◆13話◆通う神
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その日、紫蘭は早朝に目が醒めた。燦々と降り注ぐ昼月の輝きに、不意に笑い出す。
――夢?
勿論。
そんな訳が無かった。
紫蘭花は笑い乍ら、泪が零れそうな自分に気付いていた。
セリカでも、珍しい程の強い媛だと喚ばれた紫蘭花である。
神々の寵愛を享けるのは、当たり前の生を生きて来た。
神に求婚された事さえ、初めてでは無かったのだ。
だが、それが最高神の、しかも真に配偶者として望まれたとなれば、話は変わる。
――何が変わるかは解らないけど……。
混乱と恐怖と、底に沈む歓喜。
――厄介な。
燕夜の事だけでも問題は山積みなのに、神の求婚である。
――私が何をしたと云うのだろう?
紫蘭花の頬を泪が伝う。
恐怖と歓喜に震え。迷惑だと感じる不遜に怯えた。
――己が不遜に怯えるか……この私が。
生まれて此の方、不遜で無かった覚えなど一度も無い。
小さな神ならば、手の平の上に転がしさえして見せた。
だが今、紫蘭花は怯える。
最高神に対する無礼な感情に、震える程の怖れを抱く。
――不遜。無礼。それは私の生き方そのものな筈。
だが、姫は神々を敬う心も、また深く抱く。
敬愛する心に嘘が混じらないこそ、神々はその無礼を楽しみ、不遜な態度さえ愛するのだ。
最高神に対する無礼は、紫蘭花の神に対する忠節を刺激した。
――小さき神ならば赦されると云う訳でも無いが。
最高神なら尚更。
――迷惑だなどと。
そう思う気持ちと共に、有難い事だと感じるのならば問題は無かった。
しかし、夜闇の君に惹かれる心は歓喜さえ覚えたが、決して感謝の念は湧かない。
欠片も。
一片たりとも。
その御心に有り難みを感じない。
――どうしよう。徹頭徹尾。迷惑としか思えない。
怯え乍らも、その事実に紫蘭花の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。
事実を事実として、受け止める強さを、自らに課した紫蘭花である。
――媛が揺らげば世界が揺らぐ。
大袈裟な言葉だと思っていた。
しかし神に愛される『媛』の魅了は確かに発揮され。
強大な媛の力は、最高神の求愛さえ引き出した。しかも一気に伴侶を望む求婚だ。
――凍れ。
紫蘭花は心に唱える。
――怯える心は不要と知れ。あるがまま思うがままに自然と成れ。
凍り。凍らせ。心の底に沈めた。
溜めたままでは、また良くない闇を喚びかねないから、それはゆっくりと溶かし、昇華を繰り返す。
甦る念いは凝るソレよりはマシで、繰り返し溶かす内に淡く消え失せた。
媛は大抵毅い心を持つ。
当然だった。
不要なモノは、総て棄て、真っ直ぐに前方を見据える生き方しか。
彼女達には許されていない。
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――昨日の今日でまた来るか。
再度の到来に触れた時には、紫蘭花は自分を取り戻していた。
――しかも、またお茶の時間に。
無礼な思考を咎め立てもせず、夜闇の神は微かな笑声を零した。
『どうぞ。私は気にしないよ。』
――私は気にする。
「お構い無く。」
心と声が、神に告げた。
神が見守る中で、お茶を飲む趣味は無かった。
『そなたの冷たい素振りも魅力的だが、笑顔も見せて欲しいな。』
仕方なく顔を上げ、紫蘭花は神を見据えて、ニッコリと笑って見せた。
『………。燕夜とは今日も話して遣らないのか。』
あからさまに話題を変えた夜闇の神は、紫蘭花の笑顔がお気に召さなかった様子である。
――失礼な。
「時にセルスト神。」
夜闇の質問を無視するという無礼を働きつつ、紫蘭花は硬い口調で話し掛けた。
神は気にする風も無い。
『何だ?』
「セリカの風潮はご存知ですか?」
神がそれを知らない訳もない。
最高神なら尚更。
全てを見透す眸と力を持つのだから。
『気に入らぬ様だな。』
何が云いたいのか、既に気付いた神の言葉も、無視して続けた紫蘭花だった。
「私も燕夜も、セリカの出です。」
王家の人間の二字名で呼ぶのは、その者を所有する印である。
『そなたは燕夜と呼ぶのに?』
――私のモノだ。
「捧げられましたので。」
本音と建前が同時に聴こえて、夜闇はクックッと笑った。
求愛の印に差し出された名は、特に応えなくとも、いや想いに応えないなら尚更、呼ぶ事こそが慈悲とされている。
『そなたも複雑よな。』
――放っておいて下さい。
紫蘭花はカップを傾けた。
今日は紅茶を無駄にする事は無さそうだった。
『では媛。アレの昔話でも話して聞かせ様ほどに、機嫌を直してくれないか?アレが語らぬ話もあるだろう。』
――………。
それは非常に魅力的な提案だった。
夜闇を相手に取引など出来ず、紫蘭花は歯を食い縛る。
油断は心に隙を作り、夜闇の魅力に堪える努力も損なった。
甘い声は紫蘭花を誘惑し闇に曳く。
その下僕にも、妻にも、紫蘭花は成るつもりは更々無い。
奥歯をキリと噛み締めて、溢れる情動を抑制した。
『強いな。』
曳いて堕ちればそれも良し。
堕ちない媛も、また愛しい。
どちらでも構わない夜闇を相手に、対する紫蘭花の闘いは不利を極めた。
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それでも夜闇は語る。
取引の条件では無く、伴侶と望んだ媛への贈り物だった。
夜闇の秘密を悟ったと知られない為に、紫蘭花は燕夜と距離を取っている。
夜闇は度々、紫蘭花を訪う様になり。
その都度新しい話題を提供した。
燕夜の過去と現在を。
――秘密が増えていく。
だが、現在燕夜との距離があるのは、この場合好都合ではあった。
それに、夜闇は紫蘭花が知りたい事を、余さず教えてくれたのだ。
甘い毒を、紫蘭花は敢えて飲み干す道を選択した。
逃げて逃げられるなら、そうしたかも知れない。
しかし夜闇の訪いは止まず、ならば………と。
――どちらにせよ危険なら、欲しい情報が得られた方がマシだろう。
セリカの民が誇る、美しい媛は考えた。
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