう。たくさん食べなさいね」
「うん!」
「アルヴァ、俺の分まで食べるんじゃないぞ?」
「そんなことしないって」
ウィリーのからかいに、アルヴァは少し顔を赤くしながら否定する。
「はははっ、そうだな」
「アルヴァが人の分まで食べてしまうなんてこと、するはずないわ」
両親は、アルヴァのことを優しくて自慢の息子だと言う。
アルヴァは大好きな二人のことを考えると自然となんでもしてあげたくなり、ちょっとした手伝いでもすすんでしている。
それを二人はいつも喜んでいた。
食事もそろそろ終わりに近づいて他愛もない話で盛り上がっていたとき、家のドアが開くような音を微かに聞いた気がして、アルヴァは首を傾げた。
「どうしたの、アルヴァ」
その様子に、エリーヌが不思議そうに聞く。
「ドアが開いた音が聞こえた気がしたんだけど、気のせいかも」
「鍵は閉めたわよね?」
「ああ」
最後に家に入ったのはウィリーだったが、注意深い彼が鍵をかけ忘れることはまずない。
そもそも、研究者でありながら魔術師でもある両親は、家の鍵を個人特有の魔法でなければ開かないようにしていた。
これは魔術師であれば誰でもすることであり、余程親しい相手には万が一の時に備え教えることもあるが、そうでなければ開けられるはずがなかった。
「じゃあ僕の気のせいかな」
「きっとそうだわ」
そう言ってエリーヌがアルヴァの感じている微かな不安を拭い去ろうとしたその瞬間。
「エリーヌ!」
ウィリーが侵入者に気づき、守るために魔法を発動するよりも早く、エリーヌの胸を何かが貫いた。
空を切る音と、肉を裂くような音が響いたのはほんの一瞬のこと。
アルヴァには、何が起きたのかわからなかった。
エリーヌは目を見開き、次の瞬間には床に倒れていた。
胸を貫いていたのは鋭い氷の刃だった。間違いなく魔法によるものである。
それを見て驚愕の表情を浮かべたウィリーだったが、すぐにその刃を放った相手を見る。
「一体何故……? 目的はなんだ!」
アルヴァを背後に隠しながら問い詰める。
しかし相手は何も返答せず、徐々にその距離を縮めていた。
ただただ呆然とするアルヴァの目に入っていたのは、黒いフードで顔を覆った二人の人物。
状況を理解できずにじっと見ていたが、ふと横たわるエリーヌに目を向けた。
苦しそうに喘ぐエリーヌの口からは血がこぼれ、貫かれた胸からはそれの比ではないほどの血が流れていた。
優しい母親の顔が、今は苦痛に歪んでいた。
「かあ、さん……?」
アルヴァはかすれた声で母親の名を口にする。
先ほどから、自分の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。
「大、丈夫……、だいじょうぶ、よ……」
息が漏れるような声で、エリーヌは苦痛に耐えながらもアルヴァを少しでも安心させようとそう言った。
「かあさ、っ、母さん! なんで、どうしてっ……!」
「アルヴァ! 俺の後ろに隠れていろ!」
声を詰まらせながら必死でエリーヌに呼びかけるアルヴァが動いたのを感じたのか、ウィリーが鋭い声で指示する。
その間にも、着実にウィリーとの距離を縮めていく目の前の人物は、次の魔法を放つべく空中に魔法陣を描き始めた。
魔法陣を描く必要のないウィリーは、咄嗟に魔法陣を描くその腕を石に変化させた。
「くっ……!」
相手は微かに声を漏らし、動かなくなった両腕をだらりとぶら下げる。
まだ一人、動ける者が残っている。
冷静にならなければと思う反面、ウィリーは早くエリーヌを助けなければという思いが先走り、冷静でいることができなくなっていた。
そんなウィリーを見透かしたように、ウィリーがエリーヌとアルヴァの様子を確認したその一瞬。
時間にしてみれば一秒にも満たない時間であったが、その隙をつき、エリーヌ同様に氷の刃を胸に突き刺した。
家族を守らなければ、という気持ちが仇となった。
ウィリーは呻きながら崩れていく。
それでも、アルヴァを守るために完全に崩れ落ちることはなく、表情を苦痛に歪めながら相手から目を離そうとはしなかった。
「父さん……! なんで……? 嫌だっ、ねぇ、早く逃げよう? ねえ……?!」
叫ぶアルヴァを見向きもせず、ウィリーは力を振り絞って魔法を再度発動させた。
重力を操るかのごとく相手の体を床にたたきつけると、そのまま圧力を加えていく。
「ぐっ……! ああっ!」
みしみしと体のきしむ音がした。
そして、数本の骨が折れる確かな音をアルヴァは耳にした。
「ああああああああ!」
相手は叫び声を上げ、そのまま意識を失った。
痛みから逃れようとしたためか、勢いよく頭を振ったためフードが脱げる。
アルヴァには一切見覚えのない男の顔がそこにはあった。
思わず凝視してしまったものの、両親が怪我していることを思い出してウィリーを見る。
「父さん! 早く、手当しないと……! ねえ!」
しかし、ウィリーは動かない。
「父さん……?」
アルヴァがその肩触れようとしたとき、ずるりとその体が床に倒れた。
既に床にできていた血だまりに突っ伏し、辺りに血が飛び散った。
「父さん! 母さん……? ねえ? 早く、手当、しないと……!」
エリーヌの手を握る。
その瞬間感じた異様な冷たさに、アルヴァは目を見開いて咄嗟に手を放してしまった。
「かあ、さん……?」
呆然とつぶやいたとき、ウィリーが弱弱しくアルヴァの手を握った。
「アル、ヴァ……。いいか、よく、聞け」
「父さん、話さないで! 今すぐ病院に……! 僕、連絡を……っ」
慌てて立ち上がろうとしたアルヴァだったが、それでもウィリーはアルヴァの手を放すことはなかった。
「もう、助から、ない……。いいか、アルヴァ、――――には、近づいてはいけない。なにが、あっても……。はやく、にげ、ろ」
言い終えたとき、ウィリーの腕が床に落ちた。
そのとき、アルヴァは両親の死を理解した。少し前までの三人で食事をして他愛もない話をして笑ってい
たあの時間は、もう二度と訪れないのだと。
そして、アルヴァの心臓が激しく脈打つのと同時に、急速に意識が遠のいていくのを感じた――。