◇5話◇王子の錯覚
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紫蘭姫の絵姿を目にした時、ヒラリスは「何と美しい」と思いはしたが、多大な期待は抱かなかった。
南のカテアの国の姫と東国セリカの紫蘭姫、その二人が、国を越えて有名な美姫として謳われている。
二人の絵姿は同等に美しく、同じくらい目を惹いた。
だが、絵はより美しく描かれるモノだったし、パセクの姫の倣いもある。
あの日迄、セリカ、パセク、カテアの三国の姫達は王子達の憧れの的だった。
同じくらい美しい姫君達の、それぞれ違う種類の魅力に、王子達は誰が彼女達を娶る事になるのか、その心を手中にするのかと、浮き立つような噂話に興じたりもしたのだ。
実際に目にしないと、信じられない。と云う、当たり前の事を学んだ事件である。
カテアの姫は美しかった。絵姿に勝りはしないが、詐欺と云う程でもない。カテアなら良いがパセクだと困る。絵姿の半分も美しくないパセクの姫。
美しくない…忌憚なく云うならば、寧ろ醜女と呼ぶべき女。
容色に、そこ迄こだわる気持ちは、ヒラリスには無かったのだ……あの日迄は。
「我恵那王子の二の舞は、踏みたくないからなあ。」
パセクの姫の婚約者だった、東国の王子を思い出し、ヒラリスは何と、紫蘭姫の美貌が如何程かと、調査の旅に出たのである。
セリカとカテアならセリカの方が国の文化度は名高いが、カテア一国として見るなら、そこも充分に芸術の国だった。それならば姫を見比べたいのが人情と云うものだろう。
カテアの姫には彼の国の夜会で出逢った事があるので、問題はセリカの姫だった。同じ東の国の癖に、ヒラリスの友人である我恵那王子は彼女に逢った事がないと聞くが、自分は是非とも逢いたい。
いや、見たいのだ。と、決心を胸に刻んで旅に出た彼である。
「そして垣間見たんだ、あの方を…」
ヒラリスは東の森へ至る道中に、想いを巡らし熱っぽく思い出していた。
忍び込んだ城の庭園は、見つかれば危いが、美しいものだった。流石に名高いセリカだと、芸術の国をそれだけで納得させる庭を歩きつつ考えていた。
ますます、姫君には美しくあって欲しい。いや、この際贅沢は云わない。人並みな美人で充分だ。カテアの姫ほどの美貌など無くとも構わないから、好みの範疇に収まってくれと願ったのだ。
相手の美しさは我が子の美しさに繋がり、我が子の美はそのまま政治の道具にもなるのだから、彼の考えは唯、自分の為と云う訳ではない。
勿論美しい女性は好きだが、それだけで無い事も確かなのだ。
「まぁ、ダメよ。帰ってらっしゃい。エクゥ…エクエちゃん…」
白い猫を呼ぶ少女の声は、細く、銀の月のように美しかった。
冬の夜の様に透明で、春のように柔らかだった。
ヒラリスはその声に凍りつき、次の瞬間、その姿に更に凍った。
その声にはその姿しか有り得ぬと云うくらいに、綺麗な、見た事もないくらいに綺麗な少女だったからである。
一瞬にして魅せられたと云っても良いだろう。
東国特有の銀の髪は青のグラデーションが懸かっていた。青と碧と銀の髪。1番強い色はやはり碧だったろう。眸はこれまた東国以外には捜す事も困難な金銀妖瞳。その中でも珍しい、紅玉と紫玉の組み合わせだった。
彼はその時にセリカの姫を紫蘭と呼ぶ事に決めたのだ。
美しい姫。絵姿の倍、いや絵など彼女の素晴らしさの十分の一も描けてはいない。その絵の半分でも美しい女性であって欲しい、と願った結果がそれなのだから、彼が恋に落ちたのは当然と云えるだろう。
熱狂した、と云っても良い。
ただし、それは後ろめたさを隠す為、と云う要因を多分に含んだ恋の病だった。
東の名は理解は難しいが神秘的で美しい。紫蘭がまさしく紫蘭の花を顕し、夜明けと硝子を意味する名前だと教わった。
勿論、夫となれば、彼女を二つの名で呼ぶ事が許されるのは自分だけなのだ。硝子の花で硝花も良い、蘭の花も同様に美しい。姫の両親が呼ぶその名も綺麗だと思う。この、二つの名を呼ぶ事を許される、等と云う雅やかな風習がまた素晴らしい。
クルトの王子の「持ち物」にセリカの姫君がおさまるのだ…と、あからさまな言葉にするならば、そういう所有欲、支配欲を、満足させる事実なのだ。
この美しい名前に相応しい見目が有るかなと、意地の悪い事を考えたのも確かだった。
無意識の支配欲は、けれど姫君を目にした事で微妙に形を変えた。元々が素直な性質を持つヒラリスだから、そのまま恋うる心に置き換えて、歪む間もなく情熱の中に落として燃やした。
「そして僕はあの方を守る事を誓った」
走り出て、ひざまずいて剣に誓いたかった。彼女の手に剣を預け、その前に命を曝したかった。
誓いを述べて、許すと、彼女の云って欲しかった。共に誓いの儀式をしたかったが、勿論走り出たりはしなかった。流石にその程度の分別は残っていたので、心に一人誓っただけだ。だが儀式なしでも充分真剣な誓いだったのだ。
だからこそ、今回も旅に出て来たのである。
自分や国の名誉も大事だが、彼女への愛以上に重いものが有るだろうか?とヒラリスは思った。
立派に恋狂いの若者である。
まさか恋する姫君が、魔王に心を移しているなどと彼には想像も出来ず、心を痛める想像の翼が向かうのは、彼女が如何に心細い気持ちだろうか…どんなにか苦しんでいるだろうか、等と美化された繊細な姫君の姿ばかりである。
「姫君は僕を待っているだろう」
確かに待っていた。
「早く救われたいと、願っていらっしゃる事だろう…」
救いも、求めてはいただろう。だがヒラリスの恋に眩んだ眸に映し出される姿とは、些か違ったかも知れない。
彼がそれを知らないのは、彼の倖せに一役買っていた。いや、それを知る事は、彼を一転して不倖にさえしただろう。
しかし、彼はそれを知らず。だから、こうして旅を続ける。
正式な旅ではないから、そして、唯のお忍びでも無い故に、街路は使えず慣れぬ悪路を進んだ。
姫君の為にと、追いはぎや強盗も斬り伏せ、そこに至る道を塞ぐ、悪人達の巣も潰さなければならなかった。
こうして時に各国の王子達が、冒険の旅に出るお陰で、悪人達の数を広めずにいられるのだ。
冒険の失敗も念頭に置いて、秘密裏に事が進められるのも、もしかして民にとっては都合が良い事だろう。
勝手に秘密に行く為に、平和な街路を避けて、悪路を進む。悪人達の潜伏する人の通わぬ道を切り開いてくれるのだから。
そして今日も彼は戦う。
自分を愛さぬ姫の為に。
誰より愛する、姫の為に。
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