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◆14話◆東是王

☆☆☆


 燕夜は逃げていた。

 誰も彼を追う者は居ない。燕夜が逃れたいのは自分自身からである。

 泣きたくても泣けず。叫びたくても叫べなかった。


 それでも心が上げる悲鳴は、彼を脅かし駆り立てた。

 常とは違い、楽しむ為に馬を走らせたのでは無い。

 ただ苦しくて、恐ろしくて、彼は馬を駆る。


――――――

◇◇◇


 彼を映す眸があった。

 哀しそうに眸は閉じられたが、その宝石の色彩はキラキラと空間に漂った。


 そこは宇宙の海だった。

 白い女神が、何も無い空間に腰掛けていた。

 青と緑が濃淡で虹を描き、金で銀で碧の髪が光の粒子を煌めかせた。サラサラと零れた光が、蒼い宇宙に小さな川になって流れた。


 彼女の傍らに、慰める様に寄り添う青年が坐す。

 黄金の輝きを放つ主月神は、そっと彼女の頬に口付けた。


 そして、彼女に求愛する多くの神々は、遠巻きに心配そうに彼女を視つめた。


 地上を映すのは、彼女と主月神の二対の眸だけだった。


◇◇◇

――――――


 火急の用向きならば、通常は移動用の『機械』を使用する。科学は完全に捨て去られた訳でも無かった。

 移動に際しては特に規制は緩く、夜会の折もそれは使用される。

 形式を楽しみつつ、利便を否定するものでも無い。

 但し、魔法の代用に近い利用方法で、それを『機械』だと知る者は王族の一部に限られる。


 知る者とて、あからさまに口にはしない。

 転移の魔法陣を模した機械は、魔法力を持たない者には区別など付かないし、力を有する者でさえ区別が付き難い様に擬態が為されてあった。


 民も同じ『魔法』を利用する。

 鋤や鍬を持ちつつ、利便と清潔を求めた装置が置かれ、植物以外の命を畑から退散させたりした。

 勿論、それは法具屋にて求められる、魔道具な訳だ。表向きは。


 生活の中のどれだけに『機械』が用いられているか、知る者は沈黙を守る。


 下らない掟ではあったが、この星の住民が選択した事でもあった。



 そんな生活であるから、仮面で顔を隠した青年が操る馬は、注目を浴びた。

 息も絶えよとばかりに疾駆する馬など、賞金稼ぎに追われる『首』でしか無い筈なのだ。


 首を振って、苦しげに……疾走する馬に乗る青年。

 盗賊の類いには見えず、追う者も居ない様で、行き交う者は首を捻る。


「失恋でもしたのかね?」

「うわお。それってロマンチックぅ。」


 呑気に噂して、しかしあの仮面は?と、また首を傾げたのだ。


 そして顔を隠す事は考えても、移動方法の選択には考えが及ばなかった燕夜と不倖な疾走馬は、村道の真ん中で……突然姿を消した。


 その時、燕夜は闇に飲み込まれる自分を感じた。

 底のナイ、闇の中に落ちて行く自分と、巻き添えになった愛馬。

 意識を失う直前、馬だけでも助からないだろうか……そう燕夜は思った。


 意識を取り戻した時、彼は森の中に居た。川のせせらぎを耳にして、明るい昼の色彩に、草むらから上体を起こした。


 そこには一人の少年が控えていた。

 少し離れた場所では城を背後に、もう一人の少年が、燕夜の馬の面倒をみてくれている様子だった。


 小川の水で洗われて、フルールは嬉しげに嘶いた。いや……あんな無茶をさせても、馬は燕夜を主人と思う事に変わりなく、彼が意識を取り戻した事に気付いて親愛の情を示した様に見えた。


 傍らに控えた少年がそっと身を屈め、優雅に礼をした。

 もう一人も馬の嘶きに促されて燕夜を振り返り、こちらは無造作にヒョイと会釈を寄越す。


 燕夜は頷く事さえ出来なかったが、少年達の眸には、寛いで座っている様に見えた。


 此処は一体何処なのか?そんな事を思ったが、その疑問は少年の言葉で解消された。


 真昼の空の様な髪は流石に珍しい。輝く様な笑顔で、少年は城を示した。


「此処は東の森。五幻山です。トウゼ王の塔がアチラです。」


 傍らに跪いて告げると、塔を指し示して立ち上がる。

 そして、差し延べられた少年の手を取り乍ら、燕夜は塔を見上げた。


 セリカの王子をして、美しいと思わせる城の佇まいの中央に、高い塔がある。


「あれが……トウゼ王の。」

「はい。どうぞ、お一人でおいで下さい。私には許されておりませんので。」


 そう云うと、少年は貴人に対する礼を取った。

 最初の時と同様に、左手を胸に当て、ゆっくりと身を屈めた。


 燕夜は頷いて塔を目指した。

 どう見ても王族か、それに準じる立場にあるだろう少年が、己に最高礼を尽くす。

 その事に多少の戸惑いを抱きはしたが、彼にとっては最早どうでもいい事だった。


 燕夜は此処に、死にに来たのだから。

 死を望み、死よりも重い罰を希求して、彼は馬を駆けさせたのだ。


 そして、塔の高きに臨む。一段一段、歩を進め乍ら、彼は救いを希う。


 生きて赦される事から……逃れたかった。


 誰も責めず。誰もが、彼を慰めようとする。そんな状況から、燕夜は逃げ出して来たのだ。


 罰を望み。

 死を求め。

 そして、玉座を前に、彼は跪いた。


 金色に輝かんばかりの美貌の主は、けれど玉座には着かなかった。

 玉座の傍らを通過して、ゆっくりと燕夜の目前にある、石段を下りて来る。


「王よ。」


 燕夜は訴えた。


「どうか私をお救い下さい。私はセリカの皇太子、梨燕紫夜蘭と申す者。我が王座への権利を、どうか捨てる事をお許し下さい。」

「セリカの王子よ。ならば玉座には誰がつく?」


 燕夜に応じた声は、ひどく甘く、優しく、けれど平伏さずにはおれない威厳を備えていた。

 誰をも従える美しい音色に、燕夜は震えつつも応じる。

 この、圧倒的な敗北感に、懐かしささえ感じ乍ら。


 畏怖する程の「美」。女神の輝きに凍りついた自分。

 そう。金の王は、女神に似ていると燕夜は思った。

 姿形の相似では無く、人の持ち得ぬ「何か」を発するが故に。


 それは光で有り、美で有り、力そのものだった。

 トウゼ王は、この星総て支配する事を、可能とする存在だと云われる。そして誰も、彼――彼女――に逆らう事など出来ない。逆らおうとも思えない。

 それが事実だと、燕夜は今知ったのだ。


「弟に、梨影砂黄景と申す者が居ります。我が弟乍ら秀でたる者。どうか、あれに王位を下さいます様、お願い申し上げます。」


 セリカの存続だけは、認めて貰わなければならなかった。王位は既に煩わしいものでしか無かったが、国を自分の所為で滅ぼしては成らぬと考えた。

 それが燕夜に、命を棄てる事を躊躇させた、理由の総てだった。


 神々への約定は総ての掟に勝り、一方的な破棄は破滅を招きかねない。

 立太子の典礼を終えた燕夜は、次期王として報告済み……つまり王位に就く事を、神々と約定を交わした事となる。

 神から否定する事は出来ても、人の身でそんな不遜は赦されない。

 王族の無礼は、国を滅ぼす意思を疑われても仕方ないとされていた。


 先ずは別の人間に、皇太子の座を移す許可を得なければならない。でなければ燕夜は、死ぬ事も出来ぬ立場に身を置くのだ。


「そなたを失う事は、セリカには痛手となろう。」


 優しい声なのだろう。だが、存在そのものが発する圧力は、燕夜を圧倒し顔を上げる事も許さない。

 重圧に押し潰されそうになり乍ら、彼は耐えるしかない。


「だが、代わりに東国は善き王を得る。」


 続けられた言葉の意味を計り兼ね、戸惑ったのは一瞬。把握した内容に、燕夜はパニックを起こしかけた。


「立つが良い。そなたは今この時よりトウゼ王と成る。」


 肩に掌の感触を覚えたかと思えば、燕夜は目眩に襲われた。

 気持ちの上でも、身体的にも。


 総身の内側から、造り変えられる。一瞬の激痛と吐き気と惑乱と……。

 圧倒的なナニカが燕夜の中に入り込み、頭の中まで掻き回し、躯中を駆け巡り、総てを『変化』させてしまった。


 衝撃を振り払う様に、燕夜は頭を振った。

 固い表情のまま、燕夜は美貌の主を見上げた。


「何を仰有るのですか……貴方が王でしょう?」


 悲鳴にも似た声が、だが力無く発せられた。

 燕夜は既に、謂れなき敗北感も、震える程の圧倒的な畏れも、感じてはいない。

 重圧は消え去り、その力溢れる美貌を直視出来る自分に、燕夜は混乱の余り気付けなかった。


 金色の主が笑う。

 その輝きは流石に燕夜を怯ませたが、それでも眸を逸らす事なく、顔を上げたまま立ち尽くす。


「私は王では無い。トウゼ王は前の者も、その前の男も皆、塔を出て行った。いつも穴を埋める為に、私は人材を派遣し続ける羽目に陥る。」


 燕夜は訳が解らないと首を振る。

 だが、理解する事は必ずしも必要ではないと気付いた。

 希むのは罰だ。

 死よりも重い罰か、せめて死を。


「私は……王と成る為に参った訳では有りません。」


 だが、言葉を続け様として、笑みひとつで制された。


 唇に、眸に、淡い笑みを浮かべ、その存在は宣告した。

 人では有り得ない、美貌の存在は、燕夜に現実を突き付ける。


「これは決定事項だ。」


 流石に相手の正体に気付かないままでは居られない。

 逆らう事など赦されない相手は……それでも、と抗いたい気持ちを、燕夜の眼差しに読み取ったか、単に続けられる筈の説明だったのか。


「そなたは罰を望むのだろうが、トウゼ王は皆そう云う。」


 燕夜は困惑も露わに、美貌の存在を視つめた。

 直視し続ける事は、多少の負荷を燕夜に与えたが、その苦痛に寧ろ縋る思いだった。


「そう。皆、死を望み此処に来る。だが、死に逃げる事も出来ない己を知ってもいる。」


 その通りだった。

 死に逃げる事も赦されない己を、燕夜は自覚している。


「そして、死よりも重い罰を求める。死ぬ事も赦されない罪を償おうとして、彼らは此処に辿り着く。」


 ならば何故、それが王に成る事となるのか。

 疑問は、質問の形で、燕夜に突き付けられた。


「君は今後、何年生きると思っている?」


 燕夜は今年18才になる。

 東の民の平均年齢は30〜40才。


「永くとも、五百年は無いかと………。」


 普通なら……その筈だった。

 17才迄は、1年毎に年齢を重ねる。成長が停止して、次からは二十年毎に。その間は若い躯のまま、ゆっくりと老成していく。


 その時間は、今の燕夜には苦しみでしかない。

 南の民ならば、百年も生きれば得られる死が、今は羨望を呼ぶ。一年毎に年齢を重ね、肉体迄が若き日の姿からは見る影もなく老化して、死に赴く彼の国の血を畏れる人間は多い。今の燕夜は、その血に深い憧れを抱いていた。


 なのに……。


「トウゼ王の地位に就く事は、永遠を意味する。君の躯は時を停め、王で在り続けるのだよ。」

「そ……れは……」


 先程から、否定し続けた事実を突き付けられ、燕夜は絶句する。


 やはり、という思いと、まさか、と思う気持ちが鬩ぎ合う。


 現在の死のみか、未来の死さえ失われたのだ。


 燕夜は嗤い出したくなった。

 最早、自分を欺く事も出来ない。


「私は……既に王なのですか?」


 あんなにも恐ろしかった相手。自分より遥かな高みに存在する、圧倒的な力の差と、人間が持ち得ない美貌。

 不死の一族。

 既に、気付いていた事実を問う。


「貴方は、神なのですね?」


 それは質問と云うより確認だった。

 頷いて彼は応えた。


「4代目月神、シェンだ。」


 その名乗りに、衝撃さえも無い。

 肩に触れた掌は、何処まで燕夜を造り替えたのだろう。


 神々に準ずる者に。不死の一族の末端に加えられ。燕夜は、シェンに対する畏れを、自らの意志で抑えられる様になってしまった。


 主月神が、遥かな高みの存在なのは相変わらずだが、人間が神に相対する時の原始的な、生理的なそれは、最早ない。


「お尋ねしたい事が有ります。」


 燕夜は、自分が人間では無くなったのかと考えた。

 だが、それは事実として自覚した後の足掻きでしかない。

 口にした質問は別の事だった。


「他の人……私の前の王達は、どうしたのですか?」


 塔を出て行ったと云う彼等は、一体どうしたのか。シェンの云い方では、彼等が王で在る事をやめたと…そう聞こえた。だが、シェンは永遠に王で在り続けると云ったのではなかったか。


「何故出て行ったかを聞きたいのだね?」

「はい。」


 シェンは応えた。

 燕夜と同じ心で塔に致り、同じく王と成った彼等のその後を。


「罪が赦されたからだ。彼等は罰を受ける事をやめ、王で在る事をやめ、平凡な倖せを求めたのだ。」


 そう云って苦笑した。


「生きる事が苦で無くなれば、王の地位は恩恵にも成るのに。皆、要らないと云って、出て行ってしまうのだよ。」


 そして、何と云って良いのか解らぬ燕夜に向かって、シェンは続ける。

 燕夜には有り得ない未来を。


「そなたには、せめて千年は保って欲しいものだね。いや、そうでなくとも良いから、此処でトウゼ王として妻でも迎えてくれたら云う事はないな。」


 燕夜は困惑して言葉もない。

 シェンは燕夜が罪から解放される事を前提として話をしている。しかし、そんな事は有り得ないと、彼は知っているのだ。


 死を希求し続け。

 生き続ける罰。


 そんな重い罰を与えておいて、一体何を云うのだろう。


「そなたは生まれ乍らの王だ。きっと、罰を終えても残ってくれると、期待しているよ。」


 燕夜の困惑に気付かぬ訳でも無かろうに、神々の長たる青年は、云いたい事を云って姿を消した。


 後には、一人残された燕夜のみ。

 呆然として、彼は神々の考えは理解出来ないとばかりに、そっと頭を振ったのだった。


☆☆☆


 女神が与えた月水が、彼の内に眠る『能力ちから』を目覚めさせ、彼は知らぬ間に罪を犯した。


 その力の存在に気付かず、弟を死に追いやったのだ。

 そして、弟の死にも、弟を殺したのが己だという事実にも、打ちのめされる事の無い自分自身に、燕夜は愕然とした。


 人間としての温かみを自らの心に見出だせず、誰の事も愛してはいなかった事実にも気付いた。

 いや、唯一人、愛情の一片カケラを感じたと云えるのが、皮肉にも命を落とした弟だったのである。


 他にも弟は居たのに。

 燕夜には妻も居たし、両親だって居た。なのに愛していた筈の彼等の誰一人として、本当には想っていなかったと知ったのだ。

 誰より大切な梨那季亜の死に因って、燕夜は己の罪を知った。

 取り戻せない大切な弟を失った一方で、心はもうひとつの罪に悲鳴を上げたのだった。


 助けてくれる相手は居なかった。唯一人、愛せるかも知れない季亜はもう存在しない。

 彼に突然発現した“力”に周囲の者は慌てたが、彼を非難してくれる者は一人も存在しなかった。


 誰もが彼に同情し、慰める事に心を砕いた。

 導師の修業をしていない彼に、何が出来たと云うのか。皆がそれを不倖な事故だと云って、彼を責める事など思いも寄らない。


 彼にはそれが何よりの苦しみで、発現したばかりの『力』が暴走しようとするのを抑え切るのが精一杯だった。


 幼い頃に、遅くとも17才迄に、能力は顕れる者には顕れ、道を示すものだった。

 力そのものが、先に顕れる例も無いでは無いが、大抵は、神司なり導師なりが『印』を見出だし『塔』に修業に出されるのが常だった。

 その為、成長が停止する迄、東の民は皆、定期的な「力の有無」の検査を怠らないのだ。


 この様な『事故』を起こさない為に。


 けれど、事故は起きた。

 彼の内に眠っていた『力』が、本来ならば、一生眠ったままである筈の『能力』が、導師の『眸』をも眩ませる、深く強いそれが……月水に依って目覚め、ゆっくりと頭をもたげたのだ。




 妾腹ではあったが、季亜は一番可愛い弟だった。

 すぐ下の同母の景影も、仕事では一番頼りになったし、燕夜に忠実では有ったが、やはり季亜とは比べられない。

 生まれて間もない頃から、自分の後ろをちょこちょこと付いて来る存在が、彼は愛しくてならなかった。

 季亜以外に、こんな風に心を暖めてくれる存在を、燕夜は知らない。いや……一人だけ知ってはいたが、その考えは余りに不遜なので数に容れられるものではない。


 季亜以上に愛しく、燕夜の心を占めるのは、一人の女性だった。いや、本当は、一人……とは云えない。その女性は、女性で在る前に神であった。

 その女性に対する想いと同じくらい重みを持つものは、燕夜には仕事しか無かった。

 王家の務めは、神々に与えられた職務であるから、全うするのは女神への忠節を示す事でもある。

 嫌いな仕事でも無かった。

 寧ろ、企み、陰謀、駆け引き、それらを内包した政治のゲームは、彼を楽しませもした。


 季亜より重いものは政治まつりごとだけ、冗談の様に口にする燕夜だったが、まさしくその通りだったのだ。


 美しい妻が、両親が、弟妹達が居る。

 その中でも、一番の美貌を持つ彼自身は、常に皆の中心に存在し愛された。

 王は彼の手腕を自分以上だと認めていて、殆どの政務を彼に任せていたし、早めに王位を譲る事も考慮した。

 燕夜が二十歳になったらと予定していたが、この調子なら明日にも譲位して大丈夫そうだと、未だ王自身が二十歳にも達っする事の無い年齢で考えたのである。


 民も、兵士達も、燕夜を敬愛した。

 倖せの形が、そこには存在していた。


 なのに、ひとつの事件がそれを瓦解させる。

 音を立てて崩れ散った。

 その音色は、皇太子が愛する、弟の声から始まった。


「兄様。僕、結婚したくないよ!あの娘、意地悪なんだもん!」


 可愛い弟の台詞は燕夜を面白がらせたが、手が空く迄、相手は出来そうに無かった。

 皆と一緒に、その愛らしい我が儘を笑って。扉の前に立つ、未だ10才に成ったばかりの幼い弟を、外に出す様にと視線で景影に命じた。


「季亜。私達は忙しいんだ。庭で遊んでおいで。」


 景影の言葉に促され、大臣の一人が幼い王子を外に案内しようとしたが。肩に置かれた手を払った王子は、部屋の中まで入って来た。

 その利かん気を、一同微笑ましく見たが、忙しいのも確かだった。


「季亜。皆の邪魔になる。出なさい。」


 景影の言葉に泣き出しそうになり乍らも、一番大好きで、一番優しい、そして一番年長の兄の足元まで駆け寄った。


「ねえ、兄様。ラズってばヒドイんだよ。イジメルの。」

「季亜。悪いが後にしておくれ。ラズィアーリ姫の事も、後で話そう。」

 優しい宥める口調だったが、泣き出す寸前だった子供は、頼みの綱にも見放され、盛大な泣き声を上げた。

 燕夜は季亜に逃げられた大臣を振り返った。


「波雷、季亜を連れ出してくれるか?」

「はっ。さ、那季亜さま。」


 だが、大臣などに負けて堪るかと手足をバタツカセ、季亜は暴れた勢いのまま更に泣き喚く。

 神々の怒りを報せる、サイレンの様な声だった。

 こうなると、燕夜が話し相手になる迄、収まるものでは無い。

 小さな野獣は誰の手にも負えないのだ。


「兄上。どう致しましょう……コレ。」


 既に、季亜に甘い長兄が、仕事を放り出して行くものと決め付けた台詞で、途方に暮れた景影が聞いた。


「どうしたもこうしたも………それは、私がやるしかないだろう。」


 仕事が重なって忙しい中、王は燕夜に任せ切りで留守をし、その上……神への上奏文を要する事案が幾つか。


 王宮では除目の季節で叙位の決定や人員の編成、つまりは人事の問題でそうでなくとも繁忙を極めた。

 そこに王子二人の縁談が纏まり。特に他星の姫が相手の季亜の件では、上奏文は必要不可欠だった。

 そして、問題無く纏まった景影の縁談は北国の姫との婚約が調った後に、何の因果か到来した銀狼の一族からの求婚。

 断ったら色々と難癖を付けて来て、一応神々の系譜に列なる相手だから、やはり上奏文は必至だった。

 神々に対する奏上には幾つかの制約が有り、セリカの国では王以外にも幾人かが心得と権利を有した。だが、この問題は王族が出すべき文で有り、となると王か燕夜しか為せる者は存在しない。


 他にも細々と厄介事が重なり合い、通常の政務も滞るままにしてはおけないし、誰に任せても決裁は燕夜だし、とにかく大忙しだったのだ。


 流石に、子供と遊ぶ暇は無かった。


 景影は書きかけの上奏文を呆然と視つめたが、燕夜程神々の問題を疎かにする愚を知悉しては居ず、だからこそ、そんな質問も出来たのだろう。


 燕夜は溜息を吐き、季亜を見遣る。


「季亜。後でいくらでも聞いてやろう。だから今は勘弁してくれないか?」


 この状態でも優しい声で告げたのは、燕夜の自制心の賜物だったろう。

 だが、常ならば泣き止む筈の、燕夜からの説得も、この日は効果が無かった。

 サイレンは音を大きくするばかり。

 大臣達は幼い王子を捕まえる事も出来ない。


 執務室には不満と苛立ちが溜まり始める。

 このままでは仕事にならず、だのに重要な、とっくに仕上がっているべき案件が書類の形で山を形成し、圧迫してくる。

 季亜が姿を見せた瞬間に流れた仄々とした空気は既になく、室内は殺気に満ちた。


 泣いているのが王子で無かったなら、誰が怒鳴り声を上げてもおかしく無い状況だった。

 それこそ舌を引っこ抜き、窓から棄てたい心境だろうな……等と燕夜は冗談の様に考えたが。

 そんな彼自身にも、余裕など無かった。


「季亜。いい加減にしないと、窓から放り棄ててしまうよ。仮にも王子なのだから分別というものを弁えなさい。」


 だが、やはり可愛くてならないのか、言葉の内容とは裏腹に、優しいとしか云い様の無い声で告げてしまう。


「兄上………甘い。」


 景影が呻き、周囲も苛立ちを忘れて吹き出しそうな、甘い兄莫迦振りだったのだが………。


「何だよ……兄様のバカ!兄様は僕より、こんな書類が好きなんだ!!」


 うわああああん!!

 最大のサイレンが鳴り響いた。

 事も有ろうに、那季亜王子は書類の山を掴んで、窓から投げ捨てた。


 その場に居た全員の頬が引き攣った。

 そして、いつも、この人だけは怒らせては為らない。そう皆が思う紫夜蘭王子の、低い、低い声が、響いた。


「書類以下だと自ら云うなら、自分がそこから飛び下りるが良い。迷惑ばかりかけるのを権利と思うなら、……季亜っっ!?」


 静かな淡々とした口調が、何とも恐ろしい。

 室内の温度が比喩で無く下がった気がして、皆が寒い空気を耐える中、燕夜は不意に眸を瞠った。

 非情な言葉は驚愕に変わり、次には悲鳴に代わる。


「季亜!やめなさいっ!!」


 彼等が、王子の言葉に釣られてバルコニーに視線を移した時には、もう遅かった。

 いつも、何気なく『遣う』自分の声に、いつの間にか、催眠効果が伴っていた事に燕夜が気付いたのは、その時だった。


 急ぎ医師や導師が集められ、沢山の人間が宮廷の中を走り回ったが、それは季亜の為では無かった。

 季亜の死を起因として暴発した燕夜の『力』は、暗示能力だけでは無かったのだ。


 バルコニーから飛び下りる季亜の姿に、彼は『叫ん』だ。

 その声と共に、室内に嵐が吹き荒れた。

 これ以上、誰も傷付けてはならないと彼は考え、人払いと『塔』に人材の派遣を要請する命令を出した。


 彼は誰も傷付けては為らない。皇太子として、自らの民を護る立場に在るのだ。


 そして、ふと脳裏を過ぎる考え。


――では私は、王子の立場に無ければ、彼等を守ろうとはしないのだろうか?


 それには否定の声が返った。

 だが、守りたい……とは全く思わない自分を、その時、彼は自覚してしまったのである。


 誰の事も、愛してはいない傲慢な己を、燕夜は知った。

 そして、派遣されて来た神司に依ってしか、押さえられない程に大きな『力』が、やっと仮の封印を受け入れた頃には。


 燕夜は既に、自らの心に巣くう、闇の深淵をしっかりと覗き込んだ後だったのだ。


「貴方は自らの力を制御する術を学ばねばなりません。わかりますね?」

「ええ。わかります。」

「これは不倖な事故でした。心の痛手は深いでしょうが、二度と繰り返さない為にも、貴方は白華に赴くべきでしょう。」


 種々の塔に至る拠点が点在する、女神の月。17番目の月、白華。

 そこに行く事は、権利であると共に、義務でも有るのだ。

 燕夜は神司の言葉に頷きつつも、何も聴いてはいなかった。既に彼は、五幻山に赴く事しか頭に無かったのだ。




 そして。

 希みもしないのに、塔で学ぶあらゆる事を、燕夜は一瞬で手に入れた。

 神の御手で罰を享ける為に、それは必要な事だったのだ。

 燕夜は自分の素質以上の『力』を手に入れ、けれど最早制御を誤る事も無くなったと知る。

 人間では無くなったと知る。

 この『力』は人の中には入らない。人には扱えない。そして、燕夜は死なない躯まで、手に入れてしまった。


 死にたくて、トウゼ王に謁見を求めたのに、自らがトウゼ王に成った。


 それは、何という皮肉だったろう。

 彼は季亜の為に黒い衣を着て、季亜の為に自分の不倖を嘲笑った。


 そう。その為に彼は此処に来たのだ。

 死んでしまった季亜の為に、燕夜は望み通り、死にたくても死ねない不倖を得た。


 哀しんで、苦しめ。

 季亜の為に。

 季亜の苦しみ以上に、私は苦しまなければ為らないのだから。


 燕夜はそう考えた。

 決して、季亜はそんな事を望みはしないと知りつつも、他に方法を知らなかった。

 燕夜は自らに生き続けるという罰を課される事を良しとした。


 それは彼には何よりも苦しい、何よりも重い罰だったが故に。


☆☆☆


 主月神が愛するリア・リルーラの要請の下に、セリカの王子を皇太子から外し、塔を与えた。


 力に目覚めし者が塔に至る義務は、五幻山の塔でのみ形式を変える。


 そこは東国を統べる王のみの塔。

 王に帰属する塔。

 神が撰んだ王に従い扶けとなる塔である。


 そして、此処に永年のトウゼ王が誕生する。


 神々の太宰。当人が意識しないまま神司の資格も得ていた為に、単なる太宰ではなく、彼自身が神として君臨する事を許された王。


 トウゼ王。

 神々が望んだ王。


 燕夜は知らなかったが、その名は生まれる前から彼のものだった。


 東の王は是なり。


 神々の祝福は、総ての王家と神殿にて謳われた。



 燕夜は、それも……ずっと永い間知らないまま、王としての義務を果たし続けた。


 知ったなら、何と面倒な罰だろうと嗤った事だろう。


 そんな祝福は、正直迷惑でしかなかった。


☆☆☆



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