またね。
俺は、麗羽の日記の最後のページの殴り書き『白鷺岬東街道』を頼りに、そこを訪れた。
麗羽の足取りを追って、岬を練り歩く。
左手側に広大な青い海が広がり、右手側には深い雑木林が広がっている。
「ここで、麗羽が自殺したのか……」
崖下を見下ろす。
ビルの7階分ぐらいはありそうな高さだ。
麗羽は、苦しまずに死ねたのだろうか。
それとも、死に損なって、想像を絶する激痛に苦しみ、もがきながら死んでいったのだろうか……
そんなことを考えるだけで、心が痛くなってくる。
清々しい海風を浴びながら、道路を道なりに歩く。
車は、10分に一回通るぐらい、交通量が少なかった。
聞こえてくるのは、鳥の歌声と風が木々を揺さぶる音、それから、波が打ち付ける音だけだった。
「っ――!」
崖下を見下ろしながら歩いていたとき、とある異常なものを見つけた。
断崖絶壁の下……岩と岩の隙間に、人の足のようなものが見えた。
「麗羽っ!!いや、違うか……」
麗羽は、死んで幽霊になった。
つまり、麗羽以外に、ここから転落した人がいるということ……
「急いで救急に連絡しないと!」
おそらく、死んでいる。
しかし、生きている可能性を否定できないため、俺はスマホを取り出して、119番通報をしようとした。
「りあむ……」
「は!?」
声が聞こえた。
しかも、俺の名前を呼ぶ、聞きなれた声だった。
「りあむ……こっち」
「麗羽!?」
それは、紛れもない、麗羽の声だった。
しかも、人の足が見える目下から聞こえてくるではないか。
「今、そっちに行くよ!!」
俺は、降りられる場所を探して走り回った。
3メートルぐらいある高さから、斜面を滑り降りて、下へ降りた。
「いてっ、痛い……」
ゴロゴロと転がる俺。
岩に背中をぶつけて、ようやく止まった。
耳と肘を岩や石に擦って、血が流れ出た。
しかし、そんなことはお構いなし。
「麗羽!麗羽!!」
俺は、大好きで大好きで仕方がないカノジョの名前を叫び、海岸を走る。
「麗羽!!俺だよ、利亜夢だよ!」
ついに、人の足が見えた大岩の間へと戻った。
岩の間から体を起こしたのは、やはり、麗羽だった。
彼女の黒髪は乱れ、着ていた地雷系の洋服はところどころが破れていた。
「だ、大丈夫……?」
麗羽の額からは、真っ赤な血が流れていた。
きっと、飛び降りて、頭を打って死んだんだ……そして幽霊になって、俺のところに来たのだろう。
「麗羽、会いに来たよ」
「利亜夢……会えて、嬉しい」
俺と麗羽は、抱き合った。
麗羽の体は、相変わらず、氷のように冷たい。
俺の声は、涙を堪えて震えていた。
それは、麗羽も同様だった。
「どうして……どうして急に消えたんだよ……」
「うっ……あっ、あっ……あうぅぅぅ……」
麗羽は、大粒の涙を流して、息を乱していた。
「落ち着いて、麗羽。ゆっくり話してみて」
俺がなだめると、麗羽は安心したのか、多少は落ち着いてくれた。
「っ……分かんない。目覚めたら、ここにいて、動けなくなってた」
麗羽と熱海旅行に行って、ホテルに宿泊した。
次の日目覚めると、麗羽の姿はなく、麗羽が着ていたものや荷物だけが残されていた……あのときの焦燥と胸のざわめきは、今でも忘れられない。
「麗羽、日記、読んだよ」
「日記?あ……」
「麗羽のお兄さんの輝樹さんのところに行ったんだ。そこで、日記とか、アルバムを見せてもらって、麗羽の話も聞かせてもらったよ」
「ど、どうやって、兄さんのところに行ったの?どうやって……」
「麗羽が言ってたじゃん。実家は、静岡県の南伊豆町の、海が見えるところにあるって」
「そ、それだけの情報で?」
「それだけじゃない。地元の人に訊いて回ったんだよ。『赤城 麗羽っていう人について、何か知りませんか』って」
真夏の厳しい日差しの下、麗羽を知っている人を探して歩いた記憶は真新しい。
「そうしたら、農家のおじいさんが、赤城っていう苗字の人が近くに住んでるって、麗羽のお兄さんの輝樹さんが住んでいるところを教えてくれたんだよ」
あのおじいさんの機転がなければ、俺は、ここで寂しくしていた麗羽のところへ辿り着くことができなかっただろう。
――あるいは、麗羽のツラい過去を知ることも、なかっただろう。
「その……辛かったね、麗羽」
「っ……」
「ごめんね。俺、麗羽のこと幸せにしてあげられなくて」
「利亜夢、謝らないで。利亜夢は、何にも悪くないんだから」
麗羽は、俺を抱きしめる腕の力を強めた。
同時に、晴れているはずなのに、雨が降ってきた。【天気雨】とか【狐の嫁入り】と呼ばれる現象だった。
その雨が、麗羽の涙と、麗羽の額から流れ出た血を洗い流してくれた。
「確かに私は、幽霊になる前は、正直、不幸の気持ちのほうが強かったよ。でも、幽霊になって、利亜夢に会ってからは、幸せで心がいっぱいだったから」
涙する麗羽。
俺のシャツの胸元に沁みる彼女の涙は、冷たくて、太陽の光を受けて氷の結晶のように輝やいていた。
「むしろ、私から感謝したいな――ありがとう、利亜夢。私のことを幸せにしてくれて」
「こちらこそ。麗羽、俺の初めての友達になってくれて、俺の初めてのカノジョになってくれて、ありがとう」
俺は、感謝をお返しした。
そして、再び彼女のことを抱きしめる。
すると、あることに【気が付いてしまった】
「麗羽……」
「なに?」
「麗羽の体、どんどん透けていってないか……?」
「え……あ、ほんとだ」
「また消える?冗談じゃない!!」
無情にも、麗羽の体は透明度を増して、向こう側の岩が見えてしまっている。
また、麗羽は消えてしまうのか……
また麗羽と離れ離れになってしまうのか……
そんなことはさせない。
麗羽をあの世で一人ぼっち、そんなことは、俺がさせないし、俺が許さない。
「私、ほんとうに消えちゃうのかな……あの世に、行っちゃうのかな……」
「麗羽、俺も行くよ」
「え……」
「もう麗羽を一人にはしない。一人で悲しませないように……」
俺は、崖をよじ登る。
無論、飛び降りて死ぬためだ。
「麗羽と一緒にいるために、死ぬよ」
俺の命は、もう、俺一人のものではない。
麗羽を悲しませないために、俺も命を捧げようと思った。
「待って!!ダメっ!!」
そんな俺の背中に、消えかけている麗羽が飛びついた。
俺と麗羽は、腕や脚を絡めながら斜面を転がり落ちた。
「いってぇ……」
俺は、尖った岩で腕を切ってしまった。
二の腕から、真っ赤な血が流れ出て、岩にポタポタと滴る。
「自分で死ぬなんて、絶対にダメ!!」
麗羽が俺の上に覆いかぶさって、声を大にして叫んだ。
その声が雑木林にまで響き渡り、反響した。
「これ以上、麗羽のことを寂しくさせたくないんだよ!離してくれ!」
抵抗するが、麗羽は、俺の腕に抱き着いて離れようとしない。
「利亜夢が死んだら、私、一人ぼっちになるより悲しいよ……だから、やめて」
「……」
「私、自分で死んで分かったことがあるの」
麗羽は、涙を呑んで、乱れた呼吸を整えながら、こう言った。
「――死ぬのは、いつでもできるって。いつでも死ねるんだから、目いっぱい、生きてほしい」
死ぬのは、いつでもできる。
ネガティブな言葉だろうか?
俺はむしろ、よりよく生きるための希望の言葉だと思った。
ツラくなったらいつでも死ねるんだから、全力で、思いっきり楽しんで生きて!と、彼女に言われているような気がした。
「一回死んだら、もう後戻りできない。死んだら、生きることの喜びも、味わうことはできない」
自ら命を投げ出して幽霊となった彼女の言葉は、目の前の大きな岩よりも重かった。
「だから、利亜夢には、出来る限り生きてほしい。生きることはツラいけど、その分、幸せも引き立つから」
麗羽は、広大な青い海を見つめた。
「私は幽霊だから、死んでる。けれど私は、利亜夢の中で生き続ける」
「俺の中で、生きる?」
「私の肉体と魂が死んでも、私との思い出は、利亜夢の心の中で生き続けるでしょ?」
俺に訴えかける麗羽の体は、今なお薄くなり、魂さえも死にゆく運命の途上にあった。
「人の死って、二回あると思うの。一回目の死は、私みたいに、肉体が死ぬとき。――もう一回の死は、この世の人に忘れられたとき」
人の死は二回あると、麗羽は語る。
「利亜夢が私のことを覚えててくれれば、私は利亜夢の心で生き続ける」
そう語る麗羽。
俺の体の中心が温かくなったような気がする。
「私は、利亜夢がシワシワのおじいちゃんになって死ぬまで、あの世で待ってるから。何十年でも、ね」
麗羽は、俺の手をぎゅっと握る。
冷たいな、麗羽の手。
「だから、生きて」
「それで、いいの……?」
「利亜夢が生きていてくれるだけで、私は嬉しいよ!それだけで、私は幸せだから!」
涙を頬に伝わせながら、麗羽は太陽の輝きに劣らぬ笑みを見せた。
俺は、死に走るのをやめて、体を起こし、麗羽と向き合った。
「そうか……わかった。生きて生きて、この世の思い出のお土産をたくさん持って、麗羽のところに行くよ」
「ついでに、ポテチをお供えしておいてね」
「うん、もちろん……麗羽の好きな、うすしお味な!」
ついに俺も涙を抑えきれなくなった。
眼球の裏側に隠していた涙が溢れ出した。
「麗羽、これを持って行ってほしい」
ポケットに入れてあった、とある物を手渡した。
「これって、水族館に行ったときに買ったやつ……」
それは、水族館に行ったときに俺が買った、クラゲのストラップである。
「それを見て、俺のことを思い出して、少しでも寂しさが紛らわせればいいな」
麗羽は、俺が手渡したクラゲのストラップを手にして、また涙をあふれさせた。
「俺は、麗羽の日記と、麗羽の服と、麗羽のペンギンのぬいぐるみを持ってるから、いつでも、麗羽のことを思い出せるよ」
「私の服の匂い、嗅がないでね」
「そんなことしねぇって!」
「別に嗅いでもらってもいいよ。利亜夢、私のこと大好きだもんね」
麗羽とは、こんな下らないことを言い合って笑っていたなと、かつての思い出が蘇った。
そして、改めて麗羽と正面から向き合う。
俺が麗羽の肩に手を添えると、麗羽も、俺の肩に手を添えてくれた。
「私はずっと、ずっと……待ってるよ、利亜夢」
「俺は麗羽のために、思いっきり生きるよ。約束する」
「ん、指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ますっ!」
小指を絡め合って、契りとした。
俺は、できる限り生きることを誓い、麗羽は、俺のために待っていてくれることを約束してくれた。
「……ねぇ、利亜夢」
「なに?」
「最後に、キス、したい」
「もちろん」
甘えん坊な麗羽のために、彼女の体を引き寄せた。
そして、唇を重ねた。
麗羽の唇は、冷たく、湿っぽくて、けれど柔らかい感触だった。
力強い太陽が雲間から覗いて、俺と麗羽の顔の側面をジリジリと焼いた。
「バイバイ、利亜夢」
「その挨拶は寂しいよな……」
「じゃあ、何て言えばいいかな?」
「うーん、そうだな……」
俺は、麗羽が消えてしまう前に思考を巡らせて、一番良い別れの挨拶の言葉を考えた。
「またね、麗羽」
「っ……うん。またね、利亜夢」
麗羽の体は、消失した。
手渡したクラゲのストラップと一緒に。
そのとき、雨が止んだ。
「またね、麗羽……」
俺は最後に、もう一度振り返り、その場を後にした。
二の腕の血は止まったが、スニーカーは砂だらけ。
さざ波の音が耳に心地よかった。
「ん……?」
麗羽に、後ろ髪を撫でられたような気がして、俺は振り返った。
麗羽の姿は、そこには無かった。
「風か……」
俺が歩いた道路は、二の腕から滴り落ちた血で点々と汚れていた。
電車に揺られ、東京の家に帰った。
その間、無意識にずっと、ペンギンのぬいぐるみを抱きしめていた。




