第2話:マークバラードの小さな小屋
マークバラードに足を踏み入れた瞬間、風が私の頬を撫で、土の匂いが鼻腔をくすぐった。
王都の華やかな石畳とはまるで別世界だ。
目の前に広がるのは、痩せた土地とまばらな木々の間を縫うように建つ、粗末な家々。
村は静かで、遠くから聞こえる鶏の声だけが、かろうじてこの地に命があることを教えてくれる。
私の心は、期待と不安が半分ずつで揺れていた。
でも、胸の奥で燃えるのは、葡萄畑の夢――前世のワイン愛好家としての情熱が、私をここまで連れてきたのだ。
「エレナ様、このような場所で本当に暮らせるのですか?」
エルルゥが眉をひそめながら、腰に手を当てて辺りを見回した。
彼女の黒いメイド服は、埃っぽい道にはあまりにも不釣り合いで、まるで絵本から飛び出してきた騎士のようだ。
剣の柄に軽く触れるその仕草には、いつでも私を守る準備ができているという決意が感じられた。
「大丈夫だよ、エルルゥ。ここが私の新しいキャンバスなんだ。真っ白な画布に、最高のワインを描き上げるの!」
私は拳を握り、力強く言い放った。
エルルゥは一瞬呆れたような顔をしたが、すぐにその口元に小さな笑みが浮かんだ。
「ワタクシ、エレナ様のその無謀さが嫌いではありません。ですが、まずは住む場所を確保せねば。さあ、あの小屋が我々の拠点かと」
彼女が指さしたのは、村の外れにポツンと佇む小さな木造の小屋だった。
屋根には苔が生え、壁にはひびが入り、まるで今にも倒れそうな頼りなさ。
馬車の御者が荷物を降ろしながら、「リーデル家から預かったのはこれだけです」とそっけなく言い残し、さっさと去ってしまった。
「これ、住めるよね……?」
思わずつぶやいた私の声に、エルルゥが鋭い視線を向けた。
「エレナ様、弱音は禁物です! ワタクシがいます。剣と知恵で、この小屋を立派な住処にしてみせます!」
彼女の力強い言葉に、私は思わず笑ってしまった。
確かに、この小屋はボロボロだけど、私には時空魔法とアイテムボックスがある。
エルルゥの剣と私の魔法があれば、どんな場所だって変えられるはずだ。
小屋の中は、外から見るよりもさらに質素だった。
木の床は一部が腐り、隙間から冷たい風が入ってくる。
窓は一枚しかなく、ガラスはひび割れていた。
家具は古い木のテーブルと椅子が一つずつ、寝台は藁を詰めただけの簡素なもの。
エルルゥが鼻を鳴らし、「王都の屋敷と比べるのは愚かですな」と呟いたが、私は逆にワクワクしていた。
この小さな空間が、私の夢の第一歩になるのだ。
「よし、まずは掃除! エルルゥ、手伝って!」
「ワタクシ、メイドですから当然です。エレナ様はあまり無茶をなさらないでくださいね」
エルルゥはそう言いながら、さっそく雑巾を手に動き始めた。
私はアイテムボックスを開き、王都から持ってきた道具を取り出した。
ほうき、雑巾、修繕用の釘や木材――アイテムボックスのおかげで、荷物の重さを気にせず運べるのは本当に便利だ。
時空魔法を試してみようかと一瞬思ったが、さすがに小屋の修繕に時間を操るのは大げさすぎる。
まずは地道にやろう。
掃除を進めながら、私は小屋の周りを観察した。
裏手には小さな空き地があり、土は硬く、雑草がまばらに生えているだけ。
でも、その先に見える丘陵の風景に、私の心は躍った。
あそこなら、葡萄畑にできるかもしれない。
土壌は貧弱そうだけど、時空魔法で改良すれば、きっと可能性が広がる。
「エレナ様、何をニヤニヤしているのです? 埃まみれですよ」
エルルゥが呆れ顔で私を見ていた。
確かに、髪に蜘蛛の巣が絡まっていて、ドレスの裾は泥で汚れている。
貴族の令嬢としては失格かもしれないけど、今の私はそんなこと気にしない。
「見て、エルルゥ。あの丘! 葡萄畑にするのに最高の場所だと思わない?」
「葡萄畑……ですか。ワタクシにはただの荒れ地にしか見えませんが、エレナ様の目は何か特別なものを見ているのでしょうね」
彼女の言葉には、半分はからかい、半分は本気の信頼が込められている気がした。
私は笑って、アイテムボックスから葡萄の苗を一つ取り出した。
王都の市場で買った、赤ワイン用の品種だ。
まだ小さな苗だけど、これが私の夢の第一歩。
その夜、小屋での初めての夕食は質素なものだった。
アイテムボックスに詰めていたパンと干し肉、チーズをテーブルに並べ、エルルゥが持参した小さな鍋でスープを作った。
薪をくべた暖炉の火が、パチパチと音を立てる。
外は真っ暗で、遠くでフクロウの鳴き声が聞こえるだけ。
王都の賑わいが遠い夢のようだ。
「エルルゥ、こんな生活、嫌いじゃないよ」
私はスープをすすりながら、ぽつりと言った。
エルルゥはスプーンを止めて、じっと私を見つめた。
「エレナ様、ワタクシは貴女のメイドです。どんな場所でも、貴女が笑っていれば、それで十分です」
その言葉に、胸がじんわり温かくなった。
エルルゥはいつもこうだ。
厳しくて、ちょっと頑固だけど、私のことを誰よりも信じてくれる。
彼女がいてくれるから、私はこの荒れ地で夢を追いかけられる。
「ありがとう、エルルゥ。明日から本格的に始めよう。まずはあの丘を視察して、葡萄畑の計画を立てるよ!」
「ふむ、了解しました。ですが、エレナ様、くれぐれも無茶は禁物ですよ。ワタクシの剣があっても、魔力の使い過ぎは危険です」
「わかってるよ! でも、ちょっとくらい無茶しないと、夢は叶わないよね?」
私はウィンクして、彼女をからかった。
エルルゥは「まったくもう」と呟きながら、でもどこか楽しそうにスープを飲み干した。
翌朝、朝日が丘陵を照らす中、私はエルルゥと一緒に小屋を出た。
アイテムボックスに苗や農具を詰め、丘に向かって歩き始める。
風は冷たく、土は硬く、道はでこぼこ。
でも、私の心は燃えていた。
この荒れ地を、葡萄で覆い尽くす。
ワインの香りで満たす。
それが、私の新しい人生の始まりだ。




