◆7話◆秘め事
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別の世界から燕夜が持ち込んだ紫蘭の花は、中庭に自生したかの様な一画が造られていた。
勿論、姫の心に適った事がその造園の理由だろう。紫蘭姫はその場所に気付いた時、胸の奥が締め付けられる様な気がした。
小さな花は本来フライサに自生する大輪とは比べられないものの、エルジュアスの月光を浴びた所為か一回り大きな花を咲かせていた。
もしかして世代を重ねれば、この世界の紫蘭になるやも知れない。
紫蘭姫は自分と同じ名を持つ花を、そっと摘み採った。
緑が多くなり過ぎるから、葉は気まぐれに落としつつ、腕の中に花束を作っていると。
不意に感じた違和感が有る。姫は訝しく眸を細めた。
木々の連なりの間に、それは存在した。
紫蘭姫はゆっくりと背筋を伸ばし、周囲を見回した。
違和感に気付く。
昼の月光が燦燦と降り注ぐ中、そこだけ影が濃密に過ぎる。
木漏れ日が注ぐ筈の隙間さえ、深い墨が塗り潰し、奇しい気配が立ち込めた。
一歩、後退り。
だが、視線が外せ無くなった。
何か……が小さく嗤う気配を感じた。
凝っと眸を凝らせば、濃密な闇が更に艶を帯びた。
絹の川がサラサラと足元まで流れて来て、姫は息を詰めた。
先程まで「見え」なかったのが不思議なくらい、不意にくっきりと像を結んだ。
「……。」
漆黒の髪はサラサラと流れ、夜闇の眸が面白そうに紫蘭を「視て」いた。
肌が泡立つ。
闇の川が蒼褪めた様な肌を飾り、それがゾッとする程に艶かしい。
姫はまた一歩、足を後退させようとしたが、動けない自分に気付いた。
「………。」
――挨拶を……すべき、か……否か。
紫蘭姫は月神系の神々しか、今まで顕現を見た事は無い。
無視するには恐ろしく、関わるのもまた遠慮したい。
『どちらでも構わぬよ。』
ゾクリ。
背筋に寒気が走る。
甘くドロリとした官能を刺激する声に。
紫蘭は知らず、奥歯を噛み締めた。
『ソナタの前に、闇が姿を顕さない訳でも無い。ソナタが気付かないだけだ。』
――では、今迄にも……傍に闇は在ったのだろうか?
『闇は何処にでも在る。ソナタの光が強すぎて、視る事が適わぬだけだ。』
心を読まれる不快は、しかし神々を相手に抱いても仕方がない。
寧ろ、言葉を発する必要を回避出来た事を、喜ぶべきだと割り切った。
紫蘭花が内心断じれば、夜闇は嗤う。
『潔い事よな。ソナタのソレが、闇を寄せ付けナイのだ。小さな闇など、ひとたまりもナク消されてしまう。』
――小さな……闇。
しかし、ではこの眸の前に坐す神は、どう解釈すれば良いと云うのか。
紫蘭が自らの心に影を帯びたが故か……と、最近の自分を省みれば、闇は軽く否定して見せた。
『ソナタの悩みなど、闇を喚ぶ程もナイ。男を愛し欲するが、立場は応じる事を許さない。どうせなら力づくで来ればと願いつつ、そんな男はまた好まない。』
紫蘭花はあからさまな台詞を苦々しく思った。
夜の神は遠慮を知らない。
『ならば、イマが続けばヨイと断じる。ソナタは既にコタエを出している。』
そう告げて嗤う神に、紫蘭は内心訝しく思った。
確かにそれは偽る事無い心ではあるが、もっと自分は苛々と思い悩んでいる様な気がした。
闇は紫蘭の疑問に応えた。
『ソナタは、アレの心がスベテを晒さぬ事を、怒っているに過ぎない。無意識がソナタにソレを教え、何故アレが苦しむのかと、知らない己に怒るに過ぎない。』
――嫌な奴。
紫蘭姫にはどうしようもない燕夜の心である。
ただ、自分が何かを願えば、それを叶える為に嬉々として応じる。その姿に、紫蘭は何かと用を云い付けたりもした。
最初は、彼を呼び付ける云い訳に過ぎなかったのに、すぐにそれは彼を慰める為のものに代わっていた。
だが、燕夜の心は晴れない。
何かを常に隠し、何かから眸を背ける。
何かに常に怯え、紫蘭を欲する気持ちに嘘は無い様なのに、決して叶わない願いと断じた風情に腹が立つ。
『アレが何に怯えるか知りたいか?』
知りたい。
紫蘭の心は希求する。
『アレがソナタを得る事はナイと決め付ける、そのココロのウチを知りたいか?』
知りたい。
紫蘭花は強く願う。
しかし。
『ならば、手を。』
蒼白く艶く肌が、美しい手が紫蘭に差し延べられた。
その手を。
紫蘭花は視つめ。
笑った。
――莫迦げてますわ。
初めて、読ませる事を目的として、ハッキリと心に紡いだ言葉である。
『アレはソナタを愛しているぞ。ソナタはアレを救うチカラを持つ。その術を、知りたくはナイか?』
知りたい。
強烈に願う心がある。
だが紫蘭は笑う。
――だから?それで私が闇の手をとれば、より苦しむのは燕夜ですわ。
ならば、ずっと苦しめば良い。
燕夜が何に苦しむかなど、知らないままで良い。
それが紫蘭を愛する故ならば、紫蘭はその苦しみさえ愛する事が出来る。
『なるほどそうか。そうか。そうか。』
嗤う夜闇に紫蘭は歯を食いしばる。
『ソウカ。』
愉悦が混じる哄笑に、紫蘭は眉を顰た。
『強い。強いなあ。アレがソナタを欲する理由がワカッタ。ワカッタ。ワカッタ。』
気持ち悪い。
かろうじて感じられた人がましさを失った神は、嫌悪さえ誘う。
それでも何処か甘く響く声は、官能と堕落を紫蘭に語りかけ、姫を立腹させた。
けたたましいまでの哄笑が響く中、斬る様な声が響いた。
「何をしている!!」
躯は思うままに動かないが、燕夜が駆けて来るのを紫蘭は感知した。
駆ける燕夜に、今は『跳べない』のだと理解した。
背後に温もりを感じ、え?と思う間もなく、紫蘭の腕が取られ、後ろに引かれた。
思わぬ乱暴な仕種で腰を抱かれ、足が浮く。
距離を取るのも、燕夜自身の足が運んだ。
魔法無しでも、それを素早く為し得、燕夜は紫蘭を背後に『闇』を見据えた。
紫蘭花が聞いた事も無い、冷えた声が硬く響いた。
「去れ。」
『何を怒る?私はただ、此処に居ただけだ。』
紫蘭は微かに眸を細めた。
燕夜も、言葉は返さない。
「去れ。」
『私と語る姿を、姫に知られたくナイのか。』
やはり…と紫蘭は思う。眉を寄せ、心を閉ざす。
燕夜は動じない。
紫蘭の前で、燕夜の手に月光の剣が顕れた。
その安堵を、どう云い現すべきか。
紫蘭花はそっと、眸を伏せた。
月を、燕夜は忘れた訳でも無いのだ。
『おお怖い。早くおいで。その姫ならば、我らも歓迎するほどに、連れておいで。二人纏めて、我らの眷属と為そう。』
誘惑の闇が甘くドロリと溶けた。足元に寄せる快楽の闇に、紫蘭は再度奥歯を噛み締めた。
燕夜が凍る声で告げた。
「去らぬなら斬る。」
だが、剣が振るわれる迄も無く、闇は姿を消した。
燦燦と昼の月光が辺りを照らす。
真昼の健全さに、闇の不在を認識した。
紫蘭の足が縺れ、燕夜が支えた。
「今の……は?」
「さあ。」
燕夜は優しい眼差しと声を取り戻して、紫蘭を労る様に抱き上げた。
次の瞬間には、姫の寝所に場所を移していた。
「少し、お休み下さい。」
「………ええ。」
燕夜は優しく告げて姿を消し、姫は憂いを俯く事で隠した。
そして。
寝台に腰を下ろした姫の。
足元にまた、忍び寄る闇が在る。
『アレが何を隠すか知ったか?』
紫蘭は応えない。
『アレは私の愛し子だ。』
だが、月光の剣を燕夜は握った。
『ソナタもおいで。私の手をお取り。ソナタの強さは、我らの好むところでもアル。』
神々に嘘は云えない。
どんな罰が与えられるか、解ったものでは無い。
また、神々も、嘘は云えない。
そういう、存在だからだ。
だが、その気まぐれは、真実をその時々に変える。
夜闇ならば尚更だろう。
だから、確認するならば過去でしか無く、信頼出来るのは断定の言葉でしか無い。
「夜闇の君。燕夜は、御身に仕えると申し上げましたか?」
闇は嗤った。
面白い事を聞いた、と云わんばかりに。
『ソナタもおいで。』
ソナタ「も」と云われれば、惑う者は多いだろう。
だが、政治の世界でさえ、それは使われる罠でしか無い。
事実、燕夜は騙された。
夜闇の偽りに馴染んだであろう燕夜も、紫蘭花が隠し、夜闇も謀るならば、気付かず見過ごす「嘘」と成る。
『嘘ではナイだろう?ただ告げナカッタだけだ。』
そう。
そして、燕夜が望む偽りに、誘い込んだだけ。
『姫に知られたくナイと、アレが希むのは事実に過ぎない。』
しかしあの場で告げれば、燕夜には紫蘭花が「闇」を「視た」事実さえ覆い隠す「偽言」と成る。
為した行いに嘘が無くとも、嘘に成すのが夜闇の言葉だ。
紫蘭花は知り、だからこそ勝機も見出だした。
『私に挑むか?私の名を知らぬか?』
その誘いには乗らない。
夜闇は偲び嗤う。
燕夜の邪魔を、呼び込まない様に。
哄笑を堪え、咽で嗤った。
『面白いなあ。面白い。ソナタの気概は気に入ったよ。私の名を呼ぶ事を、ソナタに許そう。』
嬉しくは無かったが、紫蘭花は礼を云った。
「有り難き倖せに存じます。リー・セルスト。」
『そう。倖せ……と告げるに嘘がナイのだな……。』
少し、残念そうな声音は人がしくも有り、そうすると麗しい貌が却って端正な静けさを印象付けた。
うっかり名を口にして、罰の口実を差し出す事を思えば、その「許可」を有り難いと思う気持ちが「嘘」に成る事は無い。
『なるほど?』
当たり前だが、夜闇の神は美しい。
紫蘭花は非常にソレを迷惑だと感じた。
『そなた……本当に面白いな。』
優しいとさえ呼べる微笑みから、紫蘭花は視線を逸らせた。
だから、神々と関わるのは面倒なのだ。
紫蘭花が惹かれた事に気付けば、その様に振る舞いもする。
『そなたが気に入った。それに嘘は無い。迷惑かな?』
迷惑極まりなかった。
しかし口にすれば、それは無礼を咎める恰好の理由となる。
「勿体ないお言葉です。」
歓喜する心も、確かに否定出来ず、だから言葉には真情が篭った。
セルスト神はセリカの媛を興味深く視た。
燕夜が想いを乞う相手としてだけで無く、媛の魅力を見出だした。
『アレは私に従う気はナイと云う。だが、月にも従属せず、闇に染まり力を蓄える。ソレは心と躯に負担を与える。』
紫蘭花は息を詰めて聞く。
下手な思考を巡らすならば、話が逸れる恐れを感じ、心を硬く閉ざし凍らせた。
『闇でも光でも、属するならば安定しよう。』
そう告げて、夜闇は姿を消した。
「何の………気まぐれ?」
紫蘭は身震いした。
今更乍ら、恐怖感が甦る。
心臓が煩い程に踊り、息苦しさに目眩がした。
だが。
知りたい事を教えられたのは確かだ。
夜闇が、紫蘭の存在を「お気に入り」に数えた事は、まだ知る由も無い紫蘭花だった。
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