心が折れる音
私は、高校3年生になった。
運悪く、またしても、栄飛《あの人》と、親友の真美とは別のクラスになってしまった。
「しっかり頑張りなさいね。塾に通わせてあげられないのは申し訳ないけど」
母は、勉強している私の部屋を訪れて、そう言った。
普段私のことを叩いたり、兄の輝樹に暴言を吐いたりする母にも、申し訳ないなって思う気持ちがあったんだ……
「気にしないで、母さん」
「結婚か勉強ができないと、人生詰むんだよ」
「うん。わかってるよ」
また言ってる。
それ、もう聞き飽きたよ。
「それじゃ、勉強頑張ってね」
「ん」
母は、私が勉強している姿を確認して、部屋を出て行った。
私は、机にしがみつき、大学入学のための共通テストを乗り越えた。
そして、私は、ついに、第一希望だった大学の合格通知書を手にした。
「よくやったわ、麗羽。これからも頑張りなさいね」
母はそう言って、私の大学合格を喜んでくれた。
母が、久しぶりに笑ってくれた瞬間だった。
私は、母の笑顔が見られて、とてもうれしかった。
春から通う国立大学は、東京の中央市にある……もちろん、私たちが住まう静岡県南伊豆町からは、少々遠い。
なので、実家を発って、東京のマンションに一人暮らしすることになった。
これで、キラキラ大学生生活が始まる……と思っていた。
♦♢♦
「はぁ……憂鬱、面倒、もうヤダ……」
住み慣れない都内のマンションの一室。
私は、たくさんの書類が広げられたテーブルに突っ伏する。
引っ越しの手続きに関する書類、マンションの賃貸借契約、住所変更、大学の書類、通学許可願、学費減免制度の手続きに履修登録……
私は、煩雑な書類や手続きへの対応に忙殺された。
「ゲームやりたい……友達欲しい、友達と遊びたい、カレシ欲しい……」
不満を口にしても、誰も聞いてくれない。
私しか部屋にいないから。
新生活は、不安とプレッシャーに満ちていた。
良い成績でないと、学費の減免が為されないし、母に叱られるかもしれないし、満員電車は慣れなくて気分が落ち込むし、新しい環境の下でのバイトは不安だらけだし、友達はなかなかできないし……
それに、書類に関しては、母は手伝ってくれなかった。
「それぐらい自分でやって」と言って、何一つ手伝ってくれなかったし、生活費は「それぐらい自分で何とかして!」と言われる始末。
「生活費を兄さんの収入に支えられてた母さんには言われたくないけどね!」
学費の一部を出してくれているのはありがたいけれど……
私の心身は、日を追うごとに疲弊していった。
「バイト行く準備しよ」
書類の整理は一旦置いておいて、私は午後のシフトに入るために身支度をした。
♦♢♦
大学のキャンパスは、綺麗だった。
それに加えて、故郷の南伊豆市ではなかなか見られない広大さ。
初めて会う人々、初めて経験する大学での講義、初めての環境……何もかもが初めてだった。
私は、過度に緊張してしまった。
「初めまして。静岡県の南伊豆市から参りました、赤城 麗羽と申します。趣味は……えーと、ゲームです。よろしくお願いいたします」
講義の中で行われた自己紹介も、無難なものになってしまった。
FPSゲームが好きですとか、カレシ募集中ですとか、最近お菓子作りにハマってますとか……言いたいことは多々あったけれど、変に目立って嫌われることが恐くて、言えなかった。
――親しい人が一人もいない大学生生活というのは、気まずかった。
特に気まずかったのは、昼食の時だ。
「……」
広い食堂の中、多くの学生の中に、私【赤城 麗羽】が独りポツンと座っている。
周囲の学生たちは、みな、友人を伴ってガヤガヤと雑談に興じている。
「歴史基礎の授業、マジでオススメ。授業中にスマホいじってても注意されんかったから」
「逆に、言語学史は、絶対やめといたほうがいいよ。課題多すぎるし、授業中にスマホいじると没収されるし、テストもあるから」
「あ、それ先輩が言ってたー。例のクソ教授だって」
「バイトやってる?」
「いや、まだ」
みんな、楽しそうだ。
私だけが、一人寂しく、自分で作ったお弁当を食べていた。
(友達いないって思われるの嫌だな……)
居た堪れず、席を立つ。
そして、食堂から遠く離れた人気のない空き教室に移動して、残りのお弁当を貪る。
(はぁ……大学デビュー失敗したな……)
私のため息だけが、教室に響く。
友達作りに失敗した。
友達がいないと思われるのが嫌でこの教室に来たけれど、やっぱり、一人は寂しい。
でも、すでに学生グループの輪が出来上がっている。
その輪の中にズカズカと入って行けるほど、私はコミュニケーション強者ではない。
お話は好きだけど、得意ではない……私はそういう人間なんだと、最近気が付いた。
「はぁ……大学生活詰んだ……」
人の目を気にして、講義とバイトの二重苦で疲れ果てて、将来の大学生活と就職へのぼんやりとした不安を抱える……ため息が止まらなかった。
思えば、私が新しい環境に馴染めないのは、当然だった。
中高一貫校で、友達は中学時代の共人が多い。
小学生、中学生、高校生と、ずっと地元の南伊豆にいた。
だから、新しい場所、新しい環境に慣れることができなかったのだ。
そんな、田舎者の小娘が大都会に飛び込んで、慣れないことに忙殺されていては、友人を作る気持ちの余裕なんてない。
「真美ちゃんは、何してるのかな……」
中高時代の親友のことを思い出す。
彼女は現在、名古屋の大学に通っている。
彼女のSNSを見てみる。
「……」
絶句。
真美の最新の投稿には『ウチの新しい友達!リオンちゃん!』という文章とともに、2人分の手がピースサインする写真がアップされていた。恐らく、右側の手が真美で、左側の手が、新しい友達とやらのリオンだろう。
……真美は、私よりも大学生活を楽しんでいるようだった。
泣きたくなった。
食べたはずのものがこみ上げてきて、気分が悪くなり、トイレに駆け込んだ。
「私、疲れてるのかな……」
トイレの便器を見つめて、私は一人、そう呟いた。
♦♢♦
何でもない日の、ふとしたことで、人生が変わる――良い意味でも、悪い意味でも。
それは、唐突に訪れた。
きっかけは、バイトでの些細なミスだった。
私は、料理を持ったまま、つまずいて転んでしまったのだ。
日々の疲れからボーっとしてしまった、私が100パーセント悪いミスだった。
冷麺が、お客さんのズボンを濡らしてしまった。
「すみません……すぐに片づけて、拭くものをお持ちします!」
私は、そのお客さんに対して、頭を下げ、平謝り。
「こんなしょうもないミスする君には働く資格がないね。バカ女が」
客は静かに、こんなことを私に言った。
こういうクレームがキツイ、カスハラまがいの言動をするお客さんというのは、ごく稀に現れる。
そのとき、体の内側で、何かが折れる音がした。
腕が折れたわけでも、歯が折れたわけでも、骨が折れたわけでもない……
――その音は、心が折れた音だった。
「……」
普段、クレームを言われても、受け流すことができるのに……
そのときだけは、耐えきれず、心がポッキリと折れてしまった。
私の気分は、急速に落ち込んだ。
このクレーム対応には、店長が出てきてくれた。
「本当に申し訳ありません。この店の代表として、改めて深くお詫び申し上げます」
店長が、わざわざ私のために出てきて、頭を下げた。
相当に忙しいだろうに……
私は、さらに、店長に対して申し訳ないという気持ちになった。
店長が出てきてくれたこともあって、私は事なきを得た。
私が迷惑をかけてしまったお客さんは、私への文句を垂れながら、店を後にした。
「気を付けてね」
「はい……」
店長は短く言って、慌ただしく持ち場に戻っていった。
私は、何も考えることができず、プログラム通りにしか動かない機械のようにバイト業務をこなした。
――私はその日から、バイトを無断で休むようになった。
もう、何もする気になれず、何もできる気がしなかった。




