化猫は暖かみを知る。
私の名前は「華華」。
種族は……まあ、見ての通り、化け猫さ。
でも、私の出自はちょっと変わっていてね。
生まれたときは、ただのどこにでもいる普通の猫だったんだ。生粋の化け猫ってわけじゃない。けれど、運命の巡り合わせってやつは、時に冗談みたいな形で牙を剥くものだろう?
――例えば、こんなふうにさ。
私が生まれたのは、街外れにあるボロボロの神社だった。
人の気配なんて、まるでない。
かつては信仰の中心だったのだろうその社も、今では草むらに埋もれ、瓦は割れ、扉は外れ、名残の賽銭箱すら蜘蛛の巣まみれだった。
風が吹けば、軒先の木がぎしぎしと鳴る。
雨が降れば、屋根の隙間から水が落ちる。
昼でも薄暗く、夜になれば、そこは世界から忘れられた場所みたいに静まり返っていた。
私の母猫は、その社の奥、御神体があったらしい場所の隅で私を産んだ。
そして……それっきり帰ってこなかった。
置き去りにされた。
理由も知らないまま。
最初は啼いていたよ。
小さな喉を震わせて、何度も、何度も。
母を呼んだのか、誰かを呼んだのか、自分でも分からない。ただ、声を出していないと、自分がこのまま消えてしまいそうで怖かった。
けれど、誰も来やしない。
飢え、寒さ、孤独。
小さな命にとって、それは死を告げる予鈴に他ならなかった。
だんだん声も出なくなった。
体を丸めても寒さは消えず、腹の奥は痛いほど空っぽで、雨に濡れた毛は乾くこともなかった。
ああ、私はここで終わるんだ。
そう思うことすらできないほど、私の意識は薄れていた。
けれど、そんな私を救ってくれたのが――あの人だった。
私の主様だ。
彼女は代々、陰陽師の家系に生まれた人間だったらしい。
表向きは普通の大学生をしていたようだけど、裏では廃社や封印の地を巡る、少し変わった趣味を持っていた。
「……ここも、ずいぶん荒れてるな」
初めて聞いた彼女の声は、静かだった。
怖がるでもなく、面白がるでもなく、ただその場所を悼むような声。
主様は割れた石段を上り、草をかき分けて社へ入ってきた。
その足音を、私は遠くで聞いていた。
近づいてくる。
人間の匂いがする。
それなのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
「……ん?」
彼女の足が止まった。
その視線が、社の隅で丸まっていた私を見つけた。
「猫……? こんなところに?」
私は逃げようとした。
けれど、足は動かなかった。威嚇しようにも声が出ない。瞼を上げることさえ重かった。
主様は慌てて駆け寄ってきた。
「待って。大丈夫。何もしないから」
そう言って、彼女は自分の上着を脱ぎ、私を包んだ。
人間の腕の中は、温かかった。
その温かさが、逆に怖かった。
それまで私が知っていた世界には、そんなものはなかったから。
「よく生きてたね」
主様は、ぽつりとそう言った。
その声が、なぜかひどく優しくて。
私は薄れかけた意識の中で、ほんの少しだけ鳴いた。
「……にゃ」
「うん。もう大丈夫」
何が大丈夫なのか、当時の私には分からなかった。
でも、その言葉だけは覚えている。
主様は私を拾い、躊躇なく病院に連れていった。
生き延びるための処置を施し、何度も通って様子を見に来てくれた。
最初は、どこかの家庭に引き取ってもらうつもりだったらしいよ。
「私が飼うと、色々面倒だからなあ」
病院の待合室で、主様はそんなことを呟いていた。
獣医は笑っていた。
「でも、この子、あなたが来ると安心するみたいですよ」
「……そう見えます?」
「少なくとも、私にはそう見えますね」
主様は困ったように眉を下げた。
「私、あんまり普通の家じゃないんですけどね」
その言葉の意味を、私はまだ知らなかった。
けれど、何度も会ううちに、主様の心に何かが芽生えたのだろうね。
気づけば、私の居場所は彼女の家の中になっていた。
初めて連れていかれた家は、少し古かった。
本棚には難しそうな本が並び、棚の上には札や鈴、用途の分からない道具がいくつも置かれていた。けれど、部屋の奥にはふかふかの毛布が用意されていて、その横には小さな皿と水入れが置かれていた。
「今日からここが、あなたの場所」
主様は私を毛布の上に下ろして、そう言った。
「名前、どうしようか」
私は彼女を見上げた。
「廃社で拾ったからって、変な名前は嫌だよね。うーん……」
主様はしばらく考えてから、ふと笑った。
「華華」
その響きは、柔らかかった。
「花みたいに、じゃなくて。華やかに生きてほしいから。二つ重ねて、華華」
私は意味なんて分からなかった。
けれど、主様が私の名を呼ぶたびに、胸の奥がくすぐったくなった。
「華華」
「にゃ」
「ふふ。返事した」
それから、私は主様の家で暮らすようになった。
陰陽師の家系というものは、得てして“実験”を行うことが多い。
式神の材料として、動物を用いる例も少なくない。
あとで知ったことだけど、主様の家にも、そういう古い因習が残っていたらしい。
「その猫、まだ飼っているのか」
ある日、親族らしい男が家に来て、私を見下ろしながら言った。
「霊地で拾った猫なら、使い道があるだろう。式に落とせば面白い」
主様はその瞬間、笑わなかった。
いつもは気だるげで、面倒くさそうで、少し抜けたところもある人なのに。
その時だけは、声が冷たかった。
「華華は家族です」
「陰陽師の家の者が、情で物を言うな」
「情も持てない陰陽師なら、私は辞めます」
部屋の空気が固まった。
私は主様の足元で丸くなりながら、その声を聞いていた。
何を言っているのか全部は分からなかったけれど、ひとつだけ分かったことがある。
この人は、私を差し出さなかった。
利用しなかった。
道具にしなかった。
ただ、家族だと言ってくれた。
それが、私という存在の転機だった。
……気づけば私は、普通の猫ではいられなくなっていた。
最初は、些細な違和感だった。
夜になると、耳の奥で遠い声が聞こえた。
誰もいない廊下の影が、私には妙にはっきり見えた。
主様が貼った札の力の流れが、ぼんやりと光の筋のように見えることもあった。
そしてある日、私は自分の尾が二つに揺れているのを見た。
鏡に映った自分を見て、私は固まった。
「……にゃ?」
おかしい。
いや、猫の私でも分かる。
これは普通じゃない。
主様もすぐに気づいた。
「華華」
彼女は私をじっと見つめた。
「……尻尾、増えたね」
「にゃあ」
「そっかあ」
そっかあ、じゃないだろう。
こっちはかなり驚いているんだよ、主様。
けれど主様は、慌てなかった。
恐れもしなかった。
ただ、私の前に膝をついて、そっと頭を撫でた。
「痛いところは?」
「にゃ」
「苦しくない?」
「にゃあ」
「なら、よし」
よしで済ませるのか。
この人は、昔からそういうところがある。
けれど、その手は優しかった。
神社という土地に残された霊的な名残。
そして、陰陽師の力の余波。
それらが複雑に絡まり合い、やがて私の存在は変質した。
そうして私は“化け猫”になった。
――否、なってしまった。
でもね、化け猫といっても、別に人間に恨みがあるわけじゃない。
主様に拾われ、大切にされて、私は初めて「生きる」ことができた。
だから私は、今も変わらず、ただの猫として主様の元で暮らしている。
日向ぼっこをして、飯を食べて、主様の膝に乗る。
主様が本を読んでいる時は、わざとページの上に寝転がる。
仕事に行く前には玄関まで見送り、帰ってきたら足元にすり寄る。
それが私の日常だ。
……ただ、時々だけどね。
「……華華、ただい……う、うぅ……」
主様が仕事でくたくたになって帰ってくる時。
あるいは、酔ってふらふらになって帰ってくる時。
そんな時は、少しだけ力を使って、人の姿になって迎えるんだ。
玄関で靴を脱ぐ前に崩れ落ちそうになった主様を、私は慌てて支える。
「まったく。今日も限界まで働いたのかい、主様」
私の声に、主様がぼんやりと目を開ける。
「……華華?」
「そうだよ。ほら、靴を脱ぐ。鞄はこっち」
「んー……華華が人になってる……」
「なってるね。だから少しはありがたがりな」
「ありがたい……もふもふじゃないのは、ちょっと残念……」
「寝ぼけてるなら黙って運ばれな」
重たい体をそっと抱えて、布団へ運ぶ。
冷蔵庫にあるもので軽い食事を作り、湯を沸かし、眠る彼女の額に手を当てる。
できることなんて多くない。
私は医者じゃないし、人間の社会のことも全部分かるわけじゃない。
それでも、冷えた手を温めることはできる。
こぼした涙を拭うことはできる。
帰ってきた主様に「おかえり」と言うことはできる。
ただ、それだけのことさ。
主様は最初、私が化け猫になっていることに驚いていた。
そりゃあそうだろう。
昨日まで膝の上で丸くなっていた猫が、ある夜突然、人の姿で台所に立っていたんだからね。
「……華華?」
「にゃ……じゃなかった。あー、主様。勝手に台所を借りてるよ」
「え、待って。華華? 華華なの?」
「そうだよ」
「人型になれるの?」
「なれた」
「なれた、で済む話かな……」
「主様が尻尾増えた時に“そっかあ”で済ませたんだ。おあいこだろう」
主様はしばらく黙って、それから吹き出した。
「そっか。じゃあ、おあいこだ」
拒絶もなければ、恐れもなかった。
まるで、ずっとそうだったかのように、自然に私を受け入れてくれた。
「でも、無理はしないで」
「それはこっちの台詞だよ」
「私は人間だから、多少は無理できるの」
「猫だって、多少は無理するさ」
「駄目」
主様は私の額を指で軽く弾いた。
「華華は、私より先にいなくならないこと」
その言葉に、胸の奥がぎゅっとなった。
親の愛情を知らずに生きてきた私にとって、それは何よりも温かいものだった。
生きていていい。
ここにいていい。
そう言われた気がした。
だから私は、決めたんだ。
この家を守ると。
この人を守ると。
私の主様が、今日も帰るべき場所を間違えずにたどり着けるように。
私の主様が、夜の闇に呑まれぬように。
私の命と力が尽きるその時まで――私は、化け猫として生きよう。
主様。
あなたは私に、生きる意味をくれた。
だから、せめてもの恩返しをさせておくれ。
その日も、主様はいつもより少し遅く帰ってきた。
玄関の鍵が回る音がして、私は耳をぴんと立てる。
今日は酔ってはいない。足音もしっかりしている。けれど、少し疲れている音だ。
扉が開く。
「華華、おいで〜」
私は何事もなかったように、猫の姿で廊下を駆けた。
「にゃぁ〜」
主様はしゃがみ込み、私を抱き上げる。
「ふふ、今日ももふもふだね」
彼女の手が、私の背中をゆっくり撫でる。
その手は少し冷たかったけれど、声は優しかった。
「華華は今日もいい子」
「にゃ」
「私の手が届くうちは、一緒に生きてね」
そこで主様は、少しだけ照れたように笑った。
「……なんて、重いかな」
私はその頬に頭を擦り寄せた。
「にゃふ」
言われなくても、ずっといるよ。
そう伝えたつもりだったけれど、主様にはただの鳴き声に聞こえただろう。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
主様が笑って、私を抱きしめる。
「そっか。ありがと、華華」
私は目を細めた。
この家の灯り。
この腕の温かさ。
私の名前を呼ぶ声。
それらがある限り、私はきっと何度でも思うのだろう。
あのボロボロの神社で終わるはずだった命は、ここまで来た。
そして今も、確かに生きているのだと。
「にゃぁ」
今日も私は、主様の猫でいる。
そして、主様を守る化け猫でいる。




