第14話 ―救出―
魔界――常の世界から外れた、魔族の領域。
人体にとって有害である魔素が満ちる世界でもあり、魔道の素養が一切無い者はまともに動くことが出来ない。そして、その魔素の濃度は魔界の深さ、すなわち界層に比例する。
異形と化した空は、魔界の第一界層“活動界”であることの証左であり、魔界としては表層と言える。最低でも魔道の第一位階の素養を持つ皆であれば、若干の息苦しさはあれ活動に支障は無かった。
「皆、大変だろうけど頑張ってね、他の皆を見つけないと……」
「ああ……分かってるよ、神護」
魔界化した闇夜の森の中を進む悠たち。
魔族の襲撃に備え、周囲を警戒しながら、しかし可能な限り歩を早めて歩いていた。
夜と森林という悪条件が重なり、周辺の見通しは非常に悪い。更に大人数であり、悠や朱音のような高い身体能力を持つ者に合わせたスピードで進む訳にもいかない。
特に世良綾花は腕や足、肋骨などを骨折しているようで、自力で歩くことは困難な状態である。今は戦闘力の無い男子に背負われて時折苦しげな呻きを漏らしていた。じっと苦痛に耐えるその様は気丈ではあるが、痛ましくもある。
現時点で、クラスメートの救出は比較的順調と言えた。
魔界化とは、人類の敵性存在たる魔族の世界に対する侵略なのだそうだ。
魔界を維持しているのは内部の魔族であり、それゆえに魔族を全滅させれば魔界も消え去る。
魔族は原則として魔界でしか生息できず、こちらに現れるためには魔界化というプロセスを踏む必要があった。
そして、魔界化から魔族の出現までには結構なタイムラグが生じる。
クラスメートの救出において、この時間差が肝要であった。
悠と朱音は、魔界に取り込まれてすぐにクラスメートを探して森を駆けずり回り、魔族が現れる前に19人を保護、更に魔族に襲われていた壬生たち12人も見つけ出すことに成功した。この間における犠牲者はゼロである。
悠達を入れて現状は33人。
現在は、幾度かの魔族の襲撃を退けながら、他のクラスメートを探し森の中を進んでいる最中だった。
この異常かつ危機的な状況下においても大きなパニックにならずに集団行動が取れているのも、社交的で責任感の強い性格からクラスの皆からの人望に厚い壬生冬馬がいてくれたことが大きかった。
悠や朱音では、こうはいかなかっただろう。
魔族の襲撃の中、13人が魔術を行使するに至っており、壬生の砲撃魔術をはじめ戦闘に向いた魔道を発現させた者も少なくない。
ゆえに闇夜の森の中、多方向から現れる魔族にも対応できている。このグループの守りは安定していると言えた。
しかしクラスは総勢41人。あと8人の安否はまだ確認できていなかった。
既に魔族が現れており、彼らもその脅威にさらされているだろう。
最低でも第二位階に達し、魔術を扱えなければ単身での生存はかなり厳しいと言わざるを得ない。こちらの約半数の生徒が第一位階に留まっていることを思えば、行方の知れない8人全員が第二位階へと至っているとは考えづらかった。
僅かな救いは、魔族がより多くの人間を殺傷することを求める生態があることだろうか。
33人という大所帯であるこちらに少しでも多くの魔族が引き寄せられることを祈る他ない。
願わくば、残った8人が合流して互いに身を守りながら行動していてくれれば助かるのだが。
あるいはその前に、魔族を全滅させてこの魔界を消滅させるか――しかし、この森の中に何体の魔族が徘徊しているかも分からない以上は、クラスメートの探索が急務であった。
「……ふぅ」
悠は、紫の塵が舞う中で安堵のため息を吐いた。
その周囲には、4体の球体の魔族の死骸が転がり、塵に帰していくところである。
全て、その身を深々と斬り裂かれていた。
悠の魔道で作りだした、剣によるものだ。その切れ味は凄まじく、魔族の肉体をまるで豆腐でも切るように切断していた。
悠は、グループを奇襲した4体の魔族を易々と屠っていた。
背後を見れば、朱音も徒手空拳で2体の魔族を撃破している。
身体を強化した朱音の蹴りを食らったのか、異形の身は無残にひしゃげていた。
単純に身体能力が桁外れに上がっていることもあるだろうが、悠と朱音の装備のおかげもあるのだろう。
二人とも、今は黒ずくめの身体にフィットした服装を纏っている。
帝国製の戦闘服であり、ルルも着ていたものだ。
魔道の行使に反応して耐久力を増す素材のようで、極めて計量だが下手な鎧よりも防御力があり、帝国の魔道兵の代表的な装備だった。
その上に軍服めいた無骨さのジャケット状の上着を着込み、腰のベルトには収納のためのポーチなどが取り付けられていた。中には簡単な応急処置の道具などが入っている。
加えてルルの訓練は、相当に厳しいものだったようだ。魔族の襲撃は、あの猛攻に比べればかなり散発的で易しいと言えた。おかげで悠も朱音も極めて冷静に対処ができている。
そのまま森を進んでいると、隣の杉浦が悠の剣をまじまじと羨ましそうに見て口を開いた。
「神護、マジですごいな。その力を使いこなせたら、そんなに強くなれるのか?」
「あはは……どうだろね」
地球にいた頃の鈍臭い振る舞いから一転、人間離れした身体能力を発揮して、剣を片手に魔族を撫で斬りにしているのだから、呆気に取られるのも無理ないことだろう。
今の悠は、あの朱音すら上回る戦闘力を発揮していた。
第三位階に半ば手をかけている故に、魔道から流れ出る魔力は第二位階の朱音を大きく上回っていたからだ。
第三位階の象徴的な力である魔法を行使するには至っていないが、第二位階のメンバーとは一線を画する強化を悠の身体は得ていた。
それは、身体強化に特化した特性の魔術を使う朱音すらも上回っている。少なくとも、下位魔族である球体の魔族を歯牙にもかけない力を今の悠は発揮している。
「神護いたら大丈夫なんじゃね?」
「あの怪物も瞬殺だし、楽勝っぽい」
そんな楽天的に過ぎるとも思える弾んだ言葉がぽつぽつと漏れ始めたその時、
「……あんたら、都合いいわね。学校でのこと忘れたの?」
朱音の冷たい声色で紡がれる言葉が、その高揚に水を打った。
口を開いていた幾人かのクラスメートが、冷や汗と共に声を詰まらせる。
「う……」
「それ、は……」
押し黙り、再びの沈黙が場に満ちた。
森を進む幾つもの足音だけが、絶え間無く立ち続ける。
「……なあ、神護」
戦えないメンバーを囲むようにして森を進む中、壬生が躊躇いがちに口を開いた。
傍らの悠は、周囲を警戒しながら答える。
「どうしたの? 壬生君」
思えば、朱音や粕谷達以外のクラスメートとこうして会話を交えるのは初めてのことだ。感慨深いものはあるが、あまり浸る訳にもいかない。
「ここが異世界で、お前と藤堂が3日前にこっちの世界に来てたっていうのは分かったけどよ」
壬生は、そのスポーツ少年然とした爽やかで快活な容貌を曇らせた。
悠に向ける眼差しは、迷うように、あるいは悔やむように揺れている。
「どうして、わざわざ俺達を助けに来てくれたんだ?」
「……壬生君たちが危ないって思ったから、だけど」
首を傾げる悠に、壬生は明らかな困惑を見せた。
「何とも思ってないのかよ……だって、藤堂が言ってた通り、俺達は、お前を……その……」
その先を言い澱んだ壬生の言葉を、背後を護っていた朱音が引き継いだ。
きっぱりと、斬り捨てるような容赦の無い口調。
「見捨ててたものね。粕谷にびびって、顔色を窺いながら……ふんっ、情けない」
「あ、朱音さん! そんな言い方――」
「いや、いいよ。事実だろ」
壬生は頭を振り、深い苦笑を浮かべていた。そして続く言葉は、背後からだった。
「ずっと……悪いと……思ってた、の……」
世良綾花が、痛みに顔を引き攣らせながらも会話に参加してきた。
額には脂汗が浮いており、かなりの我慢をしていることは明らかである。
「お、おい、無理すんなよ綾花……」
心配そうな壬生の声をおっとりとした微笑みで制し、世良は言葉を続ける。
「こんなの駄目だって……神護君が可愛そうだって思ってたのに……私、弱くて、怖くて……本当に、ごめんね……」
「違うだろ綾花! 勇気を出して助けるつもりだったお前を、俺が止めたんだろうが! 悪いのは――」
「同じだよ、冬馬。粕谷君に……逆らったら、危ないって……私も、納得……しちゃったもん」
「綾花……俺は……」
壬生は、悔しげに唇を噛みしめて言葉を飲み込んだ。
慙愧の念も露わなその表情は、見ているだけで痛々しい。見れば、他のクラスメートも壬生と似たような、気まずげな表情で押し黙っていた。
「僕は……」
悠は、何と言おうかと考えを巡らせた。そして自分なりの言葉を探し、口に出す。
「……仕方なかったと思うよ。だって、粕谷君に逆らったら、酷い目に遭うのは自分だけじゃ済まないかもしれなかったんだし」
粕谷の実家の威を借りた権力は、クラスのみならず学校全体にまで及んでいた。
一学生の身で歯向かう度胸のある者など、朱音を含め数えるほどしかいなかっただろう。
友人、恋人――あるいは、家族にまで塁が及ぶ可能性もある。
粕谷家とは、それほどの力を有している一族だった。
「だから、僕は全然気にしてないよ。壬生君も、世良さんも、他の皆も……あまり気に病まないで欲しいな」
「神護……お前……」
壬生は、どう反応したものか分からないかのような、曖昧な表情を見せる。
複雑な感情が絡み合い、せめぎ合うような逡巡の後、彼は僅かに顔を俯かせ、
「すまん……」
ただ一言、絞り出すような声を漏らす。他のクラスメートの反応は様々であった。
悠の期待通りに安堵を見せる者、相変わらず気まずげな表情をしている者、むしろより一層辛そうな表情を見せる者。
背を見せる朱音は、深く、深く、震える息を吐いていた。
杉浦が、罰の悪そうな笑みを浮かべながら開く。
「その……ごめんな神護。帰ったら、もっとこう……粕谷に負けないように頑張るからさ」
「杉浦君……気持ちは嬉しいけど、無理しなくてもいいよ?」
「まあ、俺ヘタレだからなあ。でもやるだけはやってみるよ」
「……うん、ありがとうね」
そんな中、壬生と比較的親しい月島が、ぽつりと小さく、それでいて唸るような仄暗い声を漏らす。
「粕谷のやつ、死んでればいいのに……」
「…………」
クラスメートの死を願う、剣呑な物言い。本人が目の前にいないからこそ言える言葉だろう。
未だ見つかっていない8人の中には、粕谷京介とその取り巻きも含まれていた。
「……そうだよ」
「あいつがいなければ平和だったんだよ」
「あたしらだって……」
更に、ぽつりぽつりと同意の言葉が上がる。
口にする者は、一様にその目や声に危うい色を浮かべつつあった。ただでさえ恐怖で不安定になっている精神に、危うい思考が毒のように浸透していく。
……いけない流れだ。悠は焦りと共に上擦った声を上げる。
「や、やめようよ皆……人の死を願うなんて、良くないよ」
皆は元々、生きていられることが当たり前の世界にいたのだ。
そんな彼らが死を呼び寄せるような言葉を口にすることに、悠は例えようも無い寂しさを感じていた。
「皆で、生きて帰ろうよ……」
そのつもりで、悠はここにいるのだ。粕谷やその取り巻きも、例外ではない。
ごく個人的な話で言えば、粕谷に対して好感を抱いていないのは正直なところである。
だが、そんな彼でも家族や友人といった大切に思ってくれる相手がいるのではないか。こんな理不尽極まりない状況で大切な者を命を奪われた者は、心を引き裂かれるような痛みを味わうはずだ。
「神護……お前……」
クラスの皆は、驚くような眼差しで悠を見ていた。よりにもよって悠が粕谷達を庇ったことが信じられない、理解できないといった様子である。
悠は30人を超えるそれらの視線に気圧されながらも、言葉を続けた。
「そ、それで、残った皆を助けるために提案があるんだけど……聞いてくれるかな?」
悠は、この場を朱音や壬生に任せ、別行動を取るつもりであった。
30人を超える人数に膨れ上がったグループの進みは、かなり遅くなっている。この状態のまま、他のクラスメートを探すことは困難なように思えた。
見たところ、朱音や壬生、他の第二位階のメンバーで魔族の襲撃には十分対応可能であり、動かずに周囲を警戒し、身を守ることだけに専念をすれば戦力的な不足は無いようだ。
故に、悠一人で単独行動して機動力を確保し、粕谷達を探そうと考えていたのだ。
「あのね、僕が――」
その提案を、最後まで口にすることは出来なかった。
世界が、揺れる――




