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◆12話◆ささやかな倖せ

◇◇◇


 東の森は、東の国の総ての森を示す総称ではあるが、三弥山、二久山、一夢山等の1から7迄の数字を備えた、7つ連なる山の中心に位置する、黒の王子が住まいする五幻山を、人は特に指してそう呼んだ。


 東国の民は、決して王子を魔王とは呼ばない。


 それは、他国にとって自明の理ではあったが、セリカの姫も総てを知る訳では無かった。

 皇太子にしか、告げられる事のない事情であったからだ。


 他国の皇太子とて、ただ姫と同程度の知識しか持たない者も居れば、ヒラリスの様に事情を悟る者も居る。

 姫君の知識と云えば、黒の王子が本当に王子だという事実と、彼が民たちの善き王であるという事のみ。


 彼がセリカの王子だと知り、秘する闇に触れた今も、その知識に然したる変化は無かった。



 東の民は燕夜を魔王などと呼びはしない。緑の王。森の王。そして、深い敬意を込めて、東国の王、トウゼ王……と燕夜を讃える。


 そう。誰が自らの王を魔王と呼ぶだろう。

 掟さえ破らなければ、王は優しく寛大だ。五幻山を囲む中呶あたるだの森にさえ足を踏み入れなければ、民を仇なす事は無い。


 自らの領主が恵み深いなら、そこに魔王という名が生まれる筈も無かった。


 中呶あたるだの森に迷い込む者にさえ、王は時に寛容を示した。

 王は民の悩みを、時にその手で解消してくれる。


 あやかしの蠢く森から慈悲をもって自宅に送り跳ばす事もあれば、不作を豊作に変え…旱には雨を降らせ、流行り病や治らぬ傷を快癒させる事さえある。


 善き民には慈悲が返る。


 勿論、声が届かない事も有ったが……それは仕方ない事では無かろうか。


 その恵みは五番目の山近くの民だけではなく、東国全土に及んだ。


 東の者は、自国の王と同じくらい、時には自国の王よりも多少の畏怖を含みつつも、敬愛して止まなかった。


 恵みを受けられぬのは、心正しくない者だけだ。

 自業自得の不作が豊作になる事は無い。真面目に働いた者には豊かな実りが与えられ、不真面目な者でも、自国の恩恵には与った。時には雨であり、昼の月が照らす恵みである。


 彼は、真実と事実の両方にして、東の帝王だった。


 彼自身の希みに依り明らかにされる事はないが、東の国々の王八名が総て、燕夜の下知に従う。


 王は皇太子にのみそれを告げるだけだから、紫蘭が知らないのも無理は無いのだ。


 例えば、ヒラリスの様に知ってしまう者がいるとしても、他国の者故に知り得る事柄もある。


 姫の聡明さや洞察力をもってしても、そればかりは叶わない事だった。


 ヒラリスはだから、軍を挙げて乗り込む事は出来ない。

 クルトとセリカなら、またクルトとトウゼ王個人なら、クルトが勝つだろう。

 だが、東の連合軍相手では、クルトに勝機は無い。

 どんなにクルトが大国であっても、勝てない相手がある。


 だからこそ、燕夜は姫に云ったのだ。


 軍が向けられたとしても、それは黒の王子個人との喧嘩。だからこそ、全軍が攻めてくる事は有り得ないと。


 王が姫を略奪して来ても、東の民ならば逆らいはしない。例え忠言する者が居たとしても、その者とて戦になれば王を護る為に働くだろう。


 ただ、略奪されたのが、東の国の姫である。その一事が、民が素直に花嫁の到来を慶べない理由では有っただろう。


 彼は命じれば良かったのだ。

 彼女が欲しいと。

 一言、セリカの国王に云えば良かったのである。


 燕夜は、自分にその資格が無いと、自らの望みを否定した。事態がどうしようもなくなり初めて、諦め切れないと気付いたのだから世話は無い。


「彼女を誰にも渡したくない。」


 そして、今また。

 彼はつまらない事を繰り返していた。


 誰にも渡したくないと思いつつ、自分のものにも彼は出来ないのだ。


 理由は先と同様。


「私には、その資格が無い。」


 という、誠に下らない問題からだった。

 姫君が決める事であるのだ。そんな事は。



 それでも彼は倖せだった。

 姫の声や微笑み、そして冷たい眼差しさえも、彼を倖せにする光だった。

 美しい姫君と、一日に幾度も会話を交わせる。

 そして、自ら理由を見つけて訪ねなくとも、時には彼女自身が呼んでくれさえするのだから。


 水鏡に紫蘭花姫を映す事は無くなったが、代わりに生身の姫が目の前に居てくれる。

 ヒラリスの到来が近付くにつれて、彼の無事を祈り憂うのか、最近の姫は燕夜を寄せ付け無いが。

 目前に居なくても、塔の何処かに彼女が存在するのである。

 それを想像するだけで、倖せな燕夜だったのだ。


 けれど、倖せなばかりでも有り得なかった。

 姫君は婚約者のいる身であり、その男は姫を燕夜から取り戻そうとしていた。姫君が心配する王子は、燕夜の眉を顰ませるに足る美貌の持ち主だったのだから。

 闇の美貌を持つ燕夜とは対象的な、昼の美しさ。輝くばかりのヒラリス王子は、ユーモアに富んだ会話で、女性を楽しませる事も得意そうなのである。

 燕夜はヒラリスが嫌いだ。

 紫蘭の婚約者でさえ無ければ、好感を抱いただろうが、それ故にこそ嫌いだと感じた。

 燕夜は彼の様に、女性の心の機微に聡くあれない。


 現役の時代。政治の策謀の最中に身を置いていた頃でさえ、女性の心は不可解であったのだ。

 世捨て人の暮らしを永く続けた彼が、どうしてヒラリスに勝てるだろう。


 そう考えて、燕夜は落ち込むのだった。

 おまけに、水鏡はもうひとつの、不快な影を映し出す。


「余計な真似を……」


 夜と昼に分けるなら、その男もまた夜の住人で有っただろう。けれど闇よりも闇である燕夜と違い、彼は夜の中に射す一筋の輝きだった。


 月光の化身を思わせる美貌の持ち主。

 冴え冴えとした表情、眼差し、その造作だけで無く、青銀の髪や金赤の眸も、冬の月を思わせる。

 だがひとつだけ、昼の色彩を右の眸に持っていた。まるで真昼の空の様な、その輝きを反射する湖の様な、深い、深い、青の眸。


 彼もまた、紫蘭と同様に、自分と似て非なる存在でだった。姫君や、ヒラリスと同じ、燕夜が持たないものを持っていた。

 そして、無表情に油断している間に、女性はいつの間にか奴の味方となる。そんな風に、女性の扱いに長けた男でもあった。


 不愉快この上ない。

 燕夜は砂久弥を知っていた。4代目月神シェンの美しい想い人――人では無いが――である、リルーラ姫のお気に入り。

 月の14番目の姫君。又は最後の月の女神。二つの月に住まう姫。

 女神の中の女神。誰よりも強い力を秘め、誰よりも自由なリア・リルーラ。

 そして、誰より美しいリア・リルーラ。


 燕夜はリア・リルーラの真実の姿を知らない。

 それは砂久弥も同様だろう。

 当然の事だった。彼女の美しさは、人間の眸には苛酷過ぎる輝きだ。

 いや。それは神々の視界さえ焼く光だった。

 リア・リルーラが真にその姿を晒すのは、創世の神の間のみとも云われている。


 人間の姿を纏い、リア・リルーラは時に地上に下りて来る。気まぐれな女神に、セリカの皇太子であった頃の燕夜は、振り回されたものだった。

 神殿で祈る習慣に、燕夜はそれでも感謝をした。

 その美を愛さない人間は存在しない。特にセリカは芸術を文化を愛する国なのだから。


 そして。

 リア・リルーラがほんの少し、その姿を解放した事があった。


 女神の輝きを、人間の娘の生身に隠して、その姿だけでも奇跡を思わせた。

 なのに、女神たる本来の姿を、ほんの僅かとは云え解放したら、それだけで……垣間見た燕夜は、ガクガクと膝から崩れ落ちた。


 恐怖に似ていた。

 だが恐怖のみで無く、人間が見る事など赦されない禁断の美に、凍りついて、震えて、動けなくなった。

 一瞬の事で、すぐに彼女は人間の姿に戻った。

 だが既に心臓が締め付けられ、血液の循環さえ正常を保てず、燕夜の強張った身体は、多分そのまま命を落としてもおかしくなかった。


 彼女は困った様に微笑して、そんな燕夜に月水を与えた。

 魔法のひとつ。治療に用いられるそれは、月の加護が強い者にしか扱えぬ代物だ。勿論、リア・リルーラには難しい事では無い。


 月の光を一滴溶かしとり、百万倍に薄めた水は、どんな難病にもどんな傷にも効く万能薬である。燕夜の震えも治まり、石化を見せ始めた身体の強張りからも、アッサリと解放した。


 女神はやはり、困った様に微笑むばかりだった。


 時を越える彼女には、その治療がもたらす未来が見えただろう。

 それでも、月水無しに燕夜が救えない事も、やはり解っていただろう。

 そして、そんな近い未来よりも…………ずっと、ずっと先の光景をも、彼女の眼差しは捉える。


 だから困った様に彼女は微笑う。


 大低の場合。

 倖と不倖の、片方だけを経験する者は居ない。


 その日以来、燕夜は人間である事を、少しずつ止めていった。


 女神に恋をしたのかも知れない。

 もとは神々の飲み物である、月水の所為かも知れない。


 彼の心は人間を愛する事を止めていったが、罪を犯すその日迄、燕夜は自分の心に気付かなかった。


 そして気付いた時、彼は五幻山へと逃げ出したのだ。

 東国を占める王の住まう城を彼は目指し、而して主を待つ椅子は、そのまま燕夜の座すところとなった。


 死を希み、死よりも重い罰を希求して、得たのは至高の座。


 その皮肉は、却って彼を落ち着かせた。

 それからの燕夜は、王としての務めを果たし、罰を享ける気持ちで、時を停められた命を日々生きている。


 死ぬ事も成らず、彼は苦しく生き続けた。


 少年の日に垣間見た女神の面差しを、美しい少女に見出だす日迄、燕夜の心はずっと闇の中に澱んでいた。


☆☆☆



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