第1話:幻海
一筋の涙が、頬をついと流れた。
幻海は、うっすらとまぶたを開けると、すぅ、と息を吸った。
わずかばかりの明るい光が、瞳の中へと差し込んでくる。
その光は、まぶたにたまった涙の内に反射して、きらきらと煌めいて、この世をあの世のように変えてしまう。
死ぬ時って、こんな感じなのかしら。
幻海はぼうっと、そんなことを思った。
ああ、今日も目覚めてしまったのね。
頬に残る涙の跡をぬぐい、幻海はゆっくりと起き上がった。
「あらあら、姫様、遅いご起床で」
寝所から出てきた幻海を見て、それまで興じていたおしゃべりを中断してやって来たのは、侍女の皐月である。
皐月は、よく太った体をゆさゆさと揺らしながら、幻海が足元に落とした衣を拾い上げてゆく。
「もうお昼どきですよ。すぐに顔を洗ってお化粧をしてしまってくださいまし」
そう言いながら矢継ぎ早に部下に指示を出し、みずからは両手いっぱいに抱いた衣をしまうべく急いでいる。
「皐月、もう少し静かに」
寝ぼけ眼の幻海は、そう言いながら手桶が運ばれてくるのをおとなしく待つ。
その間、手持無沙汰なので、窓の外を眺めてみると、館の内から港が見えた。
いつもの光景である。
今日も大きな帆を掲げた船が、たくさん、この遠江の港に停まっている。
陸地に目を転じれば、ごま粒のように小さな人影が、いくつも上げ下ろしされる荷の間に見える。
いいなぁ、どこから来たんだろ。
これからどこに行くんだろ。
ぼんやりと、そんなことを考える。
つめたい秋風が、館の内を吹き抜けてゆく。
くしゅん。
と、幻海は小さく、くしゃみをした。
戻ってきた皐月は目ざとくそれを見つけて、
「ぼーっと窓際なんかに座っているからですよ。さあさ、さっさと顔を洗って、お化粧を済ませておしまいなさい」
見ると皐月の後ろには、手桶や化粧道具を携えた侍女が控えている。
「はぁい」
幻海は大きく一度、あくびをした後、彼らに向き直り居住まいをただした。
「ねぇ、皐月」
布で顔を拭きながら、幻海が呼びかける。
「なんでございましょう、姫様」
皐月の小さな目が、まんまるに開く。
「午後は城下へおりてみない?港の方へ足を伸ばしてみたいの」
「あらあら、またですか?港へ行ってはたらく男衆を見て、一体何が楽しいんだか。せっかく焚き染めた衣に潮の香が移ってしまうだけですのに」
皐月はふくれ面をつくって言う。
「いいじゃない。あなたも、少しは動かなくてはちっとも痩せなくてよ」
「まぁ、姫様ったら」
館の内に、笑い声が起こる。
時は文明元年。京の都は、後に「応仁の乱」と呼ばれる大戦の真最中であり、ここ斯波の館の城主も参戦していた。
季節は、稲刈りの時期を迎えていた――。




