ミイラ取り
彼女のよからぬ噂を聞いたのは部活の休憩時間だった。
野球部の僕は暑い中を何時間も走らされ、ふらふらで水飲み場にたどり着いた。蛇口をひねり喉を鳴らして水を飲んでいると、女子の声が聞こえてきた。
「それってやばくない? 本当なの?」
「だって先輩から聞いたんだもん……」
なにやら漂う不穏な気配に僕の野次馬根性は刺激された。水を飲み、顔を洗い、タオルで顔を拭きながら聞き耳を立てた。どうやらここの生徒の誰かが使ってはいけないお薬を使っているらしい。くだらないゴシップではあるが、聞いていて面白くはあった。この子たちも誰かに会話を聞かれているとはつゆほども思わないだろう、と僕はほくそ笑んだ。
「でも本当かな。三組のシオリって地味じゃん。薬を使うような子には見えないけど」
「本当だって。なんか危ない先輩の家に入り浸ってるんだって。そう言ってたもん」
うるさいくらい蝉のなく真夏の午後だというのに、僕の背筋にすぅーと冷たいものが走った。
僕とシオリが付き合い始めたのは三か月前だった。学年が上がり同じクラスになった僕等は、たまたま隣の席になりメール交換をした。やり取りをするうちにどちらともなく付き合う流れになった。
折しもテレビではオーバードーズが話題になっていた。向精神薬の過剰摂取により倒れる人間が続出しているのだという。
「どうしたの? 今日は変じゃない」
向かいに座るシオリがいった。僕らはデート中でファストフード店にいた。
「変じゃないよ」
と僕はごまかすようにポテトをかじった。実際に僕は動揺していたのだと思う。この前聞いてしまった陰口に。
「ふぅーん。そうかなぁ。まっ、いいか。でも、私に隠しごとなんてしないでね」
それはこちらの台詞であったが、そんなことは言い出せなかった。
僕には薬の知識などまるで無く、興味もなかったが、まさかこの色白でぽっちゃりとした子がそんなものを使っているとは信じたくなかった。まして違法薬物なんて……
シオリの様子が変わり始めたのはそれから間もなくだった。少しづつ身なりは派手になっていった。
気がつくと廊下で担任ともめているシオリの姿があった。後にピアスを開けたとかで先生とやりあったということを人づてに聞いた。
その頃になると僕等の関係は完全に冷えこんでいて、付き合っているのかいないのか分からない状態だった。そのまま自然消滅でもよかったのに、僕は何を思ったのか男気を見見せるつもりで勘違いをしてしまった。
今ではシオリは学校にほとんど顔も見せない。秋も深まり、街路樹が色づくころ、僕は乾いた風に吹かれてシオリの家を訪ねた。
久々に会ったシオリのお母さんと一言二言言葉を交わし、シオリの部屋に案内された。お母さんの目の下には隈ができ、一目で疲れていると見てとれた。
お母さんと別れると、僕はシオリの部屋のドアをノックした。しばらくして出てきたシオリの姿に僕は息をのんだ。明るく染めた髪の下の顔はゲッソリと瘦せていた。肌もカサカサで、これがあのシオリだとは思えなかった。
シオリは力の無い目で僕を見て、「何よ」と短く言った。
ここで気圧されてはいけない、僕は彼女を押して無理やり部屋に入るとドアを閉めた。
部屋は散らかっていた。あれほど几帳面だった彼女だとは思えない光景だった。服や飲み残しのペットボトルが散乱し、テーブルの上には得体のしれない錠剤が散らばっていた。
僕の視線に気づくとシオリは慌てて錠剤を片づけた。僕はそれに何も言わず窓までいき、カーテンを引くと窓を開けた。部屋には何とも言えぬ科学的な臭いが充満し、このままでは気分が悪くなりそうだったからだ。
「何しに来たのよ」
シオリは言った。
「しーちゃんが学校に来ないから」
しーちゃん、と呼びなれた名で言ったものの、自分でも分かるよそよそしさがあった。シオリは当然それを聞き逃さなかったようで、ふっと鼻で笑ってベッドに腰を下ろした。
「心配してくれたんだね。有難う。だけど私は大丈夫だからもう気にしないで」
僕はここで彼女に飛び掛かってでも道理を説くべきだったのかもしれない。青臭い理想論でも語るべきだったのかもしれない。
だけど僕はそれほど頭が回らず、直情的になってしまった。
現代のアヘン窟である危ない先輩のもとに突進してしまった。これが失敗であった。
勢い勇んで行ったものの、そこに待ち受けていたのは見るからにおっかない奴らだった。
言葉を失った僕は勧められるままに煙草のようなものを吸わされ、そのまま酩酊した。今まで味わったことない気分だった。何もかもがこの揺れる煙と一緒になって立ち上っていく気がした。端的にいえば、色んなものがどうでもよくなった。
しかしそれも序の口で、次に飲まされた錠剤にはさらなる開放感があった。野球の試合に勝ってもこんなものは味わったことはない。
あらゆるものが目の前から消し飛んだ。僕の脳内で革命が起こった。
大麻。感覚は鋭敏化する。喜びはさらに増進し、悲しみは邁進する。喜びは愉悦となり、不安はパニックとなる。この薬物の難しいところは個人差が激しいところだ。食欲増進の効果あり。大麻煙草を半分まで吸って「ああ怖い!」と飛び出してしまったものもいる。
幻覚剤。LSDを中心に若者に人気の薬物。一時の陶酔感をもたらす。バッドに入ったら最悪。
ベヨーテ、もしくはメスカリン。刺激剤。瞳孔を拡大させ、吐き気を催す。南米の儀式に重宝されている秘薬。
バルツビール。長期摂取により中毒を起こす。モルヒネよりも危険であり、癲癇やけいれんを起こす危険性あり。中毒者は暴れまわり怪我をする。
レゼペルピン、トロセロール、ベンゼドリン、コーチゾン、ソラジン、フェンタニル、etc、etc……
それらの違いを僕にはよく分からなかった。分からなかったが、それらを接種するたびに僕の頭には火花が散った。
それは今まで経験したことのない体験だった。猛烈な陶酔感が僕を襲い、そのままひっくり返って泡を吹いた。隣で知らない男の股間をまさぐるシオリの姿なんて頭の片隅にも入らなかった。
ふと、僕は我に返った。右腕を見たら血だらけだった。
僕は頭を抱えて唸り声をあげた。しかし周りは誰も気にしなかった。そんなものはありふれた景色だったからだ。
僕は急に立ち上がると靴も履かずにアパートを飛び出した。
あらゆるものが鬱陶しかった。目に映るすべてのものを襲いたかった。歪む景色の中を駆けるだけ駆けると、そのまま息を切らして膝から崩れ落ちた。顔を上げると空は晴れていた。抜けるような青さにそのまま吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われた。
激しい恐怖に息苦しいほど胸が高鳴った。次の瞬間、言葉にならない叫びをあげた。