◇6話◇掠われた姫君の日常
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「紫黎花、我が姫。今日は貴女の名を飾る花を手に入れて参りましたよ。」
「まあ、この紫蘭は…」
この星のものでは無いだろう。
「女神の生まれた星にある花が、元々の由来と云いますからね。」
この世界のものでさえ無かった。
紫蘭は複雑な気持ちで微笑み、小さくため息をついた。
それでも、この星の花とは違い、小振りな紫の花に和む。端正された大輪も良いが、この花は野趣を含み素朴で可愛いらしい。濃い紫の大量の花束に、どれだけ摘んだのかと笑いも零れる。
自分の為に揃えられた花が嬉しくない訳がない。大多数の女がそうで有る様に、紫蘭もまた花を贈られる事が好きだった。
「貴女と美しさを競う事は叶わなくとも、貴女を飾る事ならば、この花にも出来るでしょう。」
そう云って、彼女に花を捧げて跪く。
傅れ、手に口付けを許し乍ら、彼女は泣きたくなる。
彼はこれ以上、彼女に近寄る事をしない。愛していると云い、激しく深い恋を眸に顕して、ただ視つめるだけ。
言葉と、言葉以上の眼差しと、たまに…そっと白い手に口付けるだけ。
勿論。
それ以上の事を望まれても困る。最初に拒んだのは紫蘭だし、また今求められても拒むだろうが、だからと云って、嫌だと思っている訳でもない。
女心は複雑で、彼女の立場が尚一層それを深めた。
「クルトの王子が、三弥山まで来ましたよ。あそこの盗賊に襲われて負傷したようです。」
優しい声がうっとりと、彼女を視つめたまま告げる。
穏やかに。
静かに。
全然違う話題なら似合うかも知れない。
もっと平和な、優しい声が似合う話題は、いくらでも有る筈だ。
けれど、優しい風情に混乱を覚えるその話が、燕夜の一番口にする話題で、紫蘭は気分が悪くなった。
燕夜を残酷だと思う訳でも無く。ただ、己の罪を自覚する。
「大丈夫ですよ。ちゃんと逃げ延びて、手当てもしたようです。」
穏やかに残念だと続け、そんな事を云いつつも紫蘭の顔色を心配そうに窺う。
的外れな心配をして、彼女を喜ばせるつもりの情報を告げた。
「十日もすれば来るでしょうね。彼は、貴女に熱烈な恋をしているようだ。」
女を切なくさせるような微笑は、紫蘭のお気に入りの表情のひとつだったが、彼女は微かに頬の辺りを緊張させて、首を振った。
「一人にして。」
「……御心のままに。」
彼の不在の空間で、彼女はまた首を振った。
ゆっくりと、左右に振って、泣きそうな表情をした。
呼ばない限り、彼はこの部屋を観ない。声を掛けてから現れるのもその為だ。
偏執じみた執着を見せ乍ら、珍しいくらいに礼儀正しい紳士で、どうしたら彼を嫌えるのか教えて欲しいと紫蘭は思う。
感情を隠せないなんて、彼女にはついぞ覚えが無かった。
今迄、自ら計算して零す以外に、心を曝した事など無い。
なのに、誰も見てはいないからとは云え、今…涙を堪え、せき止める事の出来ない感情に振り回されている。
紫蘭は叫び出したいような気持ちを持て余した。
もし、燕夜が彼女の様子を目にしたら、また、哀しく嗤うのだろうか。
ヒラリスの為だと誤解して、自らを嘲笑うのかも知れない。
事実は燕夜の想像を超える。
ヒラリスが来ると知った時の感情。無論、来るのは知っていたし、早い到着を祈ってもいた。燕夜からも折りにふれ、ヒラリスの道程を報告されていた。
だから、別段、驚くには値しないのだ。
本来なら。
なのに先刻、そんなにも近く迄来ているのか…と衝撃を受け、更に、そんな事でショックを受ける自分自身に愕然としたのだ。
早く…来て欲しいと願っていた。
早く、来てくれないと…自分の心が解らなくなるから、いや、そんなものは本当は解っていたが、せめて、理性が保てる内に来て欲しい…と、彼女は願ったのだ。
救って欲しいと願った。
国も、何もかも。
総てを、どうでも良い……と、うっかり考えてしまうような、そんな自分の感情から、助け上げて欲しい。そう彼女は願った。
想いを殺して、何も無かった振りで、嫁げると思った。
時に胸が痛んでも、狡かった自分を懐かしむ未来が待つと信じた。
恋など錯覚に過ぎず、ならば夫となる人に、上手に恋をして、愛されるように立ち回れば、それが一番倖せな筈では無いか?
――燕夜なんか。何故愛したりしなければならないのだろう?
ヒラリスの行程に、来るな、と念じた。
早く来て、助けてと願った。
誰も来るなと祈った。
祈る自分を紫蘭は自覚して、けれど己の立場もまた…よく弁えていた。
政治のゲームはもはやどうでも良い――何より彼女を楽しませたのに――が、国の平和と安全をどうでも良いとは云えない。
そして、彼女の貞節が破られる事は、セリカとクルトが争う事でもあった。
例えば、南の国の姫ならば、体をひらかれる事が、貞節の終わりだ。男達の考えもそうで、紫蘭には理解出来ない。
ならば心で誰かを愛しても、体さえ触れなければ貞節は守られるのか?
理屈に合わないと、紫蘭は思う。だから、東と似た考え方を持つ、西に嫁ぐ事にしたのである。
実際、掠われた時には、嫁ぎ先が西で良かったと思った。
けれど今。紫蘭は肌を守り乍ら、心を奪われた。
決して、誰にも覚らせはしないが、確かに紫蘭の貞節は失われたのだ。
南が嫁ぎ先ならと、一瞬とは云え、紫蘭は考えた。
あの国が、例え、一回でも掠われた姫に、敬意をはらわないと知り乍ら、それでも、そんな莫迦な考えを浮かべずにいられなかった。
それ程、彼女は衝撃を受けたのだ。
何よりも、燕夜がヒラリスに自分を渡すかも知れないと、そんな可能性を恐怖した。
そして、それを恐怖する自分自身こそに、彼女は何より怯えたのだ。
紫蘭はけれど、いつまでも怯えるだけでは無い。
毅然と顔を上げた。
あごを引いて、眸を細めた。
決意には一瞬で足りた。
「燕夜。」
どんな囁きにも燕夜は応じる。
黒衣の男は相変わらず美しかった。
誰よりも美しいと彼女は思った。
美は力。美は正しき事象。身についた教えが後押しをする。
「貴方は、わたくしをヒラリス様に渡すの?」
冷ややかに彼女は尋いた。
甘い声が応えたのは、彼女が望んだソレに相違なかった。
「彼は殺します。」
「クルトが攻めてくるわ。」
冷たい声がつまらなそうに云うと、彼は深い静かな笑みを見せた。
相変わらずの淋しい笑みで、何処までも沈みそうな深い色の眸。
それでも、紫蘭を知らぬ頃の、愛する事を知らぬ彼の、空虚な絶望と寂寥感は失くなっているのだ。
彼女は以前の彼を知らないが、その事は知っていた。
「全軍は来ませんよ。例え来ても追い返しますが。」
「全軍相手どれると?」
不信の眸に苦笑が返る。
「私はこれでも魔王ですよ?」
その言葉に、彼女はいたく安堵したのだった。
「私は、けれど…貴方のモノにはならないわ。」
「ええ、それでも。私は貴女と共に居たいのです。」
「愛さないわ。」
「ええ。知っていますよ。」
その笑みは、この上なく優しいものだったが、彼女を泣きたくさせた。
先程以上に、彼女を哀しませ、苦しめた。
そして、それ以上に怒らせた。
――嘘付き。貴方は何も知らないわ。私が誰を愛するかさえ、あなたは知らない。
そう思って彼女は顔を背けた。
冷淡な振りは必要無かった。
充分に、男に対して反発を覚えていたからだ。
「何処かに行って。しばらく帰ってこないで。」
「はい。姫君。」
燕夜は何にも知らない。
紫蘭の望みも、本当の言葉も、何ひとつ。
――どうして知らない?
彼女は床に、机上の物をたたき付けた。
泪は出ない。
泣きたかったが、泣けはしない。
余りの情けなさに、呆れ果てていたのだ。
あの莫迦…と紫蘭は思う。
初めて逢った時には、全部解った癖に、と。
内心、叫んで、今度は椅子に手をかける。
叩き壊した。
護身用に好きでもない――と周囲が考えていただけの――剣や体術を習っていたが、熱意はとても役立っていた。彼女は刺繍などより余程、剣や武術の方が好きだったし得意だった。
ヒラリス王子は、彼女のこの姿を見ても、恋の海に溺れたままだろうか?
少なくとも、燕夜ならば、ひとかけらも想いが冷める事はないだろう。
燃える事はあったとしても……である。
何と云っても、彼そっくりの手腕に加えて、彼に無かった「大切な何か」を彼女は持っているのだから。
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