◇11話◇安息と揺らぎ
◇◇◇
「言葉には甘えよう。だが、君も敬語は無用だ。此処は宮廷ではないしな。君自身、そんな事で臆する人間でもないだろう?」
しっかりと見抜かれている。
砂久弥の台詞にヒラリスは笑って首肯した。彼の笑顔は、昼間の月の明るさに輝く。夜の月の化身の如き砂久弥と向かい合い乍ら、臆する事がないのも当然の事かも知れない。
そして、砂久弥はどこ迄も夜の月に似ていた。昼の月光を必要としない夜月の養い児は、ヒラリスの輝きの前で、尚も冷然と美しかった。
白の塔で高い地位を得た彼に、もはや生家に対する義務も義理もない。なのに、姫君を救いに下りて来た事実は、それだけで何かを勘繰る者が居ると知らない訳もないだろう。なのに砂久弥は、そんな心配など全くしていない様だった。
正しく天の住人だなとヒラリスは感心する。
そこで。
下界の人間としては、どんな下司な勘繰りをするべきだろう?
そう思考が流れるのがヒラリスのヒラリスたる所以である。
その男が指先ひとつ閃かせれば、クルト一国が滅びる危険を承知で……、砂久弥がそんな事をする人物でナイと知れば、平然と行動に移せるのがヒラリスだった。
大概の人間は、どんなに相手の人格を信頼しても、中々出来ない事だった。
己どころか、己が属する世界そのものを破壊する事が可能な「チカラ」を有する相手。そんな相手に簡単に平常心を保つ。普通なら、先ずそれが難しい筈だった。
砂久弥にそれだけの度量、懐の広さを感じれば、人を見る目に絶対の自信を持つヒラリスは揺らぐ事がない。
「で?砂久弥は、姫君が好きだったりするのかな?」
「……よくもあっさりと尋くものだな。」
敬語は不要と云われれば、あっさり対等の口調に戻す。その上そんな事を尋いてくる男を、砂久弥は呆れを含んだ眸で見返した。
例えクルトの安全を確信しても、普通此処まで図々しくなれるものだろうか?白と青の位を持つ神司は苦笑した。
「確かに好きだが、何故そんな事を尋く?」
「恋敵がそんなに綺麗だと、僕の立場が苦しいから。」
礼節や儀礼を間に挟めば尋くのは難しい。
ヒラリスは苦虫を噛んだ様子で舌打ちをしたいのを堪える。
咄嗟に姫に託つけたが……普通に、姫君に拘らず出逢いたかった。そう願う自分を自覚して、ヒラリスは砂久弥に向かう、奇妙な慕わしさを跳ね退けた。
そんな風に、ヒラリスがあからさま表情を見せる相手など、今迄存在した事は無い。
親友である東の我恵那王子も、ヒラリスの事を評する時には食えない男だと断じる。まともに恋愛も出来ないだろうと、互いの腹黒さを認め合う仲で……所詮は国が互いの間にあるから、その言動を無邪気に信じ合う事さえもない。
そこ迄の特別扱いを自覚したかどうか?砂久弥は微かに笑んで応えた。
「正直な事だ。だが、愛は深いが肉親の域を出るものではないよ。」
その言葉に嘘は感じられず、ヒラリスは安堵した。
だが安堵する理由も、姫に託すしかないだろう。
「ラッキー。良かった。」
「黒の王子の方が、紫黎花に惚れ込んでいるだろう。彼をライバルとは思わないのか?」
冴え冴えと澄んだ青銀の月が云う。
「そりゃまあ、でも君ほどの美貌が転がってる訳もないだろうし?」
ヒラリスは笑った。正直、黒の王子の事を失念していたのは確かだが、自分の心を追求する気にはなれなかった。
だから、姫に恋痴れる自分が、云いそうな台詞を選んで口にした。
「黒の王子に殺される事は有っても、恋の勝負に負けるつもりはないよ。」
その言葉に、砂久弥の眸が意味ありげに煌めいた。
いくらヒラリスでも、出逢ったばかりの無表情な神司の感情を、読み取る事は出来なかった。
その右眸が“凍える月”とも呼ばれる二番目の月の如く清浄なブルーに、左眸は四番目の月緋耀か一番目の華月かと云う程に……金と紅蓮の紅玉に煌めくのを、ただ見惚れただけだった。
砂久弥は無表情のまま、セリカの魔力を眸に煌めかせ、淡々と告げたに過ぎない。
「さて、そう上手くいくかな。」
☆☆☆
あの日は、結局虚勢を見抜かれてヒラリスが依頼する迄もなく、治療を施された。
月水の原液を砂久弥は所持しており、月光の詰まったそれを、何百倍にも薄めて舐める様にヒラリスは飲んだ。
劇的な変化は、既に語った通りである。
傷の痕跡すら消えた肩、熱も疲労も掻き消えて、寧ろやたらと元気になってしまった。
元気になりついでに、またもや奇妙な夢を見て、砂久弥の貌がまともに見れないおまけ付きだった。
そうして、二人で残り少ない旅路を共に辿る事になったのだ。
この神司は剣をとっても一流で、滅法強い事この上ない。
剣士の質の良さで知られるクルトで国一番の腕を誇るヒラリスでさえ、青くなるほど凄まじい。
「何で魔法使わないのさ。」
ヒラリスの台詞に、淡々と砂久弥は応えた。
「彼の領域の近くで、下手に術を使うと取り込まれる恐れがある。」
「取り込まれる?」
「端的に云うなら手下にされる。」
「………。」
つまりは、操られるという事で、ヒラリスは笑顔が引き攣った。こんな化け物に斬り付けられたら、幾つ命があっても足りない。
フルフルと首を横に振り、ヒラリスは云った。
「ご辞退します。」
「そうだろう。」
そして二人して笑った。
起伏に富んだ行程の中、急速に二人は親しくなった。まるで十年来の知己の様に冗談を云い合って、争いの中では助け合う仲間だった。
だが……とヒラリスは思う。
まだ三弥山を越えてもいないのに、魔王の結界を気にするだろうか?
確かに魔王は強い。それは、凄いとしか云い様がない程の強敵である。
出逢ったばかりの友は、ヒラリスが考えた通り、秘密の匂いをさせていた。
月水を与えられ、治癒の術を施された時、ヒラリスは考えたものである。
この神司の目的を――。
姫を救いたいからと、月のひとつである、白華から下りて来たのは、唯それだけの為だろうか?
青位の神司が、その為だけに下界に降り立つ事が、神の認める事であろうか?
身内の救出だ。変な話では無いが………と考え、それでも納得仕切れないものをヒラリスは感じる。
現に、ヒラリスが問い詰めたら、やんわりと躱された。
感情の読み取り難い表情で、時に微笑っていても、楽しんでいるのかどうかも判らない瞬間がある。
ヒラリスは、砂久弥の全てを信用仕切れない事を、残念だと感じた。
ヒラリスは誰の事も、心の底から信用などした事は無いし、今後もしない筈だった。
あの日は一日中付き纏う様にして、質問を繰り返した。
砂久弥はヒラリスのしつこさにも、全く動じた風ではなかった。それでも夕食の時間に、彼はテーブルを用意しつつ一言漏らした。
「お尋ねしてみるから待つんだな。」
何を尋くのか、誰に聞くのか、テーブルを出し、食事を出現させ、最後に給仕の者まで現れた。
悠俚耶と名乗った少年は、席に着いた二人の為にワインを手に取る事から始めて、かいがいしく世話をして帰って行った。
「う〜〜〜、ちょっと砂久弥。こんな事迄しといて魔王……っと、ごめん。王子の結界がどうのとか云うのかい?」
「おや、美味しくなかったかな?」
「………とっても美味しかったよ。昼にもコレが欲しかったと…、いや、それは置いといてさ。」
云い募るのを、手で制されて口ごもると、砂久弥はフワリと微笑んだ。
夜の月光の下で、自ら輝く月が、地上で煙る様な笑みを見せる。
美は力なり。ヒラリスは溜息を吐いて降参した。
「待つ事だ。じきにお出でになる。」
「誰が?」
ヒラリスの問いに、砂久弥は微笑って答えなかった。
その言葉を蒸し返して、今日もヒラリスは問う。
「ねえ、誰が来るのさ。今夜?明日?いつ来るのかも教えてくれないのかい?」
焦れた様な問い掛けにも、砂久弥はただ笑みを見せるだけ。軽く遇われてしまう事実に、ヒラリスは軽く感動さえした。
今迄ヒラリスをこんな風に振り回した人間は居ない。
ヒラリスは扱う側の人間であり、操り遇うのは常に自分の方だったのだ。
なのに遇われて、何の抵抗感も無いのである。
自尊心の高さは月をも望む男が、だ。
珍しい事と云えよう。
「ひとつだけ教えよう。お出でになるのは、あの方の気まぐれだが、お約束は戴いた。明日か明後日か……はたまた、黒の王子との対決の時かは知らないが。」
「勿体つけないでよ。あの方って誰さ。」
ヒラリスの抗議に、砂久弥はひとつの名を言葉にする。
「リア・リルーラ。」
女性にとって最高の尊称である「リア」の名で呼ばれた女性は、女神以外の何者でもない。
しかも、最高にして最大の、頂点に位置する女神である。
「リア・ダ・リアルテ……」
美しい女性に対する、賛美にも似た言葉。
女神の中の女神。そうヒラリスは呟いて、流石の彼が放心した。
砂久弥はフワリと静かな笑みを見せ、微かに視線を空へと流した。
――これで、良いのですか?
確かに誤魔化せはしましたが……もう少し、教えてあげても宜しいのに。
そんな事を、心に思ったとは、ヒラリスには決して知られる事は無かった。
☆☆☆