◆10話◆騙る声
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『鬱々としているな媛。アレも沈んでいる様だ。そなたが相手をしてくれない故に。』
誰の所為だと思うのか。
気楽に姿を顕した神に、紫蘭は軽く会釈して、眸を伏せる事で眼差しに宿る表情を隠した。
『私の所為だと?』
勿論。神々を前に感情を隠す術など有りはしない。
だが、それと察して礼儀正しく気付かぬ振りくらいはしてくれる、優しい神も存在するだけだった。
『つまり私は優しさに欠けると?』
紫蘭花はそっと嘆息した。
『礼儀にも欠けると?』
紫蘭花は眉を寄せた。
今日の闇は随分と気安く優しい雰囲気である。
昨日、初めて姿を拝した神は、紫蘭花に恐怖さえ与えたものだった。
どちらが本来の姿かと聞くなら、どちらも違う。闇の神とは云え、それくらいの「決まり」は守るらしい。神の美は人間の精神を焼き切り溶解凍らせる。
『そなたは、何気に無礼だな。』
呆れた声に紫蘭花はそっと頭を下げた。
夜闇の声は甘く、紫蘭花は揺らぐ心を凍らせる。
「無知な人の子故の愚かさです。お見逃し下さいます様。」
『しかも図々しい。』
神々には何も隠す術は無く、故に開き直る紫蘭花だったが。
『媛なれば多少は心も隠せ様。そなた、実は面倒なだけだろう。』
「神に隠し事など。それこそが不遜と存じます故にございます。お見苦しければその様に致しますが。」
隠せば暴こうとする神も多く、正直余り意味も無い。
神がその気で為せば簡単に暴かれ、秘密は秘密で無くなるからだ。
ならば晒した方がマシだと紫蘭花は考える。
倖い大抵の神々は紫蘭花の不羇の精神を愛した。そこに姑息な計算が含むならば別だったろうが、紫蘭花には不遜を咎められ滅するなら、それも構わぬと決した心が根底に有った。
神々の心など推し測れず、また己の心も完璧に隠せない。卑屈になる事が無事を保証するならばともかく、それもない。
ならば、神の気紛れに死を賜る事があるとしても、せめて自尊心は失うまい。紫蘭花はそう思うのだ。
『それには及ばぬ。そなたの不遜は何やら快い。』
有り難くも無いが、夜闇の最高神の心にも敵った様である。
前回が妖しき闇ならば、今日のセルストは優しい夜だ。
厄介な神である。
夜闇を崇め、祀っても、奉じ仕える神々には月神を選択する。
大抵の人々がそうするのは、決して故無き事では無かった。
夜闇の神は、人を守り育て愛する。人を謀り貶め嫌悪する。時に味方をし時に敵となる。
堕落させては育て上げ、優しく甘く穏やかに淫らに艶かしく清雅に清冽に。
正にも邪にも傾く神。
仕え従い信じるには難しく、けれど祈りを捧げ祀る事も戒め難い。
夜は穏やかで優しい。
端正な顔立ちに、今日は清雅な印象さえ漂い、紫蘭花は視線を上げない様に努力した。
元より神の存在は、眸で「見る」だけでは無い。
存在する空気空間そのものに、麗しさが香り、余り意味は無かった。
肌が、心が、神を感じて、狂おしく求め崇める心がある。
開き直り晒しても、曳かれる身を塞き止める努力は怠らない紫蘭花だった。
幾度も幾度も凍らせて、それでも溶かし魅了してくる。
最高神の存在は、月神の到来に慣れた紫蘭花にさえ痺れる様な苦痛を与えた。
――痛みだけなら構わないけど。
無意識に苦情を述べれば、夜闇が苦笑する気配がした。
『済まぬな。人間の姿を取れる程には、アレの結界も甘くは無い。これでも精一杯抑えているのだ。』
「失礼を。存じてますわ。お心遣い感謝しております。」
――それよりは顕現自体を遠慮して下されば。
つい願う心が思考に載ったが、それを云っては始まらないだろう。
夜闇は穏やかに微笑した。
気安く穏やか、そうは云ってもそれは「昨日」に比べ、最高神の一柱としては、と云う事でしかない。
しかも、この神が闇の妖しさを控えた様は、昨日の時点ですら紫蘭花を魅了した。
今日の姿には尚更惹かれ曳かれて、紫蘭花は穏やかな神には立腹もしかねて嘆息したのだ。
『光栄だな。媛は今の私を好むか?』
――白々しい。
紫蘭花が惹かれたからこそ、その風情に寄せて見せた昨日を、勿論忘れてはいない紫蘭だった。
『手厳しいな。なあ媛。私がそなたを気に入ったのは嘘では無い。この際、燕夜を諦めても良いと思うが、どうだろう?』
甘い闇の魔力は健在で、紫蘭花は胡乱に神を見上げた。
夜闇は騙る神。大抵の言葉は偽りに満つるものでしか無い。
嘘が云えないから正直と云う事には成らないのだ。
騙る声が甘く響けば響く程に、紫蘭花は警戒した。
燕夜を失わない為に、燕夜を求めるが故に、そんな弱味に心揺らがせる囁きを与え、隙をつくのが夜闇だ。
酩酊を誘う声に、紫蘭花は奥歯を噛み締め堪えた。
夜の神は静かに優しい笑みを紫蘭花に向けていた。
眼差しは甘く愛し気でさえ有り、紫蘭花はぞくりと総毛立つ。
――曳かれる。
しかも、昨日と違い、嫌悪を招く怪しく妖しい闇では無い。
『私の妻になる気は無いか?』
「………………………。」
紫蘭花は口を開き、何かを云おうとした。
口を閉じた。
――ツマ
真っ白になった思考に、漸く言葉が戻る。
――つま、に、なれ?
『命令では無いよ。私はそれを許された立場にはあるが、時間は永いからね。』
もの柔らかに、神は言葉を紡ぐ。
神なれば、紫蘭花が惹かれる姿も声も口調も、読み取る事は難しくも無い。
しかも、その姿はセルストが本来持つ姿に酷似していた。
演じるまでもなく、容易く掬える心に囁いた。
『そなたが愛しい。』
紫蘭花はヒヤリと触れた氷の刃に息を詰める。
自身の心が歓喜する様さえ迷惑だと感じて、昨日とは違う意味で後退る。
「勿体ない事で……言葉も、有りません。」
声が震えるのは、迷惑だと感じる以上に惹かれる気持ちも本物だからだ。
――燕夜に、出逢った後で良かった。
しかし燕夜に出逢わなかったなら、また夜闇との邂逅も無かった筈で、その事実にも気付いた紫蘭花は、感謝と悪態を心に浮かべた。
夜の神が苦笑した。
その眼差しが切なく艶いた。
『燕夜が良いか?アレとて神で在るには違いないのだが。』
だから同じだと?
そう云う積もりだろうか。
――とんでもない。
紫蘭花は内心激しく否定した。
最高神との比較に意味が無いのは当然としても、燕夜は人間だった。少なくとも、「以前は」人間だった。
――やはり「今は」人間では無いの……ね。
気付かないでは無かったが、事実を受け止めるには小さな波紋が心に浮かび。だが、一瞬で最高神との比較に、天秤が移り。
忙しく思考する様子さえ、セルストは優しく視つめた。
混乱する心が、セルストに傾くなら一気に曳くつもりだったが、そうならなくとも特に不満は無かった。
世界の初めから終る迄、永い永い時間がある。
紫蘭花の時間など、その生涯を待っても問題無かった。
例え、トウゼ王の妻に成り、神の時を生きるとしても……である。
人間の身からどんなにそう見えたとしても、神々さえ本当は永遠では無い。
真実の永久を往くのは、三柱の神しか存在しない。
もう一柱増えるのも、問題は無い。
リア・リルーラから常に推奨された事象でもあった。
まさか、そこ迄の『誘い』とも思わない紫蘭花は、せいぜいが沢山の愛人の一人に望まれた程度の認識しか浮かんではいない。
神の一柱に数えられる程の誘いだとしても、燕夜と同様、時を止め多少力が増す程度に受け止めていた。
――冗談。
その「程度」でさえ、人間には恐慌する「誘い」であり「提案」なのだ。
それこそ「求婚」などと云う、単語さえ浮かびはしなかった。
セルストもまた、特に否定も訂正もしなかった。
先は永く、焦る気持ちなどセルストには無縁だった。
だが、戯れだと思われるのは心外だ。
『私の心を疑うか?』
――こころ
神々が心を持たないなどとは紫蘭花も云わない。しかし人間の身で窺い知る事も難しい。
――心は、同じなの?
それもまた有り得ない気がする紫蘭である。
『無礼だな媛。』
云い乍ら、言葉に反して楽しむ眼差しは柔らかい。
――まさか本当に?
『戯れではないよ。恋人と呼ぶ事も望まない。私は、そなたに私の時を共に生きて欲しい。』
紫蘭は、今度は目の前が真っ暗になった。
目眩と吐き気に、揺れた躰を夜闇が支えたのにも気付かなかった。
時に聞こえる。
神々の求婚の話。
大抵の神は、こう告げると云う。
「そなたの時をすべて欲しい。」または「そなたの時を共に生きたい。」
しかし稀に、こう告げる神が存在するとか。
「私の時を共に生きて欲しい。」
その違いは明らかだ。
前者ならば、時を止めるにせよ、そうでないにせよ、人間として生きて往ける。例え、神に列なるにしろ、それは末端のものでしかない。
倖か不倖か、紫蘭姫は知っていた。
後者のそれは、対等の配偶者を求める言葉だった。
どんな「虚言」も「偽り」も入り込む余地が無い。
神々の求婚の言葉である。
それを創世の神が口にする?
決して有り得ない出来事だったのだ。
焦る積もりも急ぐ積もりも無かったセルスト神は、しかし姫がその習慣を知る事に、気を失った姫の姿に気付いた。
勿論。それはそれで全く構わない夜闇の神は、紫蘭を寝室に運びそっと横たえてから、その姿を消したのである。
夜闇が顕現するまで紫蘭花が寛いでいた室内では、飲む者も無い紅茶が未だ湯気をたてていた。
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それは騙る声。
偽りに満ちた闇の神の言葉。
だが闇は夜。
穏やかで愛情深い、真実と誠実を秘めた神。
夜闇の神の求婚は、総ての神々の耳に届いた。
紫蘭花の為には、それは偽りの方がまだ救いがあっただろう。
人として生まれた者が、創世の神に成る?
それは拷問にも等しい誘いだった。
だが神々は知る。
ソレは例の無い事象ではナイ。
紫蘭花の波乱の生は、未だ始まったばかりだった。
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