一枝の桜の理由
3530文字です。
「中宮、禧子さまのおなりでございます」
侍従の言葉に、肘掛けに肘をつき、物思いに耽っていた後醍醐天皇は頭を上げる。
「……通せ」
「は」
「……」
《通せ》とは言ったものの、これはどうしたものかと、帝は頭を抱えた。
「はぁ……」
後醍醐天皇は、今回何度目かの溜め息をつく。
──《今度ばかりは、御容赦なりませぬぞ!》
あの時近くにいた万里小路宣房に、そう釘を刺された。
「……」
確かに、分かってはいる。
分かってはいるが、如何ともし難い。
いくら愛しい寵姫と言えども、ワガママし放題、自由奔放、政治に口を出す……とくれば、傍に控える臣下が黙っているわけがない。
禧子の行動は、実家の身分が高いからと言っても、さすがに許されるものではなかった。ここはガツン! と言わねば! と帝は決心する。
が、既に心は折れそうになっている。嫌われたらどうしよう……と、情けないことを思う。
(いやいや……今日こそは、心を鬼にして言うのだ……!)
今日こそは! 今日こそは! と思いながら、結局言えずじまいになっている。けれどもうダメだ。このままいくと、最愛の妻は某大国と同様、《傾国の姫》として後世に名が残るかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。
キッと前を見据え後醍醐天皇は、衣音をさせながら向こうからやって来る自分の妻を待った。
胸の鼓動が、ドキドキとうるさい。
それは、自分の后会いたさなのか、苦言を伝えなければならない重圧からなのか、正直分からなかった。
「失礼致します」
透き通った鈴の音のような、可愛らしい声が響く。禧子だ。
思わず見惚れる。
「……」
そんな後醍醐帝を尻目に、禧子は優雅にお辞儀をすると、二人の女官を連れて帝の前へと出た。
「お呼びと聞き、馳せ参じましてございます」
深々と頭を下げる。
禧子が動くと共に、香の良い香りが、辺りに立ち込めた。
その優雅なこと、煌びやかなことと言ったら、近くに侍る侍従たちからは思わず溜め息が漏れるほどで、その状況に帝は少しムッとする。
誰も手出しができない帝の妻になったと言うのに、未だ不安でならない。いつの日にか誰かに禧子を奪われるのでは……と、いつも密かに危惧していた。
それもそのはず、禧子はその才能もさる事ながら、都一の美貌を誇っている。
高い地位と美貌、それから優れた和歌の才能は、日本広しと言えども右に出る者はいない。
だからこそ後醍醐天皇は、まだ何も分からない時分の禧子を自分の宮に連れ込んだ。
全てに恵まれた禧子が、中継ぎの帝でしかない自分のところへやって来てくれるとは、到底思えなかったからだ。
その思いは、今も変わらない。
確かに、この国の最高位である帝になりはしたが、いつ禧子に嫌われるとも知れない、危うい地位の自分が恨めしい。
「……」
当然、今しがた決心した事が、脆くも朽ち果てる。
(苦言など言えば、心が離れていくかも知れない)
後醍醐天皇は頭を抱えた。
艶やかに着飾った目の前の禧子は、今年二十四になる。
出会った頃は、まだ右も左も分からない十六の娘だったのに、今や堂々たる女性へと変貌を遂げている。
自信と余裕に満ち溢れ、高貴な色香を当たり前のようにその身にまとい、道行く者の視線を欲しいままにする禧子は、帝にとって未だ恋焦がれる存在だ。
柄にもなく十六の少女相手に芽生えた恋心は、薄れるどころか年を重ねる事に強くなっていき、自分でももう、どうする事も出来ない。
それ故さすがの帝も、この禧子を戒しめる言葉を伝える事が今の今まで、出来なかったのである。
「……ぐ。」
帝は唸る。
しかも今日は禧子だけではない。
禧子は二人の女官をつき従えていた。
そしてその女官もまた、禧子同様、ただの女官ではない。
禧子が選びに選び抜いた女官で、一人は名を二条藤子と言った。
藤子は、後醍醐天皇がまだ親王だった頃の、今は亡き正妃、二条為子の姪にあたる。
関白二条 道平に仕えていたが、禧子のたっての願いで中宮宣旨(女房筆頭)となる。
後醍醐帝としては、亡き正妃の面影がうかがわれ、正直、目のやり場に困る。
「……」
もう一人は阿野廉子。
中宮内侍(宮中の礼式の雑務などを統括)の職につく彼女は、三人の中で一番年若い。その無邪気さは宮中の男たちの心を掴み、彼女に届く文の数はすでに《万》を超えているとのもっぱらの噂だ。
共に家柄、知性、その容姿、どれをとっても非の打ち所がない。その上、中宮である禧子に忠実で、骨の髄まで心酔しきっている。
後醍醐帝と言えども、滅多な事は言えない状況だ。
「……」
帝は思わず顔を背ける。
(困った。どう諌めればよいのか……)
気づかれないように、そっと小さく溜め息をつく。
しかし、悩んでばかりはいられない。
思い悩んで、帝は一句読んだ。
──「九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ」
(宮中に咲く左近桜を、秋の宮人(皇后に仕える人)が、どうして折ったのだろうか)
「……」
それを聞いて、禧子は一瞬目を丸くし、すぐにホホと笑う。
そして返しの歌を詠んだ。
──「たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき」
(手折らせたのは、秋の宮(皇后)の私が、宮中の春の桜のように愛しいあなたに、どうしても逢いたかったから)
可愛らしく首を傾げて微笑まれては、帝も何も言えなくなってしまう。
「……」
しかし、ずっと黙っている訳にもいかない。
帝は再び『はぁ……』と溜め息をつくと、禧子に向き直った。
「禧子。分かっているだろう? あの桜を手折るは大罪なのだ。そのような返歌では騙されはせぬぞ?」
心を鬼にして、ギッと禧子を睨む。
けれど禧子は微笑んだ。
「いいえ、主上(天皇のこと)。それは違います」
「……『違う』?」
帝は眉を寄せる。
そんな事はない。左近の桜を手折るのは大罪だと、誰もが知っているはずだ。それなのに禧子は否定する。
「……主上もご存知でありましょう? あの桜は以前にも手折られた事がございます」
禧子は言う。
「……あぁ、そうであったな」
帝は頷いた。
百年ほど昔の話になるが、歌人として名高い藤原定家が、この左近の桜を侍従に命じ、切って持ち帰らせた。
それを見ていた官人が、当時の天皇土御門天皇へ報告し、天皇は建春門院伯耆に代歌させ、歌を詠んでいる。
「『なき名ぞと のちにとがむな 八重桜 うつさむ宿は かくれしもせじ』(後から無実だと主張するなよ。左近桜を移した家を隠すことはできないだろう)』
この歌は、帝の桜を手折り、我が家へと移したことを責めているのです。けれど私は、自分が桜の花欲しさに手折らせた訳ではありません……」
言って後ろに控える藤子に目配せした。
藤子はそれに気づくと、三方に置かれた桜の一枝を捧げ持ち、帝の前へと進んだ。
禧子は口を開く。
「これなるは、私が育てた蚕で糸を紡ぎ布にし、その布をこれなる藤子が縫い、それを廉子が結った飾り紐で縛ったものにございます」
そっと帝の前に置かれたその三方の上には、禧子が言った通り、美しい布に巻かれ、金糸で結えられた美しい桜の枝が一本置かれていた。
「これは雅な……」
思わず感嘆の声を上げてしまい、慌てて口を塞ぐ。
(いやいや、騙されてはならぬ。禧子は、何かを企んでいる……)
けれど禧子は、それを見逃さない。
ニヤリ……と笑うと、帝を見た。
「《桜》はなにも、外のみ、見て愛でるものではありません。このように手折れば、御前のお傍近くに侍らせることも出来ますもの……」
その言葉に、帝が眉を寄せる。
「……禧子。何を企んでいる?」
「企み……?」
禧子はホホと笑う。
「企み……ではございませんわ。《お願い》にございます」
スっと黒水晶のような、その目を細めた。
《むしろ企みを抱いているのは、主上でありましょう?》と禧子は笑う。
「……」
帝は痛いところをつかれ、何も言えない。
実際後醍醐天皇は、密かに間者を立て、辺りを探っている。それを先刻、宣房に指摘されたばかりだ。見つかれば帝と言えども、ただではおかれますまい……と。
宣房は、何を探っているのかと問い詰めただけだったが、実際は探っているだけではない。自分に味方してくれる者を探している。
けれどそのような事は、口が裂けても言えなかった。
(禧子に言うてはおらぬが、……聡いというのも考えものだ……)
帝は眉を寄せる。
「……」
禧子は、そんな帝を見て、笑みを消す。
主上……と、小さく呼んで、禧子は深く息を吸い、思い切ったように切り出した。
「お察しの通りでございます。是非この二人を、主上の側妻として、お迎えくださいませ……」
深々と頭を下げた。
「……」
いきなりの事で、帝は目を丸くする。
禧子が人の為に頭を下げたのを、初めて見た。ましてや側妻? 帝は我が耳を疑う。
藤子は眉を寄せ、廉子は軽く息を呑む。
桜降る春。
この日、何かが変わろうとしていた。
× × × つづく× × ×
後醍醐天皇には30以上の女性関係と、32人の子どもがいます。
けれどその殆どは、流罪になってから……だと思うんですよね。多分。そうだったらいいなw
とにかく、後醍醐天皇は、この7~8歳年下の西園寺禧子を溺愛していましたが、子宝には恵まれていません。
多くの皇子を産んだのは別の人で、この話のように、『禧子が勧めた』のかは分かりません。私が勝手に想像してます。
ついでに、左近の桜の逸話を織り交ぜて、こじつけました。
実際、どうなんでしょうね?
普通側女にするなら、後醍醐天皇がわの女官のはずなんですけれど、何故か中宮禧子の女官だったらしいので、いいように話をまとめちゃいました。
ついでに余談ですが、禧子の前に左近の桜を手折った藤原定家は、禧子の女官、藤子の祖先にあたります。
ちょっと陰謀めいたものを感じますね。
(お前だけだ!w)
なにはともあれ、藤子の家は、和歌に優れた家でもあったようです。




