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化猫は暖かみを知る。

作者: 櫻川大縁
掲載日:2026/07/04

私の名前は「華華(かか)」。


種族は……まあ、見ての通り、化け猫さ。


でも、私の出自はちょっと変わっていてね。

生まれたときは、ただのどこにでもいる普通の猫だったんだ。生粋の化け猫ってわけじゃない。けれど、運命の巡り合わせってやつは、時に冗談みたいな形で牙を剥くものだろう?


――例えば、こんなふうにさ。


私が生まれたのは、街外れにあるボロボロの神社だった。


人の気配なんて、まるでない。

かつては信仰の中心だったのだろうその社も、今では草むらに埋もれ、瓦は割れ、扉は外れ、名残の賽銭箱すら蜘蛛の巣まみれだった。


風が吹けば、軒先の木がぎしぎしと鳴る。

雨が降れば、屋根の隙間から水が落ちる。

昼でも薄暗く、夜になれば、そこは世界から忘れられた場所みたいに静まり返っていた。


私の母猫は、その社の奥、御神体があったらしい場所の隅で私を産んだ。


そして……それっきり帰ってこなかった。


置き去りにされた。

理由も知らないまま。


最初は啼いていたよ。

小さな喉を震わせて、何度も、何度も。

母を呼んだのか、誰かを呼んだのか、自分でも分からない。ただ、声を出していないと、自分がこのまま消えてしまいそうで怖かった。


けれど、誰も来やしない。


飢え、寒さ、孤独。

小さな命にとって、それは死を告げる予鈴に他ならなかった。


だんだん声も出なくなった。

体を丸めても寒さは消えず、腹の奥は痛いほど空っぽで、雨に濡れた毛は乾くこともなかった。


ああ、私はここで終わるんだ。


そう思うことすらできないほど、私の意識は薄れていた。


けれど、そんな私を救ってくれたのが――あの人だった。


私の主様だ。


彼女は代々、陰陽師の家系に生まれた人間だったらしい。

表向きは普通の大学生をしていたようだけど、裏では廃社や封印の地を巡る、少し変わった趣味を持っていた。


「……ここも、ずいぶん荒れてるな」


初めて聞いた彼女の声は、静かだった。

怖がるでもなく、面白がるでもなく、ただその場所を悼むような声。


主様は割れた石段を上り、草をかき分けて社へ入ってきた。

その足音を、私は遠くで聞いていた。


近づいてくる。

人間の匂いがする。

それなのに、不思議と嫌な感じはしなかった。


「……ん?」


彼女の足が止まった。


その視線が、社の隅で丸まっていた私を見つけた。


「猫……? こんなところに?」


私は逃げようとした。

けれど、足は動かなかった。威嚇しようにも声が出ない。瞼を上げることさえ重かった。


主様は慌てて駆け寄ってきた。


「待って。大丈夫。何もしないから」


そう言って、彼女は自分の上着を脱ぎ、私を包んだ。


人間の腕の中は、温かかった。

その温かさが、逆に怖かった。

それまで私が知っていた世界には、そんなものはなかったから。


「よく生きてたね」


主様は、ぽつりとそう言った。


その声が、なぜかひどく優しくて。

私は薄れかけた意識の中で、ほんの少しだけ鳴いた。


「……にゃ」


「うん。もう大丈夫」


何が大丈夫なのか、当時の私には分からなかった。


でも、その言葉だけは覚えている。


主様は私を拾い、躊躇なく病院に連れていった。

生き延びるための処置を施し、何度も通って様子を見に来てくれた。


最初は、どこかの家庭に引き取ってもらうつもりだったらしいよ。


「私が飼うと、色々面倒だからなあ」


病院の待合室で、主様はそんなことを呟いていた。


獣医は笑っていた。


「でも、この子、あなたが来ると安心するみたいですよ」


「……そう見えます?」


「少なくとも、私にはそう見えますね」


主様は困ったように眉を下げた。


「私、あんまり普通の家じゃないんですけどね」


その言葉の意味を、私はまだ知らなかった。


けれど、何度も会ううちに、主様の心に何かが芽生えたのだろうね。

気づけば、私の居場所は彼女の家の中になっていた。


初めて連れていかれた家は、少し古かった。

本棚には難しそうな本が並び、棚の上には札や鈴、用途の分からない道具がいくつも置かれていた。けれど、部屋の奥にはふかふかの毛布が用意されていて、その横には小さな皿と水入れが置かれていた。


「今日からここが、あなたの場所」


主様は私を毛布の上に下ろして、そう言った。


「名前、どうしようか」


私は彼女を見上げた。


「廃社で拾ったからって、変な名前は嫌だよね。うーん……」


主様はしばらく考えてから、ふと笑った。


「華華」


その響きは、柔らかかった。


「花みたいに、じゃなくて。華やかに生きてほしいから。二つ重ねて、華華」


私は意味なんて分からなかった。

けれど、主様が私の名を呼ぶたびに、胸の奥がくすぐったくなった。


「華華」


「にゃ」


「ふふ。返事した」


それから、私は主様の家で暮らすようになった。


陰陽師の家系というものは、得てして“実験”を行うことが多い。

式神の材料として、動物を用いる例も少なくない。


あとで知ったことだけど、主様の家にも、そういう古い因習が残っていたらしい。


「その猫、まだ飼っているのか」


ある日、親族らしい男が家に来て、私を見下ろしながら言った。


「霊地で拾った猫なら、使い道があるだろう。式に落とせば面白い」


主様はその瞬間、笑わなかった。


いつもは気だるげで、面倒くさそうで、少し抜けたところもある人なのに。

その時だけは、声が冷たかった。


「華華は家族です」


「陰陽師の家の者が、情で物を言うな」


「情も持てない陰陽師なら、私は辞めます」


部屋の空気が固まった。


私は主様の足元で丸くなりながら、その声を聞いていた。

何を言っているのか全部は分からなかったけれど、ひとつだけ分かったことがある。


この人は、私を差し出さなかった。


利用しなかった。


道具にしなかった。


ただ、家族だと言ってくれた。


それが、私という存在の転機だった。


……気づけば私は、普通の猫ではいられなくなっていた。


最初は、些細な違和感だった。

夜になると、耳の奥で遠い声が聞こえた。

誰もいない廊下の影が、私には妙にはっきり見えた。

主様が貼った札の力の流れが、ぼんやりと光の筋のように見えることもあった。


そしてある日、私は自分の尾が二つに揺れているのを見た。


鏡に映った自分を見て、私は固まった。


「……にゃ?」


おかしい。

いや、猫の私でも分かる。

これは普通じゃない。


主様もすぐに気づいた。


「華華」


彼女は私をじっと見つめた。


「……尻尾、増えたね」


「にゃあ」


「そっかあ」


そっかあ、じゃないだろう。

こっちはかなり驚いているんだよ、主様。


けれど主様は、慌てなかった。

恐れもしなかった。

ただ、私の前に膝をついて、そっと頭を撫でた。


「痛いところは?」


「にゃ」


「苦しくない?」


「にゃあ」


「なら、よし」


よしで済ませるのか。

この人は、昔からそういうところがある。


けれど、その手は優しかった。


神社という土地に残された霊的な名残。

そして、陰陽師の力の余波。

それらが複雑に絡まり合い、やがて私の存在は変質した。


そうして私は“化け猫”になった。


――否、なってしまった。


でもね、化け猫といっても、別に人間に恨みがあるわけじゃない。

主様に拾われ、大切にされて、私は初めて「生きる」ことができた。


だから私は、今も変わらず、ただの猫として主様の元で暮らしている。


日向ぼっこをして、飯を食べて、主様の膝に乗る。

主様が本を読んでいる時は、わざとページの上に寝転がる。

仕事に行く前には玄関まで見送り、帰ってきたら足元にすり寄る。


それが私の日常だ。


……ただ、時々だけどね。


「……華華、ただい……う、うぅ……」


主様が仕事でくたくたになって帰ってくる時。

あるいは、酔ってふらふらになって帰ってくる時。


そんな時は、少しだけ力を使って、人の姿になって迎えるんだ。


玄関で靴を脱ぐ前に崩れ落ちそうになった主様を、私は慌てて支える。


「まったく。今日も限界まで働いたのかい、主様」


私の声に、主様がぼんやりと目を開ける。


「……華華?」


「そうだよ。ほら、靴を脱ぐ。鞄はこっち」


「んー……華華が人になってる……」


「なってるね。だから少しはありがたがりな」


「ありがたい……もふもふじゃないのは、ちょっと残念……」


「寝ぼけてるなら黙って運ばれな」


重たい体をそっと抱えて、布団へ運ぶ。

冷蔵庫にあるもので軽い食事を作り、湯を沸かし、眠る彼女の額に手を当てる。


できることなんて多くない。

私は医者じゃないし、人間の社会のことも全部分かるわけじゃない。


それでも、冷えた手を温めることはできる。

こぼした涙を拭うことはできる。

帰ってきた主様に「おかえり」と言うことはできる。


ただ、それだけのことさ。


主様は最初、私が化け猫になっていることに驚いていた。


そりゃあそうだろう。

昨日まで膝の上で丸くなっていた猫が、ある夜突然、人の姿で台所に立っていたんだからね。


「……華華?」


「にゃ……じゃなかった。あー、主様。勝手に台所を借りてるよ」


「え、待って。華華? 華華なの?」


「そうだよ」


「人型になれるの?」


「なれた」


「なれた、で済む話かな……」


「主様が尻尾増えた時に“そっかあ”で済ませたんだ。おあいこだろう」


主様はしばらく黙って、それから吹き出した。


「そっか。じゃあ、おあいこだ」


拒絶もなければ、恐れもなかった。

まるで、ずっとそうだったかのように、自然に私を受け入れてくれた。


「でも、無理はしないで」


「それはこっちの台詞だよ」


「私は人間だから、多少は無理できるの」


「猫だって、多少は無理するさ」


「駄目」


主様は私の額を指で軽く弾いた。


「華華は、私より先にいなくならないこと」


その言葉に、胸の奥がぎゅっとなった。


親の愛情を知らずに生きてきた私にとって、それは何よりも温かいものだった。


生きていていい。

ここにいていい。

そう言われた気がした。


だから私は、決めたんだ。


この家を守ると。

この人を守ると。


私の主様が、今日も帰るべき場所を間違えずにたどり着けるように。

私の主様が、夜の闇に呑まれぬように。

私の命と力が尽きるその時まで――私は、化け猫として生きよう。


主様。


あなたは私に、生きる意味をくれた。

だから、せめてもの恩返しをさせておくれ。


その日も、主様はいつもより少し遅く帰ってきた。


玄関の鍵が回る音がして、私は耳をぴんと立てる。

今日は酔ってはいない。足音もしっかりしている。けれど、少し疲れている音だ。


扉が開く。


「華華、おいで〜」


私は何事もなかったように、猫の姿で廊下を駆けた。


「にゃぁ〜」


主様はしゃがみ込み、私を抱き上げる。


「ふふ、今日ももふもふだね」


彼女の手が、私の背中をゆっくり撫でる。

その手は少し冷たかったけれど、声は優しかった。


「華華は今日もいい子」


「にゃ」


「私の手が届くうちは、一緒に生きてね」


そこで主様は、少しだけ照れたように笑った。


「……なんて、重いかな」


私はその頬に頭を擦り寄せた。


「にゃふ」


言われなくても、ずっといるよ。


そう伝えたつもりだったけれど、主様にはただの鳴き声に聞こえただろう。


それでいい。


今はまだ、それでいい。


主様が笑って、私を抱きしめる。


「そっか。ありがと、華華」


私は目を細めた。


この家の灯り。

この腕の温かさ。

私の名前を呼ぶ声。


それらがある限り、私はきっと何度でも思うのだろう。


あのボロボロの神社で終わるはずだった命は、ここまで来た。


そして今も、確かに生きているのだと。


「にゃぁ」


今日も私は、主様の猫でいる。

そして、主様を守る化け猫でいる。

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