第3話 -異界の森-
まるで生物のように蠢く異形の空の下、悠と朱音は呆然と立ち尽くしていた。
「嘘でしょ……?」
朱音が震えた声で呟く。
未だ現実を受け入れられないといった様子で、力無く空を見上げている。
異常に過ぎる状況を思えば、無理もないだろう。
だが悠は、自分でも意外なほど早く平静さを取り戻し周囲の状況を確認していた。
元々、異常な環境で育ったからなのだろうか、混乱はあれど不思議なほどに心は落ち着いており、冷静に状況を分析することが出来ている。
周囲には、ただ森が広がっている。
全くの無音という、それはそれで異常極まりない状況ではあるが、見た目上は何の変哲も無く、ただ草木や樹木が生い茂っていた。
空には月も星も見えないのに、何故か森には薄い明かりが差している。
ラウロの言葉を思い出す。
悠は、あの男の言葉を一言一句、声色まで全て完全に覚えていた。
瞬間記憶――視覚と聴覚を介した絶対記憶能力。
悠は、一度見たもの聞いたものを絶対に忘れることが無い。
悠が寿命と引き換えに有している能力の一つである。
原則として、他者には秘密にしなければならないものだ。
(異世界の……魔界で……魔族と戦う……魔道を使って……)
ラウロの言っていた内容は俄かには信じ難いが、今現在、信じられない状況に置かれているのは事実である。
悠には彼が嘘を言っているようには思えず、ラウロの言葉が全て真実であるという仮定の下で状況を考える。
「何なのよこれ、どうしろっていうのよ……!」
自失から回復した朱音が、困惑の呟きを漏らしていた。
落ち着かなさげにトントンと地面を叩いており、苛立っているのは明らかだ。
何か行動を取りたいが、その指針が見つからない。そんな様子に見える。
「……朱音さん」
朱音は、悠の言葉に振り向く。
その表情は弱り切っており、普段の強気で凛とした雰囲気は鳴りを潜めていた。
「……何よ」
その声も、迷子のように弱々しい。
どう行動すべきか。
悠は、自分なりに情報を整理した上で、最初の提案を口にした。
「まず、ここから移動しようよ。クラスの皆を探そう」
周囲からは人の声も聞こえない。
まだ気絶しているのか、あるいは少なくとも声の届くような範囲には誰もいないのか――どの道、ここに留まっていても埒が明かないように思える。
「……そうね」
朱音は、ため息と共に同意した。
「朱音さんは、あのラウロって人のことは覚えてる?」
森の中を進みながら、悠は朱音に問いかける。
地面には草木が生い茂っており、地面も凹凸状かつ転がる石や岩で非常に不安定で、運動神経の悪い悠にはかなり難儀する道なき道であった。
そして朱音は、悠の前を草木を掻き分けながら歩いていた。
当初は弱り切って元気の無かった朱音であるが、何度も転びそうになる悠のもたもたと頼りない様子を見ているうちに「まったく、鈍臭いわね……!」と苛立たしげな声と共に元の活力を取り戻している。
悠なりに男子としてのプライドは持ち合わせているつもりであり、女の子に働かせながら後ろを歩くというのは非常に不本意なものがあるのだが、身長は160cmにすら届かず、体重も50kgに満たない悠の体躯は、そのプライドを守らせることを許さなかった。
加えて、朱音の身長は160cmを僅かに上回り、悠よりも少しだけ高い。
更に朱音は、藤堂家に代々伝わる古武術の鍛錬を幼い頃から続けており、男子顔負けの運動能力を誇っている。
本来、男子の本領であるはずの身体能力は、朱音の方が何もかも上である。
これで頼りにしろと言う方が無理があるのかもしれない。
自分が前に出ても歩みを緩めるだけというのも事実であり、今は朱音の後ろをしょんぼりと付いて歩いている。
「そりゃ、忘れる訳ないわよ……フォーゼ……何だったかしら」
「フォーゼルハウト帝国?」
「そう、それ。何なのよ、そんな国聞いたことは無いわ。あの嫌味ったらしい男、きちんとした説明もせずに姿消して……このっ」
朱音は、憤懣やるせない様子で悪態を吐く。
彼女の足元の朽ちかけた低木が、悲鳴じみた音を立てながら踏み折られていった。
朱音の言葉はもっともであり、ほぼ最低限であろう情報しか与えられなかったのが悔やまれる。
だがそもそも、最低限の情報しか与えるつもりが無かったのかもしれない。
ラウロのテストという言葉を思い出せば、大いにあり得そうに思えた。
「あの人さ、あの黒い場所が地球と異世界の狭間だって言ってたよね」
「……言ってた気がするけど、あんたそれを信じてるの?」
朱音が、胡乱げな視線を悠に投げかけた。
が、同時にその目には、肯定したくない現実を目にしているような迷いや不安の色が混ざってはいないだろうか。
朱音も内心では分かっているのではないかと、悠は思う。
「僕だって信じたくはないけどさ、でもこれだけおかしなことが続いてるんだし、とりあえずあの人の言っていたことが本当だって前提で動いてみた方がいいと思うんだ」
見上げると、枝や葉の隙間からは相変わらず生物のように脈動する異形の空が見える。
地球では断じてありえない現象であり、光景だろう。
朱音も同じく空を見上げ、こめかみを押さえて眉を顰めながら忌々しげにため息を吐いた。
「……そうね、そういうことで話を進めましょうか……えいっ」
諦観を滲ませた声でそう言いながら、目の前の邪魔な草木を踏み倒す。
そうして彼女の進む跡には、一応は道らしきものが出来上がっていた。
後ろを歩く悠にとっては、非常に歩きやすい。
「そうなると、ここは地球じゃなくてセレスフィアっていう名前の異世界のはずなんだよ。そして僕達は魔界って場所で、魔族っていう何かと戦って、全滅させなきゃならないってことになるんだけど……」
魔界、魔族。
何れも、不吉な気配を帯びる単語である。
大抵の創作物では、それは人間に害を及ぼすものとして扱われるものだ。
そして、異形の空の広がるこの空間こそが魔界なのではないか。
「戦うって言っても、どうすればいいのよ……熊みたいのが出て来たら無理よ。お父さんじゃあるまいし」
朱音の父、藤堂正人の武勇は、その道においては相当に有名である。
官僚の道を歩んだことを惜しむ声も多かったらしい。
「やっぱ、朱音さんじゃ熊は無理なんだ?」
「当たり前じゃない、人を何だと思ってるのよ。あたしはお父さんと違って普通なの。せいぜいそこらの不良50人ぐらいが限界よ」
「……普通?」
「普通よ」
「普通かあ……」
奥深い概念だなあ、と奇妙な感慨が胸中に湧く。
「なんか微妙にムカつく表情ね……」
生温く微笑む悠を半眼で睨みつけ、朱音はつんと顔を前に向けた。
その先には、相も変わらない耳鳴りすら感じられる静寂と、数m先を包み込む闇夜が満ちている。
朱音はその景色を見渡しながら、怪訝に呟いた。
「それにしても……誰もいないわね」
「うん……」
こうして話している間にも歩を進めているが、未だに人の気配は無い。
この森がどれほどの広さなのかは分からないが、他の皆も目覚めていればクラスメートを探し回っているはずである。ここまで人の気配を感じられないのはさすがに違和感を禁じ得ない状況であった。
もしかしたら、この異常な空間に取り込まれているのは悠と朱音だけなのだろうか。
それは心細いことではあるが、同時に憂慮している一つの可能性が取り除かれることでもある。
「……魔族って言うからにはきっと危険な生き物か何かだと思うんだ。もしそんな怪物みたいなのがこの森にいるんなら、クラスの皆も危ないかもしれないし早めに合流しないと」
他のクラスメイトが、既にその魔族とやらに襲われて犠牲になっている――それが、悠が心配している可能性であった。
魔族とやらが現れる気配も全く無いのでやや緩んでいたが、他の皆が襲われているのだとすれば、悠達の前に現れない説明も付く気がする。
朱音は、そんな悠の物言いに振り向いた。
その眼差しは、どこか気分を害しているようにも見える。
「……あんた、クラスの連中を心配してるの?」
「そうだけど……」
悠の返答に、朱音の柳眉がつり上がった。
悠の肩がびくりと震える。
彼女は、何を怒ってるのだろうか。
「あんたを苛めてた連中と、見捨ててた連中よ?
……どこまでお人好しなのよ、馬鹿」
その口調には、明らかに刺々しい険が含まれている。
悠は、威圧感に顔を伏せながらも、おずおずと不安げに問う。
「……お、おかしいかな?」
悠としては、変なことは言っていないつもりである。
だが、悠の送った15年の人生は到底まともなものとは言えず、普通の人生を送ってきたであろう相手から否定されてしまうと、人生経験の極めて乏しい悠としては、不安を覚えずにはいられなかった。
朱音は、不満げに唇を尖らせながら、
「別におかしいなんて言わないけど……あんた、本当に連中に怒ったり恨んだりとかしてないの?
……いっつも反撃もせずにヘラヘラして、情けない」
「それは……」
粕谷達の苛め程度、あの研究所で受け続けた悪意と狂気の嵐に比べればそよ風にすら及ばない、ささやかなものだった。
粕谷は確かに攻撃的で短絡的な性格だが、人をローラーで足元から徐々に潰したり、数cm刻みで輪切りにしていくような真似はしないだろう。
別に気にしていない。何とも思っていない。
本心である。
それは朱音に対して何度も答えた言葉であるが、どうにも彼女は納得してくれないようだった。
そもそも悠は、人よりも怒りや憎しみといった感情に極めて疎いのである。壊れている、と言っても良い。
あの程度では何ら感情は動かず、別にストレスにもなっていないのだ。
(それに……やっぱり出来ない)
仮に反撃しようにも悠の腕力ではどうにもならない。地に伏し、朱音が助けに来る光景が目に見えるようだ。別にいつも一緒に行動している訳ではないのに、悠が手ひどく苛められていると彼女は何故か現れるのだ。
1度、わざわざ助けに来なくてもいいと言ったことがあるが、父から頼まれているのだから仕方がないだろうと一顧だにされなかった。
朱音が助けに来ることを分かって、女の子の助けを当てにして行動するというのは、あまりにも情けないと悠は思う。
少女のような華奢な身体に育ってしまった故か、悠は漠然と「男らしさ」とか「恰好良さ」というものに憧れていた。
少なくとも、女の子に助けられそれを良しする生き方はそれに真っ向から逆らうものだ。
粕谷達に苛められている現状が「男らしい」「恰好いい」かと言われれば否だとは思うのだが、それでも今の方がまだマシだと悠は思う。だが朱音に迷惑をかけてしまっていることも確かでとても申し訳なく、非常に悩ましい状況ではあるのだが……
「……ごめんね」
結論は出せず、悠は俯き曖昧な謝罪と笑みで応えるのだった。
それを見て、朱音は不機嫌に鼻を鳴らす。
「勘違いしないで欲しいけど、あたしは粕谷みたいな奴が大っ嫌いだけど、あんたみたいなタイプも嫌いなんだからね」
「うん、分かってるよ」
「……っ」
自分の言葉を肯定されて、なぜか彼女は更に面白くなさそうに唇を尖らせた。
彼女は俯いて、深々と嘆息する。
その背後の闇に、
蠢く影が、
「あ――」
悠の背筋に、ゾッとした寒気が走る。
熊のように巨大で、不気味な何かだ。
朱音を狙うように何かを振り上げるような動きをしており――
「――朱音さんっ!」
悠が切迫した声を上げ、
朱音に飛び付くようにして、棒立ちの彼女を突き飛ばした。
予想もしていなかっただろう不意打ちに、朱音はあっさりと転び尻餅をつく。
「きゃっ!?」
そんな朱音の頭上を、砲弾が駆け抜けるような風圧が通過する。
先ほどまで朱音の身体があった位置には、
彼女を突き飛ばした悠の身体が、
悠の腹部に衝撃が奔り――そのまま突き抜けた。
筋肉が千切れ、内臓が潰れ、背骨が砕ける。
「……ごふっ!」
血に濡れた呻きが喉から漏れた。
腹部の筋肉や内臓を潰され、引き千切られる痛みが、悠の脳を焼いていく。
胃液混じりの血液が、腹の穴から零れていた。
何かが、自身の腹部を刺し貫いただと、悠は灼ける思考で理解する。
そのまま、信じられない力で身体を軽々と持ち上げられた。
悠の身体は血を溢しながら空中に吊るされ、地面の朱音を見下ろす。
「えっ……あ……ぁ……?」
朱音は、悠に突き飛ばされ尻餅を付いたまま、悠の無残な姿を見上げていた。
まだ事態に頭が付いて行っていないのだろう、その表情はまるで夢でも見ているかのように呆然としている。
「あ……かね……にげてっ……」
悠の、絞り出すような血に濡れた声に、朱音の意識がようやく現実を受け入れ始めた。
同時、それを否定するように頭を振り、その眼からは涙が溢れ始める。引き攣るような嗚咽が、その喉が漏れていた。
「うそ……悠……悠……!」
朱音の滲んだ瞳は、悠の後ろへと向けられた。
即ち、悠の腹部を刺し貫き、その身体を軽々を持ち上げる凶行の振るい手へと。
悠もまた、紅黒く濁った思考と視界の中、それを見ていた。
朱音が、絶望的な呻きを漏らす。
「……ひっ!?」
異形が在る。
人と蜘蛛の合成生物――と表現すれば良いのだろうか。
人間のような頭と胴体から、蜘蛛のような3対の脚が生えている。全身は石膏像のように無機質な肌で覆われており、その皮膚の下には紫色の血管が走り、脈動している。
その顏には口も鼻も耳も無く、ただ丸い頭部に無数の眼が開いていた。
全長は3m程度だろうか、樹木に脚を突き刺してその巨体を固定し、無数の眼で悠と朱音を睥睨していた。
悠は、その威容を見た瞬間に理解した。
魔族――この異形こそが、そうであると。




