第1話 当たり前の日々とあの屋敷
近所にある不思議な洋風の屋敷。
小さな頃からずっとそこにあるのに、一度も入ったことがなかった。
誰がいつから住んでいるのかも知らない。
それなのに、いつの頃からか近所の子供たちは“幽霊屋敷”と呼ぶようになっていた。
特に気にしたことはなかったけれど…
あの日、確かに誰かに呼ばれた気がしたんだ―…
2025年-
「いってきます」
今日も元気に、玄関を出る前に挨拶をして扉を閉める。
一人暮らしが長い私は、いつもそうしていた。
その理由は、自分でもよく分からない。ただ、言いたくなる。それだけだった。
私、星月沙也音は、ごくごく普通の会社に勤める事務員。
多忙な仕事に追われる毎日でも、私は今の自分に不満はなかった。
大切な家族がいる。信頼できる友達もいる。
そして、大好きな音楽が、いつも側にある。
平凡かもしれない。だけど、それが幸せ。そう、感じていた。
そんな私が愛してやまない音楽。
それは「Lumiy」というバンドだった。
5人編成の彼らは、今や日本を代表するロックバンドに成長を遂げている。
誰もが一度は口ずさんだことのある曲が数多くあり、年齢を重ねるごとに、さらに深みのある音を奏でていた。
そんな彼らに魅了される人は当然多い。
年を重ねることで新たな魅力に気づく人もいれば、昔の曲に心打たれて好きになる若者もいる。
幅広い世代にファンを抱える彼らは、私の地元出身だった。
それが、私にとっての誇り。
そんな素敵なアーティストと同じ場所で生きていることが、私の幸せだった。
早く会いに行きたいな。次のライブはいつだったかな?
なんていつも考えながら毎日を過ごしていた-…
◇
キーンコーンカーンコーン
「やっとお昼休憩だ…」
勤める会社の昼を告げるチャイムが鳴り響き、私はパソコンを打つ手を止めて、大きく背伸びをした。
私が勤務するのは、そこそこ規模の大きな製造会社の事業所。
その中には複数の協力会社が入っていて、そのひとつに勤める事務員。
席を立った私は、お弁当を手に取り、同じフロアで働く他社の事務員に声をかける。
「屋上、行こ!」
私に声をかけられ、笑顔でスッと立ち上がったのは七瀬仁那。
入社時期が同じで、たまたま会話の中で好きなアーティストやゲームの趣味も共通していたことで、今では親友と呼べるほどの絆が生まれていた。
そんな仁那といつものように屋上へ向かい、備え付けのテーブル席に腰を下ろす。
コクリと一口お茶を飲んだあと、お弁当の包みを開け始めると、仁那は満開の笑顔で話しかけた。
「もうすぐだね!Lumiyの野外ライブ!ホテルも予約したし、家から行くよりゆっくりできそうだよね!」
「えっ?!あ、そうだったね。地元を挙げての野外ライブ…」
楽しげな仁那とは対照的に、私はそのイベントをすっかり忘れていて、思わずそっと視線を逸らした。
いつもなら同じテンションで盛り上がるのに、今日はどこか違う私に。仁那は首を傾げた。
「沙也音、何かあった?今日、忙しかった?」
「え?そうでもないよ。ただね…」
仁那に心配され、ハッとしたように顔を上げた私は、
そのまま、胸の内に引っかかっていた感情を口にした。
「なんかさ、本当に行ってもいいのかなぁって。」
「なんでそんなこと思うの?いいに決まってるじゃない!
私たちファンだよ?しかも地元だし、行かない選択はないでしょ!」
「そうなんだけど…何て言えばいいんだろう。私なんかが行ってもいいのかなぁって。」
「うーん…。沙也音、今日は疲れてるんだよ。そんな風にマイナスになるなんて!
お昼食べたら、一緒に動画観よ?面白い人見つけたんだよ!」
「…うん。ありがと、仁那。」
私の変化に気づいた仁那は、心配そうな表情で私を見つめながらも、
何かを察したように話題を切り替えて笑顔を見せた。
このよく分からない感情のせいで仁那を心配させてしまった私は、
考えるのをやめて仁那との会話に集中して、モヤモヤしたこの気持ちを忘れようとしていた―…
◇
今日は、いつもよりずっと早く感じられた。
それは、心の片隅に理由の分からない悩みをずっと抱えていたせいかもしれない。
得体のしれないモヤモヤをどう処理すればいいのか分からなくて、
ようやく仕事終わりの時間になると、私は椅子にもたれて小さくため息をついた。
「沙也音! 今日、ご飯食べて帰らない?」
ぼんやりしていた私に、仁那の明るい声が顔を覗き込んできた。
いつも優しい仁那だな…。その想いが浮かび、つられるように笑顔を返す。
「仁那ー行きたいっ…!でも、今日ダメなんだよね…」
「何か予定あったの?」
「うん、お母さんに呼ばれてて。久しぶりに家族でご飯食べたいって言ってたの。
せっかく誘ってくれたのに、ごめんね。明日は絶対行こう?」
彼女の誘いに乗りたかったけれど、脳裏に今日の予定が浮かんでしまい、残念な気持ちがこみ上げた。
「明日は必ず」と約束し、片づけを終えて一緒に会社をあとにした。
仁那と別れたあとは、いつもと同じようにバスに乗り、バス停を降りてトボトボと歩く。
見上げた空はオレンジ色に染まり、何故だか胸をギュッと締め付けた。
そして、気づけば見慣れたあの洋風の屋敷の前までやってきていた。
やけに静かに吹く風が、塀越しに私の髪を優しく揺らしていた。
その時―
「…え?」
いつもの場所だから特に気にすることもなく真っすぐ通り過ぎた。
だけど、扉の横をすり抜けた瞬間、誰かの声が聞こえた気がして、私は立ち止まった。
私はしばらく扉をじっと見つめたあと、引き寄せられるように手を扉の取手へと伸ばす。
少し開けると、キィ、と控えめな音が鳴り、一瞬ドキッとしながらも、そっと足を踏み入れた。
外から見たときは、もっと暗かった気がしていた。
でも今は、少し薄暗いながらも、やわらかな明かりが灯っている。
入ってすぐの広間。
その中心には、大きくて古めかしい時計がひとつ。
振り子が、一定のリズムで時間を刻んでいた。
ふと、床に反射する色とりどりの光に気づいて見上げると、
そこには鮮やかに輝くステンドグラスがあった。
「なにこれ…違う世界に来たみたい。」
さっきまで胸に引っかかっていたモヤモヤは、いつの間にか消えていた。
今の私は、探検家の気分。
小さな声で「誰かいますか?」と問いかけながら、
ゆっくりと辺りを歩き回る。
色彩が差し込むステンドグラスのある二階へと、私は足を進めていった。
これから何が起こるのか、何も知らずに―…




