◆20話◆誘惑の神
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『アレが闇を遣ったぞ。』
既に、その訪問に慣れた紫蘭花である。
アレが燕夜を指す言葉とも知っていた。
闇の力を、燕夜が遣える事も。
今まで、遣う事に関心を持たなかった「道具」である事も。
そして、最近は頓に闇に染まりつつあるとも、紫蘭花はセルストに言葉で、知っていた。
それでも。
息が詰まった。
燕夜の慟哭を聴いた気がした。
「応えたら、彼は変わるのでしょうか?」
声が震えた。
『恐らくな。変わるだろう。』
つまらなそうに、夜闇が応じた。
「セルスト神。燕夜は何を為そうとするのですか?」
『知っているだろう?』
甘く、闇が囁いた。
「ヒラリス王子に、闇を?」
『いいや。別の邪魔者に。』
「邪魔者?」
虚を衝かれ、紫蘭花は闇から逸らせた視線を上げた。
夜闇が魅了の罠を眼差しに宿していた。
ぐらりと、世界が揺れて、紫蘭花は両足に力を込めた。
『砂久弥を、暫く眠らせる為だ。』
満足そうに笑って、夜闇のセルストが解答を与えた。
紫蘭花は闇に牽引される気持ちを引き締めて、ぐっと奥歯を噛み締め、心を閉ざした。
――凍れ。硬く。固く。頑なな心を造り上げろ。
だが、思う傍から惑わす神の毒の甘さに、紫蘭花は眩惑される。
「砂久弥……を?」
『ああ。流石に、アレを傷付ける訳にもいかないだろう。』
今度のアレは、砂久弥の事だろう。
『ヒラリスを殺すのに、砂久弥は邪魔者だろう?』
――傷付ける事は出来ない。では本当に、単なる眠りに誘っただけ……か。
紫蘭花は鈍り痺れた脳裡で、懸命に思考を巡らせた。
――目的を遂げる迄、眠って貰う積もりなのだろう。
そして。
目的はヒラリスの死。
「ヒラリス様を、足止めは出来ませんか?」
闇は笑う。
可笑しそうに、笑った。
『それをして如何にする?永遠に止めおく訳にはいかないぞ?』
紫蘭花は唇を噛んだ。
まともに物が考えられない。
己が、とんでもない愚か者に成った気がした。
『私は嬉しい。それは、私に惑う故だろう?』
甘い声が更に紫蘭花を眩惑し、優しい夜の微笑を見せた。
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――自分が、罠に嵌まれば意味は無い。
神の坐す間は、揺れた心が硬く凍る。
紫蘭花はゆっくりと己が心を取り返した。
染まりかけた心に光を注ぎ、ほっと安堵に吐息した。
――それでも。
知りたい事は知った。
時間が、本当に無い。
燕夜は闇に染まりつつある。
「応えたら、良いと云うの?」
だが。
それが出来るなら、とっくにしていた。
『ヒラリスは女神の愛し子の一人だよ。』
闇の囁きを思い出し、紫蘭花は身を震わせた。
その、耳元に甦った毒の甘さと、言葉の内容に恐怖した。
燕夜もまた。
女神の愛し子だと云う。
かなりのお気に入りだとも聞いた。
だが、同じ愛し子を討つなら、許されるかは疑問である。
――セルスト神に出逢ったのは僥倖だった。
でなければ。
紫蘭花は何も知らないままに、ヒラリス王子と燕夜、二人の命が喪われる光景を見る事になったかも知れないのだ。
――ヒラリス王子は私を救いに来る。燕夜は私を奪われたくは無い。
先ずは説得。
――もしかしたら。
それで何とかなるかも知れない。
無理だったら。
――仕方ない。
それしかないなら。
そうするしかないなら。
紫蘭花はそっと、誰にも届かない笑みを、口元に刻んだ。
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