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【常世の君の物語】No.016:幻海 ~応仁の乱の頃、斯波遠江に幻海という名の姫が暮らしていた~  作者: くさかはる@五十音


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第5話:永久の別れ


テンが異朱を呼び出してもらうために神社の狐に頼み事をして数日が経った。


この日は、空に雲一つない、まさに秋晴れの空模様で始まった。

鳥絵は宿で目を覚ますと、裏の井戸へと行き、まずは顔を洗った。

天気がいいのは良いことだが、どこかから冷たい風が吹いてくる、そんな朝である。

今日は上着をもう一枚重ねて着よう。

そんなことを思いながら部屋に戻ると、畳んである布団の上で、テンが気持ちよさそうに丸くなっていた。

「今日は、館に行くのか?行かんのか」

と、テンが尋ねる。

「その件だが、今日明日にでもこの遠江を去ろうと思っておる。長居しすぎた。よって館には行かないでいようと思う。顔は見せぬ方がいいだろう」

と鳥絵は答えた。

「おやおや、本当にそれでよいのか?」

とテンが言う。

その様子が意味ありげなので、鳥絵はテンの前にどかっと座り、「どういう意味だ」と尋ねた。

「姫君のおなかに、ややがおる」

突然のテンの言に、鳥絵は目を丸くした。

「なぜおぬしにそんなことが分かる!」

「取り乱すな。怪の勘よ」

テンを見ると、猫のくせににんまりと笑っているように見える。

「そうか」

と、鳥絵が小さく返した時だった。

「ごめん」と声が聞こえた。

廊下に出る襖を引くと、そこには年老いた男が座っていた。

見ると腕から床板へと、ぽたぽたと血がしたたり落ちている。

「異朱か。どうした」

テンが鋭く尋ねる。

神社で異朱を呼び出してもらったテンは、その後、鳥絵を待たずに異朱に事の顛末を説明し任務に当たらせていた。

その異朱が手傷を追って帰ってきた。

ということは――。

「請け負った任務、半ばで失敗と相成り申した」

「相手方に居所が知られたのか」

矢継ぎ早にテンが尋ねる。

鳥絵はようやく事態が呑み込めて、かたまっていた体を動かし、部屋に干してあった手ぬぐいを異朱に渡してやる。

「こちらのことは何も知られてはなりませぬ。ただ手傷を負わされたのみ。権兵衛と平助と申す者たち、今川方の患者でございました」

「今川」というと、遠江の東側の隣国である。

その患者が、この地に何の用か――とは、明らかである。

「今川が、この地へ攻めてこようとしておるのか」

鳥絵がぽつりと、つぶやいた。


その日の午後は、幻海は館の自室から、ひとり海を眺めていた。

見えるのは、いつもの通り、多くの船と、港を行きかう男衆である。

「今日は鳥絵殿は来なかったので暇でございますね」

と、皐月がいじわるく言いながら昼食をさげさせにやって来た。

「口が過ぎるわよ。さがって。皐月」

と、幻海はぴしゃりと命じた。

その言を受け、皐月はそれまで笑顔をたたえていた顔を瞬時に引き締め、うやうやしく一礼をすると、大きな体をひるがえし、表の方へと去って行った。

そこへ、窓から一匹の猫が入ってきた。

「あら、珍しいわね、こんなところへ迷い込んで。かわいそうに」

と、幻海がおいでおいでをした。

すると猫は「はじめまして姫君。私はテンという」と名乗った。

幻海は目を丸くして、「あらあら、喋る猫なんて珍しいこと」と笑顔を見せた。

「時間がない。手短に言う」

と、幻海の次の言を待たずにテンは続ける。

「今川が攻めてくるぞ」

「あら、なによいきなり」

と、幻海は眉を寄せた。

「鳥絵からおぬしのことは聞いておる。鳥絵におぬしのことを頼まれた。今からおぬしは儂の下僕だ。よいな」

幻海はテンの表情を見つめた。

不思議な猫ではあるが、どうやら冗談を言ってはいないようである。

「鳥絵殿は?」

「さきほどこの地をたった」

テンは短く告げた。

「そう」

その言葉を、幻海はしばらく頭の中で吟味して腑の底に静かに落とした。

それから少し間を置いて、テンに向き直ると、幻海は静かに言った。

「今川が攻めてくることは殿も考えていらしたわ。大丈夫、そのために領内の要所に難所を設けてあるし、いざという時の兵も備えていてよ」

テンは首を傾げて幻海を見た。

今まで鳥絵に抱かれるだけの頭の弱い女子とばかり思っていた相手から、そのような言葉が飛び出てきたことに、内心、驚いているのだった。

「なぜ、おぬしがそのようなことを知っておる」

思わず本音が出る。

「あら、城内のことで、私の耳に入らない噂はなくてよ」

「なるほど、な」

なんということはない、噂の中心にいた人物が、逆に周囲の噂を集めていたということだった。

しかし、なんとも胆のすわった娘よ。

テンはひげをぴんと立てて幻海を物珍し気に見やった。

と、そこへ「ごめん」と声をかける者があった。

「何者ですか」

と幻海が声のした方を見る。

そこは部屋一番の暗がりで、本来であれば何もない空間である。

しかし今、そこには一人の黒装束に身を包んだ老人の姿があった。

「異朱か」

「は。今川方が動き申した」

突然のテンと異朱の短いやり取りを、幻海はただ聞いている。

「して、おぬしは行くのか」

テンが問う。

「さすが怪、読みが早い」

異朱がしわがれた声で少しだけ笑ったのが、幻海にも分かった。

「達者での。世話になった」

「あなた様も」

そう言って、異朱は姿を消した。

再び二人だけに戻った部屋の中で、幻海はテンをつかまえて叫ぶように言った。

「部下ではないの?戦場に行かせるつもり?あの方、もう随分なお年よ?死んでしまうわ!」

まくしたてる幻海に、テンは「よいのだ」と、やはり短く答えるのみであった。


その後、今川は斯波の領内へと攻め入った。

秋の稲刈りを待った、計画的な行軍であった。

しかし、それを予期していた斯波の懸命な抵抗により、結局今川は退却することとなる。

戦場には多くの躯が残されたが、その中にひとつ、どちらの家紋もつけていない老兵の躯があったという。

鳥絵は次の任地で、風の噂にそんな話を聞くのであった。


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