第5話 ―雨宮 玲子―
「ああ、それたぶんマジモンの皇帝陛下じゃないかしら」
「…………え」
玲子のあっさりとした返答に、悠は絶句していた。
あの場に取り残された悠達は、釈然としない気持ちを抱いたまま、食堂へと戻って来ていた。
後で、ベアトリスの講義を受けていた誰かに中での顛末を聞いてみよう。
他の古参のメンバーはそれぞれにやる事があるのか、昼食の食堂で待っていたのは玲子だけであった。
皆も、いつも食堂で食べている訳でもないらしく、昼食は各々で別の場所で済ませているようだ。
「アリスリーゼ・フォーゼルハウト。御年16歳の、現フォーゼルハウト帝国の皇帝陛下。歳の割には小柄だって話よね」
……あれで年上だったのか。
年上相手に、まるで子供を対するような態度で接してしまった。
人を見た目で判断するのは良くない。今度からは気を付けよう。
いや、というか帝国のトップにえらく失礼な態度を取ってしまったのでは。
不敬罪で処刑、なんて事にはならないだろうか。
嫌だ、死にたくない。
そんなことを考えながら脂汗を浮かべて押し黙る悠に、玲子は苦笑を漏らした。
「悠君の心配しているようなことにはならないと思うわよ? 今の皇帝陛下は、傀儡の皇帝だもの。実権なんて殆ど無いわ」
「……傀儡政権ってことですか?」
魚の小骨を几帳面に取り除いていた朱音が、玲子の言葉に反応する。
失礼な話だが、確かにあの少女では国のトップは務まらないような気がする。
単なる見た目の話だけではなく、どうにも頼りない印象があった。
玲子は、手に持ったスプーンで「まる」を描いた。
「そ。今の帝国の実質的な支配者は、帝国宰相リヒター・ファーレンハイト。
帝国創設からの重鎮、大貴族ファーレンハイト家の当主よ。
筋金入りのフォーゼ人至上主義者で、多民族の融和を目指した先代皇帝を失脚させて、アリスリーゼ陛下を傀儡にしている張本人。
……そして、先代皇帝の時代に停止させられた異界召喚制度を復活させて、あたし達を巻き込んだ黒幕よ」
あっさりと、玲子は元凶の名前を口にした。
「……じゃあ、その野郎が全部悪いってことっすか!?」
冬馬が、憤りも露わに唸る。
他の皆も、それぞれに怒りを見せていた。
玲子は、頬杖を突きながら難しい顏をしている。
「んー……まあ、他にも色々といると思うけどねー。既得権益を守りたい帝国貴族や軍人、商人とか。りあえず、トップにいるのはそいつ。ちなみに、あのラウロはリヒターに重用されている腹心よ。魔道省でも実質的にトップのような立場にいるみたい」
あの能面のような笑みを思い出し、悠は若干の不快感に襲われた。
あの男を部下に従えるリヒターという男、一体どのような人物なのだろうか。
「そのリヒターって奴がいなくなれば、あたし達は解放されるかもしれないってこと?」
朱音の問いに、玲子は「ふふん」と妙な笑みを浮かべた。
待ってましたと言わんばかりの得意げな笑みだ。
「さーて、どうかしらねぇ……」
そしてちらりと、ルルへと目を向けた。
ルルはその視線を受けて目を伏せ、席を立つ。
「ユウ様、私はお部屋の掃除をして参ります。
今朝は慌ただしかったもので、また散らかっておりますし」
「えっそれなら――」
――後から、僕も手伝うのに。
そう言おうとするが、ルルはその細い首に付けられた首輪を指し示し、ウィンクをして見せる。
そしてそのまま一礼すると、颯爽とした足取りでその場を去って行った。
その様子を見て、玲子が小さく口笛を吹く。
「気が利くぅ。悠君、“当たり”を引いたわねー」
ルルが気を利かせた。
つまり、これから先の話題は帝国側の人間であるルルがいては都合の悪い話ということだろうか。
それは、ルルが帝国に属する信用のならない人物であるという認識に基づく理屈であり、ルルも自身がそう認識されているという自覚の上での行動だ。
それは、少し寂しい。
当の悠自身は、昨夜の彼是ですっかりルルを信じ切っていた。
あの森で、共に命をかけて戦い生き抜いた仲である。
それに……あれほど肌を合わせたばかりの相手に気を許すなというのは、昨日まで童貞だった悠には無理な話である。未だに彼女の身体の柔らかさや暖かさが腕の中に残っているような心地だった。
(……ちょろいかなぁ、僕)
そんなことを思いながらも、悠はルルを弁護するための言葉を整理していく。
玲子もルルも、大事な仲間で友達だと思っている。仲良くして欲しかった。
「あの、玲子先輩。昨日ですね――」
悠は、昨夜のルルとの会話の内容を皆に話した。
ルルは、奴隷としての立場からの解放を目的とはしていないこと。自身の目的のために悠達とは信頼関係を結びたいと思っていること。そして、ある男を殺すことを目的としていること。昨夜、ルルから口外しても構わないと言われた範囲の全てを語り聞かせる。
……何をしていたか、までは話さない。話せる訳がない。
朱音の機嫌がみるみる悪くなっていく気配があった。
とても面白くないことを思い出した。そんな表情をしてむっつりとしている。
気持ちは分かるから、どうか妙な事を言わないで欲しい。お願いだから。
悠はそんな願いを抱きながら、ルルを信用してもいいのではないかという自身の意見を皆に告げた。
「俺も、ルルさんはいい人だと思うぜ」
「大人っぽくて綺麗だし、優しいよね」
「何で奴隷に何てなってるんだろうなぁ」
元よりルルに対して好意的だった冬馬達は、悠の意見に賛同してくれる。
真面目な顏で悠の言葉に耳を傾けていた玲子は、
「ふーん……」
何とも言えない相槌を打ちながら、
テーブルの上の置かれた紙を、指でトントンと叩いていた。
「……?」
皆の注目が、紙の上に集まる。
その紙には、何も書かれていなかった。
玲子は、その紙上に鉛筆を走らせる。
……汚い字だ。それも中国語みたいに、全て漢字であった。
今朝、彼女が書いていた文字はもっと流麗な綺麗な字だった気がする。
玲子が鉛筆を走らせながら、ぽつりと言う。
「悠君さあ、昨日ルルとエッチしちゃった?」
「「ぶっ!?」」
悠と朱音、二人が吹き出した。
朱音は、目と口を大きく開き、ワナワナと震えている。
「な、なな、何言ってるんですか……!?」
悠は唖然として玲子の顏を見遣ると、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべ、相変わらず紙上をトントンと叩いていた。
そこには先程と同じく汚い字で書かれた漢字の羅列がある。
読めないし意味が分からない。
悠はその意思を、首を傾げることで伝えた。
「ど・う・な・の?」
そして玲子は紙上に、新たな漢字を書き加えた。
それは彼女の言葉に合わせて書き込まれた漢字であり、
「ど」と発音した時には「怒」
「う」と発音した時には「宇」
「な」と発音した時には「菜」
「の」と発音した時には「野」
と書き記されている。
……漢字を使って、言葉を作っている。
他の皆も、意味を理解したようだ。
「……し、してませんよ?」
悠は、目を泳がせ、震え声で答えながら、玲子が最初に書いた漢字の羅列を読み解く。
『ルル個人は信用できるという意見は分かったわ。でも、あの首輪は帝国の魔道の装置らしいし、どんな機能があるか、分かったものじゃないもの。ルル本人すら知らない可能性もあるわ』
「へぇー……ほんとかなぁ。悠君、妙にルルのこと庇うから、そういう関係になったのかなって思ったんだけど」
玲子はそんな全く関係ないことを語りながら、器用に紙面に新たな漢字を書き込む。
言葉と文字がほぼ同時である。まるで二つの思考を同時に走らせているようだ。
『この部屋だって、もしかしたら盗聴なり監視なりされてるかもしれないからね。さすがにやり過ぎかもしれないけど、帝国の方でもある程度は日本語を把握してるかもしれないから、念のためよ。いい?
この字の汚さもわざとだから、本当はもっと達筆だから!』
そうして、玲子は皆を見渡す。
悠も、そして他の皆も、了承の意を示した。
ここまでして伝える話とは、一体如何なる内容なのだろうか。
悠は唾を飲み込み、紙上に注目する。
「朱音ちゃんは、朝に悠君を迎えに行ったのよね。どう? 事後の気配とかしなかった? 例えば、ルルが裸で出て来たりとか。何か凄く艶っぽい気配や匂いがしたとか」
『帝国は、一枚岩じゃないわ。
まず、フォーゼ人至上主義を背景とした帝国による世界統治の再来が目的の、宰相派。
そして、皇家に忠誠を誓いその意思を尊重して多民族の融和を進めようとする、皇帝派。
内部では、この2派閥に分かれているの。どっちが優勢かは言うまでもないわよね?』
帝国はフォーゼ人を主する国家であり、その利益を至上とするなら、宰相派に属する者が大多数を占めるだろう。
皇帝派は、利益よりも忠義や平等を重んじた気高い人々だということだろうか。
「な、ななな……何も無かったですよ? 別にベッドも乱れて無かったし?」
朱音もまた、悠と同じく目を泳がせ、震えた声を出している。
周囲の目が、怪訝なものに変わっていく。
悠の額に、じっとりと脂汗が浮かんできた。
「ふーん……まあ、本人がそう言うならそうなんでしょうけどぉ?」
玲子の笑顔は、とても意味深なものに見えた。
たぶん、バレている。
周囲の皆の視線はまだ疑惑のレベルだが、玲子の視線は確信の色を帯びて悠を見ている気がした。
そんな悠の焦燥とは裏腹に、玲子のもう一つの話は続いていく。
『現状、皇帝派は完全に冷や飯食いよ。皇帝派の筆頭、アルドシュタイン家の令嬢ベアトリスだって本来は皇帝直属の近衛騎士、エリート中のエリートだもの』
傀儡の皇帝アリスリーゼとベアトリスの関係は、そういうことか。
ベアトリスの姿を見た時、あの小さな皇帝の沈んだ表情に花が咲いたことを思い出す。個人的にも懇意の間柄なのではないだろうか。
恐らく、アリスリーゼはお忍びでベアトリスに会いに行ったのだろう。
「じゃあ、話は変わるけどさ――」
幸いにも、話題は当たり障りのない方向へと逸れて行った。
助かった。これで話に集中できる。
同時に、玲子が紙に書き記す話は、その重要さを増していく。
『先代皇帝は人道主義でも知られていて、異世界の少年少女を巻き込むシステムを強く嫌悪していたそうよ。そして、現皇帝のアリスリーゼも実の父である先代皇帝に同調していた。
……つまり、皇帝派が再び帝国の実権を握ることが出来れば、私達が地球に帰る芽が出てくるわ』
あの時のアリスリーゼの陰鬱な表情は、何かに責められているものだったように見えた。
それが、無関係の少年少女を巻き込んでいるという罪悪感に起因するものだったとすれば、実権さえ伴えば悠達に便宜を図ってくれるかもしれない。
ベアトリスもまた、悠達に対して罪悪感と無力感を吐露していた。
『正直、あのラウロやその上司のリヒターが、私達の仲間を蘇生させて地球に帰してくれるなんて到底思えないわ。まず間違いなく死ぬまで使い潰されるはずよ。
だから、私達の本命はこっち――皇帝派の援護による現政権の打倒』
ラウロ達に一泡吹かせてやれるなら、それは実に痛快な話だ。
だが、悠達の今の状況で一体どうすればいいのだろうか。
魔道を封じられた今の悠達は、全くの無力だ。
悠も朱音も、他の皆もそんな不安や当惑を浮かべて玲子を見ている。
「……そんなこと、本当に出来るんですか?」
それは、ちょうど表向きで語っていた話題の流れで出た台詞だ。
だがそれは、紙上で展開されていた裏の話題についての問いでもあった。
玲子は鉛筆を置き、自身の胸に手を当てて怜悧な微笑を浮かべる。
「任せなさい。私は雨宮玲子よ。伊達にこの歳で政治の世界に関わってないもの」
その姿には、いつか悠の部屋で見たのと同じ不思議な存在感があった。
理屈ではなく本能的にその立居振舞に注目してしまう奇妙な魅力。
それは恐らく、天性のカリスマとでも言うべきものだ。ルルも、似たような雰囲気を纏うことがある。
「政治……あ! 何処かで見たことあると思ったら、そうだ!」
冬馬が、そんな声を上げる。
玲子を指差し、大きく目を見開いていた。
「……知ってるの、冬馬?」
悠の問いかけに、冬馬は人形のようにコクコクと頷いた。
「ちょっと前のテレビで、有名な政治家の隣にやたら綺麗な女の子がいたんだよ。それが玲子さんだ……! 確か、政治家の名前も雨宮……」
雨宮。
言われてみれば、聞いたことがあるような気がする。
クラスメートの幾人かも冬馬の言葉に驚きと理解の声を上げていた。
「あら、やっと気付いたの?」
「ふふん」と玲子は、笑みを浮かべて皆を見渡す。
悠はその表情を見てドキリとした。
それは、しなさかさと強かさを兼ね備えた、美しい虎のように気高い笑みだ。
「戦闘では省吾君や悠君みたいな役には立てないけど、私の戦場は“こっち”よ。しばらくお姉さんに任せて、自分が生き残ること、そして友達を助けることに集中していなさい。伊達にリーダーやってないんだから」
茶目っ気たっぷりの表情でウィンクして見せるその姿は、省吾のような巌を思わせる力強さとは別種の強さを備えているように見えた。
この人になら、任せられる。
明確な根拠こそ無いが、そんな頼もしさが悠の心に湧いてきた。
本当に、世の中には色々な人がいる。
朱音やルルにティオ、冬馬に綾花、玲子と省吾に伊織、それに他の皆――彼等と出会えただけでも、悠は生きていて本当に良かったと思えた。
世界は素晴らしいと、心から言える。
素晴らしい世界から思わぬ不意打ちが飛んできたのは、その時だった。
「……で、悠君。やっぱりルルで童貞捨てたんでしょ?」
「あ、はい」
……あれ?
場の空気が凍った。
「…………」
驚愕や好奇の視線が悠に集まる。
「……ばーか」
朱音が呟き、もう知らんとばかりに頬杖を突いていた。
「あっ……え、しまっ……!」
話題が切り替わった時点で、もうあの話は終わったものと完全に油断していた。
あるいは、全てが玲子の掌の上だったのかもしれない。
「お、おま、お前……何て羨ましい……」
冬馬が、唖然とした表情で悠を震えながら指差していると――
「――あら、お話は終わったのですか?」
ルルが、戻って来た。
薄桃色の髪を靡かせながら、優雅な足取りで食堂へと入ってくる。
その場に漂う空気を感じ取ったのか、小首を傾げて問うた。
「……何か、あったのでしょうか?」
皆が、ルルを見ていた。
誰かが唾を飲む気配がある。
「ねえ、ルル。悠君とのエッチ、気持ち良かった?」
「玲子先輩っ!?」
ルルは、玲子の質問に少し目を丸くした。
悠はルルを見て、必死の眼差しを向ける。
ルルはそんな悠の視線を受け止め、小さな笑みを浮かべながら頷いた。
良かった、味方が現れた。悠の心に安堵が広がる。
ルルは笑みをにっこりと深め、赤らめた頬に手を当てながら、
「……忘れられない一夜でした」
「ちょっ……!?」
男子の悔しげな声や、女子の黄色い声が一斉に上がる。
恥ずかしがっている女子も、しかしその視線は明らかな好奇心と共に悠やルルに向けられていた。
冬馬が悠の肩を掴み、ガクガクと揺すって来た。
「お前マジ羨ましいな!? くそっ、ちくしょう……!」
「いや、事情がっ、事情がね……!?」
玲子がルルに、握り拳を向けてに親指を突き立てていた。
ルルも、にっこり玲子に親指を突き立てて返している。
この二人、意外と気が合うのかもしれない……恐ろしいことに。
「ねえねえ悠、どんなだった? どんなだったの!?」
「や、やっぱ気持ちいいのか……?」
「ルル、悠君のアレ、おっきかった?」
「みんな! お願いだから、ここでこんな話するのやめようよ! 人がいるんだよ!? 恥ずかしいよ! それに玲子先輩、どさくさ紛れに何聞いてるんですかやめてください!
ねえ、朱音も――」
「あたし知ーらない」
「ふぇ……」
薄情にも、あっさりと切り捨てられた。
悠はこの後、級友達の質問攻めに遭いながら、魔素中毒というやむを得なかった事情があったことを説明するのに大変な苦労を要した。
「ルルさん、酷い、酷いよ……僕、汚れちゃったよ……」
その後、戻って来た第一位階のメンバーと共に今後の行動について話し合い、その役割の分担などを決めた上、悠達は解散した。
あの後、第一位階の皆にも話が広まったかと思うと頭が痛い。
現在、悠は、日の落ちかけた第一宿舎へと続く道をルルと共にとぼとぼと歩いている。
すっかり消耗して嘆く悠に、ルルは柔らかな笑みを投げかけた。
「申し訳ありません、ユウ様。
ですが、学友の皆様はより一層、ユウ様に親しみを持たれたように思います」
「まあ、それはそうなんだけどさ……」
――正直、お前はそういうことに興味無いと思ってたよ。お前もやっぱり男なんだなぁ。ちょっと安心した。
冬馬は笑いながらそんなことを言っていた。
他の皆も以前よりも馴れ馴れしげな感じになっていたように思うし、それは悠の望むところではある。
しかし、
「よりにもよって下ネタなんて……僕のキャラじゃないよ」
「性欲は人とは切り離せません。下世話かもしれませんが、万人の関心と共感を得るためにはある意味とても普遍的な話題かもしれませんよ?」
「うーん……」
悠より遥かに濃密な人生経験を積んでいるであろうルルに言われると、どうにも反論できなかった。
最早、結果オーライだと思うしかない。
悠はため息を吐きながら、本日の醜態を受け入れた。
「……それに、皆様は命懸けの場に赴かなければならない身です。見れば無理をされている方もかなりおられる様子。せめてここにいる間は、下世話でも明るい話題に花を咲かせる事があっても良いではないですか」
「……うん」
皆、気丈に振る舞ってはいるが内心では怖がっているはずだ。
あの怪物達に襲われて、クラスメートを虐殺されたのはついこの間のことなのだ。あの恐怖は未だに記憶に色濃く残っているだろう。
それに押し潰されないためにも、確かにああいう事も必要なのかもしれない。玲子もルルも、それを理解していたのだろうか。
それにしても、もっと他に話題があったんじゃないだろうかと思わずにはいられなかった。
思い出せば赤面どころじゃない部分まで話してしまった記憶がある。
皆は楽しんでいたようだったが、悠は心を凌辱されたような心地であった。同時に、自らのことなのに割と平気で受け答えしていたルルの図太さに、悠は軽く戦慄していた。
……その空気が楽しくなかったかと言えば、嘘になるのだけど。
また、ああいう風に騒げるのなら、それも悪くないと思える。
「まだ時間はありますが、如何されますか? ……お仕置きに、また私を抱かれます?」
「し、しないよっ!」
悪戯っぽく自分を指差すルルに、ユウはぶんぶんと頭を振って否定した。
ああいうのは本来、愛する者同士が愛情の確認や子を成すためにやるものだろう。
ただ身体を求め合うなど、そんな爛れた関係は良くない。良くないのだ。
もっとこう、順序を踏むべきだろう。その、告白とか、デートとか。
「あら、残念です。少し期待してましたのに」
嘘が真か、ルルは楽しげな微笑を浮かべながら言う。
悠は気を取り直し、彼女に今後の自分の希望について語った。
「……僕は、この世界のことを勉強したいよ。もっと色々なことを知りたいんだ。だからルルさんに協力して欲しい。まだこの世界の文字とか読めないし」
それはきっと、玲子や皆の助けにもなるだろう。
記憶力には人並み以上の自信がある。恐らく、戦闘以上に自分に向いた分野のはずだ。悠に実際に活用できる頭があるかは疑問だが、そこら辺は玲子のような頭の良い人物に頼るとしよう。
戦闘の訓練も行う予定だが、知識の収集にも力を向けたかった。
それに、帝国人ともっとコミュニケーションを取ることも、玲子から推奨されていたことだった。
まったく大変だ、やるべき事がたくさんある。
「畏まりました。では、今日はフォーゼ言語の勉強をしましょうか。
……ユウ様、嬉しそうですね?」
「……うん、そうだね。嬉しいよ」
自分には友達がいて、友達のためにやれる事がある。それは何て素晴らしいことなんだろうか。
いま自分は、ずっと抱き続けてきた夢の中にいる。
悠は、その口元に笑みを浮かべながら、力強い足取りで第一宿舎の帰路に付く。
次第に第一宿舎の建物が見え、ある一室の明りが点いていることに気付いた。
それは粕谷の部屋がある場所だ。
ティオも、いつかあの皆の輪に加わることが出来るだろうか――
「……くそがっ!」
粕谷京介は、苛立ちのままに悪態を吐く。
放り投げた瓶が自室の壁に当たって砕け、中の液体が壁と床を汚した。
そして、自らが生み出したその結果にすら粕谷は舌打ちをする。
「ティオっ! さっさと拭きやがれこの鈍間が!」
粕谷の怒鳴り声に、メイド服を着込んでいたティオはびくりと肩を震わせた。
疲労困憊といった様子であり、その動きは力無く頼りない。
「は、はいっ……畏まりましタ、キョウスケ様」
ティオは微妙の語尾のイントネーションの怪しいフォーゼ語で答えながら、部屋の掃除を始める。
彼女の世話役としての教育は、粕谷の要望によって突貫で行われた。彼女には業務の経験が不足しており、その動きは丁寧であるがお世辞にも要領が良いとはいえない。
そのノロノロとした動作に更なる苛立ちを感じた粕谷は、その衝動のままにテーブルを蹴とばした。
ティオの方へと倒れるテーブルに、彼女は身を竦ませる。
テーブルの、そしてその上に載っていたガラスのコップなどが落ち割れる派手な音が、粕谷の自室に響く。
ティオは、両手で頭を庇いながら、縮こまっていた。
「それも片しとけ、愚図」
「……はい」
ティオは涙ぐみながら、まずどちらをやろうかとオロオロして粕谷を見上げ、そして彼にぎろりと睨まれると顔面蒼白になりながら、まずは床に散ったガラスの片づけを始めた。
「この役立たずのクズが」
「も、申し訳ありまセン……」
粕谷の侮蔑の言葉にティオは声と身体を震わせながら、割れたガラスを集めていた。
「くそがっ、金さえあれば……」
粕谷の実家は、政財界に大きな影響力を誇る名門である。
彼自身も金銭に不自由したことは無く、日本では放蕩生活を送っていた。それ故に、粕谷に一般的な金銭感覚など存在しない。
……次の魔界化までの生活のためにと支給された金銭は、既にほとんど使ってしまっていた。取り巻きにばら撒いた分もある。
第三位階である粕谷には、かなり多めの額が支給されていたにも関わらず、だ。
そのため、今の粕谷はかなりの我慢を強いられていた。
好きに金が使えない。それは彼にとって途方も無いストレスなのである。
「……てめぇっ! いつまでノロノロしてやがるっ!」
「すっ、すみません、すみませン!」
粕谷は、その苛立ちをティオにぶつけて発散していた。
ティオは小動物のように怯え、その小柄な身体を震わせている。その大きな瞳には涙が溜まり、時折、嗚咽が漏れていた。
だが、その程度では到底粕谷の気分が晴れる訳でも無い。
とにかく、目下は金だ。金が要る。
自分の生活のため、そして、取り巻き達への自分への信頼を維持するための金が必要なのだ。
しかし、そのチャンスはいったいいつになるのだろうか。
次に魔界化は発生するのはいつになるのか。
おおむね10日に1度以上のペースで魔界化は発生するとのことだったが、とうてい待ちきれるものではない。
粕谷は、今か今かと戦いの時を待ち望んでいた。
「とっと来やがれってんだ、畜生が……」
見やれば、ティオは小ぶりな尻をこちらに向けて床のガラスを集めていた。
ふりふりと揺れるスカート越しの曲線美に、粕谷の眼差しに卑しい熱がよぎった。
唇を舐めながら、大股で彼女に歩み寄り、手を伸ばして――
――その翌日、帝国領内で魔界化の予兆が観測された。
悠の、三度目の実戦が始まる。




