無情の神に愛されて
体育祭のリレー競技や、その後の打ち上げ、授業中のグループワークなど、栄飛と関わる機会は多々あった。
けれど、私は一歩を踏み出せなかった。
栄飛と、さらに仲良くなりたいという気持ちは十分にある。
でも、グイグイ距離を詰めて、栄飛に嫌われたくないという気持ちも強かった。
それに、クラスメイトに、栄飛と付き合っていると噂されたくない気持ちもあって、私は積極的な行動を起こすことができなかった。
「一緒に遊ぼう」そのたった一言が、喉に詰まって出てこなかった。
「麗羽、ちゃんと勉強してるの!?」
部屋のドアの向こう側から、怒号に近しい母の声が響く。
「うん。今ね、歴史の単語の暗記やってるよ」
「赤点なんか取った日には、家を追い出すからね!」
「ん、大丈夫。頑張るよ」
「バイトも勉強も、バランス良く、全力でやりなさいね」
「はーい」
私が返事をすると、母は、部屋の前から離れていった。
その後すぐに、兄の輝樹と母が言い争う声が聞こえてきた。
「輝樹、あんたはもっと家にお金を入れなさい!」
「予想よりも出費が嵩んでさ、社会保険料とか、税金とか、食費とか、光熱費の分とか……」
「じゃあ、友達との飲み会とか、ゲームの課金をやめなさいよ。それだけで、一万円ぐらいは浮くでしょう!?」
「無茶言うなよ。俺の人生の唯一の楽しみなんだよ、飲み会とゲームは」
「家と自分、どっちが大事なの!?」
兄の輝樹は、高卒で働いている。
私や母のために、働いて得た給料の多くを家に入れてくれている。
そんな家族思いな兄に、これ以上の負担を強いるのは酷だなと、私は思う。
「働いて家に金入れてるんだから、文句言うなや、クソばばあ」
輝樹は真面目で、普段は言葉遣いの丁寧な兄だけれど、怒ると言葉遣いが荒くなる。
母のことを「クソばばあ」呼ばわりである。
「家にお金を入れるのは当然のことでしょ!というか……母親をクソばばあだなんて呼ぶんじゃないよ!あんたを産んだのが間違いだったわ!」
パシっという、乾いた音が聞こえてきた。
たぶん、母が兄のことを叩いたのだろう。
その少し後に「なんだこのやろう!」という兄 輝樹の怒号が響く。
ドンっという鈍い音も響いた。
おそらく、兄が本か椅子か何かを投げ飛ばした音だと思う。
兄の部屋の壁には穴が開いていたり、壁紙が傷ついていたりするから、たぶん、それだ。
「はぁ……うるさい」
私は枕に顔を埋めて、耳を塞いだ。
けれど、壁が薄いので、母や兄の怒号は、聞きたくないのに聞こえてきてしまう。
「父さんのこととか、仕事のストレスをぼくたちに振り撒くなよ!迷惑なんだよ!!」
「迷惑なのはこっちよ!出ていけ!あんたなんか、わたしの息子じゃない!」
わたしの息子じゃない……
家にたくさんお金を入れてもらっている実の息子に、そんなことを言える立場じゃないんじゃない?と、私は正論を突きつけたかった。
けれど、そんなことを母の眼前で言った日には、ボコボコにされるだろう。
だから、口は縫って塞いでおく。
暴言を吐かれようが、テストの赤点を取って頭を叩かれようが、母は、この家を支える柱なのだ。
だから、我慢、我慢……
「ぼくが出ていったら、困るのは母さんと麗羽だろうが!」
「っ……」
母が涙を呑んで、洟をすする音がする。
「泣いたって何も解決しないだろ。ふざけんな。泣きたいのはこっちだよ。ぼくだって麗羽だって、必死で生きてるんだよ!」
私は耐え切れず、ヘッドホンを装着。
大好きな曲に耳を傾けながら、歴史の科目の復習をする。
兄と母が言い争う声を聞かないようにした。
そうしないと、こっちまで鬱っぽくなって、気持ちが落ち込んでしまうから。
――勇気を振り絞って 一歩を踏み出して 母なる海が わたしを優しく包み込む 体ぜんぶが 海の青で満たされて 忘れたい過去を洗い流した
歌手が歌っている。
その歌詞が、心に染みた。
「ああ……」
ノートの上に、私の目からこぼれ落ちた涙の灰色の跡が残った。
そして、時は過ぎ去り……
私は、高校二年生になった。
私は、気になり続けた栄飛と、ズッ友の真美と別々のクラスになってしまった。




