◆19話◆夜闇の誘惑
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誰より彼女を愛してる。
誰より彼女が欲しくて。
誰より、誰より、誰よりも――。
言葉を交わしたい、傍に居たい、笑顔が見たい、声を聞きたい、その手に触れたい、唇に触れたい、その肩を抱きたい、腰を引き寄せて…………些細な事も、そうで無い事も、全てが誰に対するより彼女に向かう。
けれど。
だから。
燕夜は彼女に触れたり等しない。
燕夜は自らの手を見る。
嫌悪と後悔がその眸に浮かぶ。
ケガレ……を、そこに見つける。燕夜にしか見えないと知りつつ、黒髪が映える白い手を握り込む。
「こんな手が、姫に触れる事など許されはしない。」
冷たく凍る声が云う。
闇に浮かぶ顔は、うっすらと微笑した。
「だが、あの男にも触れさせない。」
黒の王子。夜闇の主が、支配下の闇に命じる。
「悪夢を、届けておあげ。あの男の連れに。彼までも………傷付ける訳には行かないからね。」
蠢く闇が密やかにさんざめき、夜の森に去る。
燕夜は眸を閉じた。
「本当は、誰も愛しくなど無かった。」
自分は罪を犯した。誰も愛さない故に、弟を殺した。だから死にたかった。
要約したなら、それは何と陳腐な経歴だろう。
燕夜は自嘲の笑みに口元を歪めた。
しかも、更に陳腐なドラマは続いた。
皆を愛してると思っていた。だが、弟を死なせた瞬間、考えたのは「力」が……被害を拡大させない事だった。
皇太子として、どう行動すべきか、それを先ず無意識に選択した燕夜。
苦悩して、死を望んで、得たのは「永遠」。
しかも、と燕夜は思いを馳せる。
永遠に続く筈の罰を生きる中で、愛する女性が現れた。
「これを陳腐と云わずしてどうする。」
燕夜は自らの滑稽を嗤った。
更に続いた愚かな道化は、我慢する事さえ出来ず、姫を掠いさえしたのだ。
「だが。もう良い。私は姫を諦める事も出来ない。」
だから、ヒラリスには死んで貰う事にしたのだ。
姫は泣くかも知れない。
だが、倒されてやる事さえ、燕夜の「命」は赦さない。
ならば、ヒラヒラ王子に居なくなって貰うしか無いだろう。
そして。
姫とずっと、此処に暮らすのも良い。
天上に愛されたヒラリスに「傷」を与えたと、罰を受けるのも良い。
姫の傍に在る事を望む燕夜にならば、今や死は希望以上に絶望だ。
充分に罰となるだろう。
どちらでも良かったのだ。
どうせ、姫が燕夜を愛する日など、来はしないのだから。
☆☆☆
トウゼ王に成り、預けられた東の塔である。もしそれが朽ちた塔だったならば、そのままに放置しただろう。
だが此処は美しく素晴らしい場所だった。だから、そのままの状態を保つ為に人も雇った。
何かしらの、積極的な意志など何処にも無い。ただ維持だけを目的としたものだったのだ。
彼が自分から望んだのは、紫蘭姫の部屋を設えた時が初めてだった。
そして、紫蘭姫の為に、その心を慰め喜ぶ顔が見たいが為に、少しずつ、燕夜は森の中での生活を変えた。
彼女は美しい。
それを感知する事は出来ても、永く心に響かない状態が続いていた。
美しいと、心が感動する。その事実は永年忘れていた。思い出せて嬉しいと感じた。
彼女を欲した。
何かを望む自分にも驚いた。
欲しくて堪らない気持ちになった。
その切なさに人間だった頃を思い出した。
まだ、本当に自分が「生きて」いたのだと実感した。
その頃の燕夜は、永く苦痛さえも忘れ果てていた。
喜びも苦しみも、最早感じる事は無いと思っていた。
ただ、暗く沈んだ後悔を、永遠に過ごす筈だった。
だが、紫蘭花は可愛い。綺麗だ。美しい。
育ち行く彼女を視つめ続けて、燕夜は微笑みを取り戻した。
時は過ぎ、少女は大人に成る。
より美しく、華やかに咲き誇り、嫁ぐ日が来る。
例えば、トウゼ王が求婚の使者を送ったならば、セリカは喜んで受け入れるだろう。
東の国々は、慶賀に湧くだろう。
だが………それで?
燕夜が紫蘭花を手に入れて、その結果は?
紫蘭花は、こんな男に嫁いで倖せになれるのか?
燕夜に、紫蘭花を手にする資格が有るのか?
否。否。否。
心に残る闇が、嘲笑う。
『さあどうした?愛する姫が有るのなら、闇の中に曳くが良い。愛し子よ遠慮は無用だ。連れておいで?』
付き纏う、夜の神が哄笑する。
☆☆☆
最初に、闇が燕夜の前に姿を顕したのはいつだったろう。
「セルスト神。リー・セルスト。私は闇に仕える気は有りません。私の忠誠はリア・リルーラとリー・シエンに捧げられたもの。」
『嘘だな。ならば私は此処に顕れる事すら出来ない筈だ。』
「嘘では有りません。」
『リアは構わぬよ。あの方は我らの女神でも在られる。だがそなたの忠誠は月に有るのでは無い。故にシ・エンには縛られない。ソナタは闇を求めている。』
夜の神々が燕夜を訪れ誘惑しても、燕夜が受け入れる事は無かった。
光を受け入れないのでは無い。
何も受け入れる気が無いだけだった。
苦痛や不倖を撒き散らしたい訳でも無い。
己が罰を欲しただけだ。
『ならば罰を授けよう。どんな苦痛も思いのままだ。』
既に罰なら享けていた。
苦痛さえ与えられない現在こそがソレだった。
燕夜は苦痛に逃げる気は無かった。
淡々とトウゼ王としての職務を熟す燕夜を、しかしセルストは気に入ったらしかった。
夜闇の神が、昼の月が輝く時間にまで訪う様になるのに、然したる期間はおかれなかった。
「今は昼間かと思いましたが。」
『影は何処にでも在る。人の心にも闇が在る。』
うんざりと尋ねればニヤリと返された。
付き纏う闇の誘惑に、だが燕夜は無関心だった。
当たり前の様に傍らに在るものと、じきに認識した。
流石に、主月神やリア・リルーラが顕れる時は、姿を消したが、ソレが常に傍に存在するものだと、燕夜が気付くのに時間は掛からなかった。
「そう。そなたの認識に間違いは有りません。」
リア・リルーラも頷いた。
月の輝きに影は薄くなる。
現実も、心も、光りに包まれる。
声が届かなくなるだけで、見えないだけで、ソレは消えた訳でも無いのだ。
あくまでも、そこに「在る」。
『そなたの心に闇が残る故に、私はそなたを愛するのだ。』
とは云え。
セルスト自身が構いつける人間もまた珍しいらしく。
「また面倒なものに好かれたものですね。」
女神は嘆息し。
「そなたが頷かないなら別条問題は無い。」
主月神は笑った。
頷いたなら、月神も介入が難しくなるとも云われ、決して試しに誘いに乗ったりはしない様に釘を刺された。
もとより頷く気など無い。
だが、セルストに愛された燕夜は月の魔力と共に、闇の力も強くなる。
夜闇は燕夜の友となり、ソレは存外敏感な人の世で、呼称となって表れた。
黒の王子。
夜闇の魔導師。
東の魔王。
煌めく東是王の名が、禍々しい呼称に隠れ、ソレは申し訳ない事と月の女神に詫びた燕夜であった。
女神はただ微笑むのみ。
美しい、愛しい、可愛い、欲しい………
心が欲と希望を取り戻し、寝ぼけた様に燕夜の周囲を取り巻いていた闇の神々は、活発に動き出した。
囁き、笑いさざめく。誘惑を再開して。燕夜の夢にまで侵入を果たした。
『燕夜。』
「姫!?何故ここに!?」
最初は取り乱しさえした燕夜である。
今では一言。
「寄るな。」
斬って捨てる。
姫の姿にも、動じる事は無い。
少なくとも表明上は。
姫を汚された気がして、嫌悪が募るばかりだった。
『似てないかな?』
「その声もやめろ。」
冷ややかな眼差しに、セルストは姫の声で笑う。
『おお怖い。いきなり斬り付ける事は無いだろう?』
セルストは燕夜から距離を取り、左手を翳して見せた。
不審そうに眉を寄せる燕夜に、ニイと姫の唇が下品な迄の笑いを作った。
カチリ、鞘を鳴らす燕夜に、セルストは更に距離をとり。
隣には一人の男が姿を現した。
「人間?いや、人形か。」
『そう。お人形だよ。これは西国クルトのヒラリス王子。……の、す、が、た。』
ヒラリスの人形が、姫のセルストの腰を抱く。
燕夜は剣を振り上げた。
ヒラリスが姫を抱き寄せ、のけ反る咽に口付けた。
肩から落ちる布。
そして、瞬間に消えて、地面には燕夜が投げた剣が刺さる。
哄笑が響く。
『そなたが否定しても、今のままならそうなるぞ?ほら、もうじきだ。じきに姫の行列が国境に差し掛かる!』
哄笑はセルストの声になり姫の声になり誰とも知れぬ男のものとなった。
それがヒラリスの声だと、察知したのは、セルストとの付き合いの永さか、恋する男の本能と云うべきか。
白昼夢より目覚めた燕夜は、東の塔より姿を消して、次の瞬間には紫蘭花の行列を眼下に映していた。
☆☆☆
段取りを無視した求婚に、姫が応じる訳も無い。
我慢出来ないならば、最初から求婚していれば良かったのだ。
だが、燕夜はセルストの挑発に乗ってしまった。使う筈の無い罠を、しかし用意していたのも、また挑発に依るものだった。
とは云え、これ以上惑う積もりは無い。
そう考え乍らも、姫を目の前にすれば揺らぐ心がそこに有る。
彼女の笑み。彼女な言葉。彼女自身の声。彼女の仕種。
統べてが愛しく。統べてが燕夜を変えていく。
「愛しています。」
燕夜は告げるが、応えて貰えない事は承知していた。
事実、冷たい眼差ししか返される事は無い。
それでも花に罪は無いとばかりに、捧げ物には微笑んでくれたりもする。
美しいものが好きな紫蘭花の為に、燕夜は美しいものを取り揃えた。セリカの地で、一流の物に囲まれて育った彼女を満足させる程の「モノ」を、彼は懸命なまでに探索した。
彼女に応えて貰えたならば、自分は昔に還る事が出来るだろうか?
そんな事を考えもした。
有り得ない事だ。
そうも考え、自らを嘲笑った。
だが、誰も愛さなかったのが「罪」ならば、現在姫を愛する事実は「何」になるのだろう。
彼は考える。
もしも………と。
万が一彼女が自分を愛するならば、人生を変える事も出来るだろう。
美しいモノが好きな彼女が自分を好まないのは、自分の中のケガレを敏感に察知するからでは……と、燕夜は感じた。
だから彼女の為に。
彼女が応えてくれたら。
やり直したい。
燕夜は心の奥底で祈る様に願い、けれど叶わないと知っていた。
何故なら。
『莫迦だなあ。云っただろう?闇に曳き込め。仲間にしてごらん。纏めて可愛いがって上げるよ。』
「失せろ。」
冷ややかに燕夜は告げる。
姫に出逢うまで、セルストを忌むべきものと考えた事は無かった。
自分自身の事など、どうでも良かったからだ。
しかし、こんなモノに愛し子扱いされる自分が、姫に相応しいか。
そう考えたら答えは決まっていた。
頷かなければ問題は無い。そう云われはしたが、現実に姫は自分を嫌っている。
その事実が燕夜を苦しめ、よりセルストを深く呼び込んだ。
姫を掠った激情を煽られた日を思えば、今度は姫を傷付ける事さえするかも知れない。
自分自身の理性が信じられないならば……自分を滅ぼすしか無いではないか。
そして、仮にも神に列なる燕夜を滅ぼす力は、ヒラリスには無い。
多分。
砂久弥ならば為し得るだろうが、砂久弥はそうしてはくれないだろう。
燕夜は微笑した。
永く友と呼びつつ、こんなにも温かい気持ちを抱いた事は無かった。
しかし、その友を裏切る為に、燕夜は手を上げた。夜闇のチカラを発揮して、闇の遣いを放った。
「済まないな砂久弥。ヒラリスは貰う。」
そう。
神々が自分を滅ぼさないならば、砂久弥がそれをしても良い。
ヒラリスの仇を討つ為ならば、砂久弥も本気になるかも知れない。
姫にも、砂久弥にも、申し訳ないとは思う。
だが。
ヒラリスが存在するならば、燕夜は自制に自信が持てず。
自分が滅びる為にもヒラリスの死は不可欠ならば。
「死んで貰うしかないだろう。」
『そうだ。邪魔なものは片付けてしまえば良い。わかって来たでは無いか。なあ?』
「失せろと云った筈だ。」
燕夜の手にはいつの間にか剣が握られていた。
横薙ぎに払えば、セルストは笑声を残して消える。
最近は頓に頻繁に顕れる。
燕夜は眉を寄せた。
――リア。こんな状態でも、私を生かすのですか?
もしかしたら、ヒラリスの死さえ、燕夜は罰される事なく生かされるかも知れない。
女神が命じれば、砂久弥も、何もしないかも知れない。
ずっと。
姫と二人で。
この塔に暮らせるのかも知れない。
暗い喜びに燕夜は苦しくなる。
姫には倖せになって欲しい。
姫を誰にも渡したくない。
ヒラリスが居なくなっても、燕夜さえ居なければ、姫なら次の倖せを掴む機会はいくらでも有るに違いない。
だが。
自分が残るなら?
不安は、しかし苦笑に変わる。
この短い生活の中で、姫は順応してソレなりに楽しみを見つけている。
愛さなくても良いから、逃げない事だけを誓ってくれれば良い。
燕夜は微笑んだ。
申し訳ないとは思うが。
生き残るならば、燕夜は姫を手放す積もりは無かった。
きっと。
彼女は何だかんだで楽しく暮らしてくれる。
「逞しい女性だから。」
息苦しさに、壁に背を凭れ、緑に溢れる外界を眺めた。
――誰が決めたのだろう。
普通なら、トウゼ王たる燕夜が望まない限り、誰も立ち入る事は出来ない。
しかし、燕夜が姫を掠った途端。この結界にはひとつの綻びが生じた。
姫を、奪還しようとする「モノ」にだけ、緩んだ結界。
――リア。貴女の世界への関与の仕方は………正直意味が解らない。
結界が緩んで、ヒラリスが来ても、ヒラリスが燕夜に勝てる訳も無い。
――なのに、何故。
闇が薄くなり、燕夜は楽になった呼吸に吐息する。
ヒラリスを憐れんでも、負けてやれる訳でも無いし、その気も無い。
闇に染まる度に苦しくなる呼吸も、対処の仕方は理解している。
「燕夜?」
回廊に佇む燕夜に訝る声が掛かる。
ふっと躯が軽くなり、現金な事だと自嘲した。
「何をして……気分が?」
「ご心配…下さるのですか?」
嬉しそうに微笑む燕夜に、紫蘭花は眉を顰る。
「少し、目眩がしましたが、楽になって来たところです。」
「そのようね。」
姫の声に冷ややかな響きが戻り、燕夜から距離を取った。
燕夜は両足に体重をかけ、凭れた壁から背を離す。
ゆったりと姫に求婚者の礼をとれば、冷たく見下ろす眼差しがある。
「何かご用はございませんか?」
「不要です。暫く貴方の顔は見たく有りません。」
硬く凍る声さえも美しいと燕夜は思う。
「消えて下さる?」
「御意のままに。姫君。」
燕夜は姫の言葉通り、その場から瞬間にして掻き消えた。
故に、残された姫の眸に揺れる感情を、燕夜が気付ける筈もなかった。
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