表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/32

◇6話◇掠われた姫君の日常

☆☆☆


「紫黎花、我が姫。今日は貴女の名を飾る花を手に入れて参りましたよ。」

「まあ、この紫蘭は…」


 この星のものでは無いだろう。


「女神の生まれた星にある花が、元々の由来と云いますからね。」


 この世界のものでさえ無かった。

 紫蘭は複雑な気持ちで微笑み、小さくため息をついた。

 それでも、この星の花とは違い、小振りな紫の花に和む。端正された大輪も良いが、この花は野趣を含み素朴で可愛いらしい。濃い紫の大量の花束に、どれだけ摘んだのかと笑いも零れる。


 自分の為に揃えられた花が嬉しくない訳がない。大多数の女がそうで有る様に、紫蘭もまた花を贈られる事が好きだった。


「貴女と美しさを競う事は叶わなくとも、貴女を飾る事ならば、この花にも出来るでしょう。」


 そう云って、彼女に花を捧げて跪く。

 かしずれ、手に口付けを許し乍ら、彼女は泣きたくなる。

 彼はこれ以上、彼女に近寄る事をしない。愛していると云い、激しく深い恋を眸に顕して、ただ視つめるだけ。


 言葉と、言葉以上の眼差しと、たまに…そっと白い手に口付けるだけ。


 勿論。

 それ以上の事を望まれても困る。最初に拒んだのは紫蘭だし、また今求められても拒むだろうが、だからと云って、嫌だと思っている訳でもない。

 女心は複雑で、彼女の立場が尚一層それを深めた。


「クルトの王子が、三弥山まで来ましたよ。あそこの盗賊に襲われて負傷したようです。」


 優しい声がうっとりと、彼女を視つめたまま告げる。

 穏やかに。

 静かに。

 全然違う話題なら似合うかも知れない。

 もっと平和な、優しい声が似合う話題は、いくらでも有る筈だ。

 けれど、優しい風情に混乱を覚えるその話が、燕夜の一番口にする話題で、紫蘭は気分が悪くなった。


 燕夜を残酷だと思う訳でも無く。ただ、己の罪を自覚する。


「大丈夫ですよ。ちゃんと逃げ延びて、手当てもしたようです。」


 穏やかに残念だと続け、そんな事を云いつつも紫蘭の顔色を心配そうに窺う。

 的外れな心配をして、彼女を喜ばせるつもりの情報を告げた。


「十日もすれば来るでしょうね。彼は、貴女に熱烈な恋をしているようだ。」


 女を切なくさせるような微笑は、紫蘭のお気に入りの表情のひとつだったが、彼女は微かに頬の辺りを緊張させて、首を振った。


「一人にして。」

「……御心のままに。」


 彼の不在の空間で、彼女はまた首を振った。

 ゆっくりと、左右に振って、泣きそうな表情をした。

 呼ばない限り、彼はこの部屋を観ない。声を掛けてから現れるのもその為だ。

 偏執じみた執着を見せ乍ら、珍しいくらいに礼儀正しい紳士で、どうしたら彼を嫌えるのか教えて欲しいと紫蘭は思う。


 感情を隠せないなんて、彼女にはついぞ覚えが無かった。

 今迄、自ら計算して零す以外に、心を曝した事など無い。

 なのに、誰も見てはいないからとは云え、今…涙を堪え、せき止める事の出来ない感情に振り回されている。

 紫蘭は叫び出したいような気持ちを持て余した。


 もし、燕夜が彼女の様子を目にしたら、また、哀しく嗤うのだろうか。

 ヒラリスの為だと誤解して、自らを嘲笑うのかも知れない。

 事実は燕夜の想像を超える。

 ヒラリスが来ると知った時の感情。無論、来るのは知っていたし、早い到着を祈ってもいた。燕夜からも折りにふれ、ヒラリスの道程を報告されていた。

 だから、別段、驚くには値しないのだ。

 本来なら。


 なのに先刻、そんなにも近く迄来ているのか…と衝撃を受け、更に、そんな事でショックを受ける自分自身に愕然としたのだ。


 早く…来て欲しいと願っていた。

 早く、来てくれないと…自分の心が解らなくなるから、いや、そんなものは本当は解っていたが、せめて、理性が保てる内に来て欲しい…と、彼女は願ったのだ。


 救って欲しいと願った。

 国も、何もかも。

 総てを、どうでも良い……と、うっかり考えてしまうような、そんな自分の感情から、助け上げて欲しい。そう彼女は願った。


 想いを殺して、何も無かった振りで、嫁げると思った。

 時に胸が痛んでも、狡かった自分を懐かしむ未来が待つと信じた。


 恋など錯覚に過ぎず、ならば夫となる人に、上手に恋をして、愛されるように立ち回れば、それが一番倖せな筈では無いか?


――燕夜なんか。何故愛したりしなければならないのだろう?


 ヒラリスの行程に、来るな、と念じた。

 早く来て、助けてと願った。

 誰も来るなと祈った。

 祈る自分を紫蘭は自覚して、けれど己の立場もまた…よく弁えていた。

 政治のゲームはもはやどうでも良い――何より彼女を楽しませたのに――が、国の平和と安全をどうでも良いとは云えない。


 そして、彼女の貞節が破られる事は、セリカとクルトが争う事でもあった。


 例えば、南の国の姫ならば、体をひらかれる事が、貞節の終わりだ。男達の考えもそうで、紫蘭には理解出来ない。

 ならば心で誰かを愛しても、体さえ触れなければ貞節は守られるのか?

 理屈に合わないと、紫蘭は思う。だから、東と似た考え方を持つ、西に嫁ぐ事にしたのである。

 実際、掠われた時には、嫁ぎ先が西で良かったと思った。


 けれど今。紫蘭は肌を守り乍ら、心を奪われた。

 決して、誰にも覚らせはしないが、確かに紫蘭の貞節は失われたのだ。


 南が嫁ぎ先ならと、一瞬とは云え、紫蘭は考えた。

 あの国が、例え、一回でも掠われた姫に、敬意をはらわないと知り乍ら、それでも、そんな莫迦な考えを浮かべずにいられなかった。

 それ程、彼女は衝撃を受けたのだ。

 何よりも、燕夜がヒラリスに自分を渡すかも知れないと、そんな可能性を恐怖した。

 そして、それを恐怖する自分自身こそに、彼女は何より怯えたのだ。

 紫蘭はけれど、いつまでも怯えるだけでは無い。

 毅然と顔を上げた。

 あごを引いて、眸を細めた。

 決意には一瞬で足りた。


「燕夜。」


 どんな囁きにも燕夜は応じる。

 黒衣の男は相変わらず美しかった。

 誰よりも美しいと彼女は思った。

 美は力。美は正しき事象。身についた教えが後押しをする。


「貴方は、わたくしをヒラリス様に渡すの?」


 冷ややかに彼女は尋いた。

 甘い声が応えたのは、彼女が望んだソレに相違なかった。


「彼は殺します。」

「クルトが攻めてくるわ。」


 冷たい声がつまらなそうに云うと、彼は深い静かな笑みを見せた。

 相変わらずの淋しい笑みで、何処までも沈みそうな深い色の眸。

 それでも、紫蘭を知らぬ頃の、愛する事を知らぬ彼の、空虚な絶望と寂寥感は失くなっているのだ。

 彼女は以前の彼を知らないが、その事は知っていた。


「全軍は来ませんよ。例え来ても追い返しますが。」

「全軍相手どれると?」


 不信の眸に苦笑が返る。


「私はこれでも魔王ですよ?」


 その言葉に、彼女はいたく安堵したのだった。


「私は、けれど…貴方のモノにはならないわ。」

「ええ、それでも。私は貴女と共に居たいのです。」

「愛さないわ。」

「ええ。知っていますよ。」


 その笑みは、この上なく優しいものだったが、彼女を泣きたくさせた。

 先程以上に、彼女を哀しませ、苦しめた。

 そして、それ以上に怒らせた。


――嘘付き。貴方は何も知らないわ。私が誰を愛するかさえ、あなたは知らない。


 そう思って彼女は顔を背けた。

 冷淡な振りは必要無かった。

 充分に、男に対して反発を覚えていたからだ。


「何処かに行って。しばらく帰ってこないで。」

「はい。姫君。」


 燕夜は何にも知らない。

 紫蘭の望みも、本当の言葉も、何ひとつ。


――どうして知らない?


 彼女は床に、机上の物をたたき付けた。


 泪は出ない。

 泣きたかったが、泣けはしない。

 余りの情けなさに、呆れ果てていたのだ。

 あの莫迦…と紫蘭は思う。

 初めて逢った時には、全部解った癖に、と。

 内心、叫んで、今度は椅子に手をかける。

 叩き壊した。

 護身用に好きでもない――と周囲が考えていただけの――剣や体術を習っていたが、熱意はとても役立っていた。彼女は刺繍などより余程、剣や武術の方が好きだったし得意だった。


 ヒラリス王子は、彼女のこの姿を見ても、恋の海に溺れたままだろうか?

 少なくとも、燕夜ならば、ひとかけらも想いが冷める事はないだろう。

 燃える事はあったとしても……である。

 何と云っても、彼そっくりの手腕に加えて、彼に無かった「大切な何か」を彼女は持っているのだから。


☆☆☆

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ