制服女子を観る
片田舎の商店街のアーケード下、色あせた貼り紙がやたらめったらに貼られた腰痛のおっさんの背中みたいなウインドウに身を映しながら、颯爽とした様子で制服女子が通る。
某食品メーカー勤務、営業職、30代前半、独身の私は、道の向こうからやって来る制服女子の姿を車のフロントガラス越しに眺めるのだった。
車が制服女子に近づくにつれ、曖昧だったディテールが縁取られて行く。私は前方の車に注意を払いながら、横目で制服女子の姿を追う。
車と制服女子がすれ違う瞬間、それこそ私と制服女子が最も接近するその貴重な瞬間、示し合わせたかのように登場した電信柱が、制服女子の姿を遮った。
街角の皆既日食だ。輝く太陽が無遠慮な月で覆い隠される。
私はほんの少しだけ、眉根を寄せる。
制服女子について詳しく述べることは、私自身の社会的な立場を著しく崩壊させる危険性がある。しかしそんなリスクを孕んでいるにも関わらず、私は何故か制服女子に心惹かれてしまうのである。
これは最早、理屈ではないのかもしれない。
優れた芸術作品は、生まれ育った土地や刻み込まれた価値観に関わらず、観る者の心の中に潜む共通の何かへと働きかける。それと同じことが、この片田舎の古ぼけた商店街で今まさに起こっているのだ。
ある夜の酒の席で、45歳既婚の課長が若かりし頃の武勇伝として、制服女子とのアレコレ物語を自慢げに語っていた事を思い出す。
「すげーっすねー、さすが課長ですわー、うらやましー」といった当たり障りない賛辞と羨望の言葉を述べつつも、心の中では何か釈然としないものを感じていた。
私が感じているこの胸騒ぎは、果たして課長が自慢気に話しているアレコレに対する欲望と同じものなのか? 制服女子を前にして沸き起こるこの感情は、所詮は種の保存欲求に帰結するものなのか?
私の心は机を拳で叩きながら「否」叫ぶ。
では、なんだというのか。
心が握りつぶされ、酸っぱい果汁が滲み出すようなこの感情は、一体なんだというのか。
その正体を探るため、私は様々なシチュエーションを想定し、自らの欲求がどこに向かうかのシミュレーションを試みる。
例えば夕日が差し込む教室、学祭の準備を任された私と制服女子は、2人で何か工作をしているとしよう。その時私は、目の前の魅力的な制服女子に対しても何を求めるのか。
アレコレ、ではない。
接吻、でもない。
ハグ、でもない。
手を繋ぐ、でもない。
見てるだけ、ふむ、それだけで十分な気がする。
そこで私は気づいてしまった。
このシミュレーションはあくまでも齢30に届いてしまった私の内面を想定しているのだ。某探偵漫画よろしく見た目は若者、頭脳はオヤジといった状態に他ならない。では心も制服女子と同じ年になったものと想定して再度シミュレーションするとしよう。
アレコレ、したい。
接吻、したい。
ハグ、もちろんしたい。
手を繋ぐ、じゃ物足りない。
見てるだけ、なんてなんとも思わない。
私は愕然とする。
それでは何か? 私のこの感情は自分の年齢や立場によって左右されるものだというのか? 法の縛りによって押し止められているだけの、ただの種の保存欲求にだというのか?
違う。
私は法の首輪に繋がれて、涎を垂らしながらもお預けを食らっている状態などでは決してない。しかし法ではないとすれば、一体何が私の感情を変化させているのか。
制服女子に向かう感情を律しているのは、私自身の中に息づく別の存在に他ならない。それは良心であり、道徳心であり、突き詰めれば神と呼ばれる存在だ。
つまりこれは、事象の神格化が引き起こす一種の偶像崇拝なのだろう。
若さという神が与えた唯一不可逆的な価値観に対し、それを失いつつある者が感じる眩しさ、力強さ、生命の律動と、それらに対する畏敬の念が私を内面から縛り付けているのだ。
制服女子は、私自身の心に従い、今となってはおいそれと手を伸ばしていいものではない。
そこで、ネットで読んだある言葉を思い出す。
「制服時代に制服女子と蜜月関係を結ぶ事がなかった者は、その後どんなの成功を収めようとも、その一点においいては一生の負け組なのだ」
そうなのだ。
私は自らが神の後光を浴びる天使だった頃、天使同士の戯れに興じる事が出来なかった。そして天使ではなくなった今となっては、天使はただの遠い存在なのである。光に包まれ、私のような醜き存在に見向きもせず、ただ天使同士の戯れに勤しむ輝かしい存在なのである。
それはもはや取り返せない。
やり直す事など出来ない。
私は悔やんだ。
何もせず机に突っ伏して、時に男同士ゲームや漫画やエロの話で盛り上がっていたあの頃の自分を。
悔やみ、しかし悔やんでも変える事が出来ない現状を目の当たりにして、私の心は次第に吹雪の後の雪原のような静けさに包まれていった。
制服女子とは、数々の雪の結晶の集合体であり、時が経てば触れられないものへと姿を変えてしまう、この雪原に近しい。
そして、私は唐突に理解した。
私にとって制服女子とは、人間を超越した若さと女性性のイデア的な存在なのだと。
個人として存在するのではなく、総体として一つの完全なる制服女子へと統合されるものであり、街角で見かける彼女達は切り出されたほんの一部の花弁に過ぎないのだと。
制服女子のとは、数多の制服女子個人が集合し形作られた、紫陽花のようなものなのだと。
だから、私にとって制服女子の花弁を細部まで凝視する事は、その価値を貶めることにつながる。
彼女達は総体としての見て、初めて本当の価値を発揮するのだ。
誤解のないように言っておく。
これはあくまでも私の個人的価値観を根底にした考察の結果、到達した結論に過ぎない。
異論は認める。
また制服女子が道の向こうからやってくる。
しかしすれ違う時、私はあえて彼女の顔から目を逸らした。
彼女の顔を知り匿名が崩壊してしまったら、その瞬間私の焦点は、制服女子という総体から少女自身へと移行してしまうからだ。
多分それが、制服女子を制服女子として保管する、最良の方法なのではないか。
世の中には制服女子の後光に当てられ、細部を覗き見ようとして、彼女達を傷付けてしまう輩が多い。なんと嘆かわしい事だろう。
彼らが覗き込んだ先に存在するのは、あくまでもその少女個人でしかない。法と、自らの心を犯してまで恋い焦がれた制服女子はその瞬間脆くも水泡に帰す事を理解してほしい。
制服女子は、眩しくて目を逸らしてしまう太陽のまま、古ぼけた田舎の商店街を照らしてくれればそれでいいのである。
確か会田誠の「青春と変態」を読んだ後に、変態的な何かについてもっともらしく言及したくて書いた短編だった気がする。