第2話 -神護 悠-
「僕は、あとどれくらい生きられるのかな?」
そこは日本政府が管理する高層ビルの上層、その一室の応接室だった。高級なソファやテーブルが上品な仕立て絨毯の上に置かれ、壁は完全防音、窓は狙撃にも耐える防弾ガラスだ。
その静寂を、その内容の不吉さとは裏腹な穏やかな声が破る。
藤堂正人は、驚愕に目を剥いて手元の書類から顏を上げた。
藤堂の腰掛けるソファの対面、テーブルを挟んだ向こうのソファに、一人の少年が座っている。
……藤堂が彼の素性を知らなければ、少女と思っていたかもしれない。
それほどまでに線が細く小柄で、柔らかな顔立ちの少年であった。初対面の者が、その容姿だけで彼の性別を確信を抱いて当てることはほぼ不可能だろう。むしろ少女であると答える者が多数であるようにも思える。
その髪はまるで老人の様に真っ白であり、総じて「儚い」という言葉がこれ以上ないほどに似合っていた。
年齢は15歳。
藤堂の次女と同い年だ。
藤堂は、自分の半分も生きていないこの少年の華奢な姿を見ると、時折胸を掻き毟りたくなるような嚇怒の念に耐える必要があった。
悠は、物静かで透明な眼差しで藤堂を見つめている。
「……分かっていたのか、悠君」
「自分の身体だし。長生きできないっていうのは何となく」
神護悠。
それが、そう遠くない己の死を予感しながら朗らかな笑みを浮かべるその少年の名である。
悠に告げるべき言葉に悩み続けていた藤堂は、深く嘆息しながら観念し、伝えるべき内容を簡潔かつ率直に口にすることにする。
毒虫を噛み潰す様な心地を味わいながら、事実を告げた。
「今のペースのままなら、恐らくは1年前後だそうだ。症状の進行を抑える手立ても、今のところは見つからない。見つかる可能性も、極めて低いそうだ」
「1年、か……」
顔を落とし、藤堂の告げた言葉を反復する悠。
1年という期間で出来ることに思いを馳せているのだろうか。
その姿は、とても小さく見えた。
藤堂は、その姿を見て密かに歯噛みする。
15歳の少年に残された時間としてはあまりに短過ぎる。
ましてや、彼は生まれてから今の今まで、人間らしい生活すら送ることは出来なかったのだから。
神護悠は、生まれてから15年もの間、ずっと過酷な人体実験にさらされてきたのだ。
そしてそれを行ったのは、日本政府の一機関である。
藤堂たち有志が、その国家の悪意を潰すことに成功したのは、1月ほど前のことだ。
とても公にできることではなく、諸々の処理は内密に行われたが、目の前の犠牲者に対してはそういう訳にもいかないだろう。
犠牲となった数千人もの子供たちのうち、命と理性を保っていたのは悠だけだった。
忌々しいが、あの人面獣心の外道共にとっては“成功例”と言えるのだろう。
彼の身体には、確かに常人には持ち得ないある能力が備わっていた。
もっとも、支払った代償がそれに見合うかは、藤堂には甚だ疑問であったが。
そして、我が国が彼に人生を返すのは、あまりにも遅きに失してしまった。
藤堂の手元にある書類は、データというこの上無く確実で冷酷な手段でもって残酷な事実を突き付けている。
悠の内臓は、緩慢にではあるがその機能を失いつつある。
更に、彼の身体のある特異性故に、現代医学での対処は不可能な有様であった。
もっと事を急いでいれば、こうなる前に悠を助け出せたのではないか――すでに何度目かも分からない自責の念を噛み締める。
悠の背は低く、上背のある藤堂からはその俯いた顏に浮かぶ表情は窺い知ることは出来ない。
怒り、絶望、恐怖……その辺り表情を予想する。
藤堂は、この場で怒り狂った悠に首を絞められても受け入れる心地で、悠の返答を待った。
悠は、顏を上げ――
「良かった、思ったより長く生きられるんだね」
その表情には、安堵にも見える笑みが浮かんでいた。
藤堂が予想していた負の感情など微塵も見えない、澄み渡った笑顔であった。
馬鹿な、と藤堂は脳を揺さぶられるような感覚を味わう。
彼の15年はまさしく地獄だったはずだ。自分が彼の立場なら、関係者を皆殺しにしてもなお飽き足らないだろう。
その上で未来までもが奪われたのだ、その場で狂したとしても責める資格のある者はいない。
努めて平静を装いながらも、藤堂は彼に問いかける。
「……それだけか? 怒ってはいないのか? 恨んでいるんじゃないのか? 言いたいことがあるのなら遠慮なく言うんだ、悠君。君にはその権利があり、俺にはその責任がある」
悠の目の前に、彼の人生と未来を奪った日本政府の一員がいる。
罵ってくれればいい、詰ってくれればいい、自分の極大の不幸を声高に叫びながら、我々に償いを求めてくれればいいのだ。
藤堂は、その覚悟をもってこの場にいるのだから。
悠の生きた15年を藤堂は書類の上でしか知らないが、その内容はただの文字の羅列ですら常人の精神を揺るがすに足る凄惨なものだった。同僚の幾人かは、書類に目を通すだけで不調を訴えたほどだ。
中東のテロリスト辺りの拷問の方が遥かに良心的かつ紳士的だろうと確信を持って言える。
あの書類に目を通した時、もし目の前にあの外道共がいたら、藤堂は衝動的に彼等を殺していただろうと半ば本気で思っていた。
悠がこうして会話を交わす精神を保てたことは、奇跡と言っても良い。
彼は藤堂の言葉を受け、どこか困ったような笑みを浮かべながら、
「……良く分からないんだ。僕にとっては、あの生活が当たり前だったから。でも、今は凄く幸せだよ。だって、身体を切られたり潰されたり燃やされたりすることもないし。もう硫酸とか飲まなくてもいいんだよ? だから、藤堂さんや皆には、本当に感謝してる。改めて、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる悠を見下ろしながら、藤堂は深々と嘆息した。
応接室に、温くなったコーヒーを啜る音が立つ。
――神護悠は、怒りや憎悪といった負の感情が壊れている可能性が高い。
悠のカウンセリングを行った精神科医の報告を、藤堂は思い出していた。
彼の味わった15年は、負の感情など抱いていては耐えられるものでは無かったのかもしれない。
“神護”の名の通り、神の加護はあったのかもしれないが、それも完全では無かったということだろう。
願わくば、“悠”の名の通りの穏やかな人生が、少しでも長く続いてくれればよいのだが……
「……我々としては、君に出来るだけのことはしたいと思っている。何か、希望があったら言ってくれ」
「希望……」
悠は、藤堂の言葉を吟味するように顎に手を当てながら、何やら考え込む。
常人が考え得る大抵のことは叶えてやれるだろう。
それだけの予算は確保できている。
少なくとも、悠が放蕩な生活を送ったとしても金銭に困るような可能性はほぼ無い。
悠は悩み、悩み、悩みながら――何やら身体をもじもじとさせていた。その端正な顏は、不安と期待の入り混じった複雑な表情を浮かべて手元を見ている。
「……何か、思い付いたのか?」
「ずっと、夢だったことがあるんだ。その、もし出来ればの話で、無理だったら別にいいんだけど」
「言ってみなさい」
ずっと抱いていた夢。
つまり、彼の味わった地獄の15年間のうちに得た希望ということだ。
それは、日本政府の関係者として、今回の事件の責任者として、そして一人の大人として、全力をもって叶えてやるべきものだろう。
さて、随分と遠慮しているようだが、金銭や我々の人脈で実現できる内容なら良いのだが。
「あのね、」
悠は、意を決したように顔を上げ、藤堂の顏を真っ直ぐに見ながら口を開く。
興奮しているのか、少し頬が紅潮しているように見えた。
それはまるで、宝くじを当てた時の使い道を語るような、遠い夢に思いを馳せる様子であった。その顔がまだ不安げなのは、果たして藤堂たちにそれが実現できるのかと疑っているのだろうか。
よろしい、叶え甲斐があるというものだ。
生まれた時から地獄に在り、そして1年間の余命を宣告された少年が抱く夢とは、一体どのようなものなのか。
恐らくは、並々ならぬ願いに違いない。
藤堂は固唾を飲み、覚悟を持ってその言葉を待つ。
そして、悠の少女のような唇がその夢を紡いだ。
「……学校に、行きたいんだ」