ワンルーム
私がそのことに気が付いたのは、ちょうど今朝くらいのことだった。
そのとき私は薄暗い部屋の中でコンロの前に立って、ゼリー状に固まってしまった赤茶色の物体の入った鍋に火をかけているところだった。
固体となったビーフシチューは見事なまでに水分を失ってしまっていて、私はそれをお玉の底で何回もつつきながら、ぼうっと何かについて考えていた。
その何かとは、今日の夕飯のことであったり、そのための買い出しであったり、トイレットペーパーの残りがあと何ロールだったかを忘れていたことだったり、冬物のシャツが欲しいなあと思っていたことだったり、来週提出の課題のことだったりした。
だから私は、ただでさえ寝起きで活動していない脳のリソースの半分以上を無為に費やしながら、無心で鍋をかき混ぜていたのだ。
それはかなり単純な作業だったから、寝起きの私でも特に問題なくこなすことができた。なんなら慣れない鼻歌なんかを唄ってみたので、傍から見れば機嫌がいいように見えたかもしれない。
いくら形を崩しても一向に元の姿に戻ろうとしないそれに段々と痺れを切らした私は、シンクの蛇口を捻ろうとして一瞬だけその手を止める。
伸ばしたその手は迷ったように宙を何度か前後しながら、最後まで蛇口を捻ることなく空を切った。私はその手の人差し指だけを伸ばして頬を掻いた。鍋の中に水道水を足そうとした私は少しだけ悩んで、結局は鍋をコンロへと戻す。
ふう、と小さく息を吐いて部屋を振り返ると、革張りの、大きな背もたれのついた椅子を見る。正確には、その椅子の、ややこちら側に倒れこんだ背もたれの向こう側にいる人物を、私は見ようとする。
覗き込んで見るまでもなく、彼女はそこで寝ている。背もたれに背を預けず、片方のひじ掛けに頭を、もう片方のひじ掛けに足を引っかけるような不安定な体制で、冗談のようにぐっすり寝ている。すう、という小さく規則的な呼吸すら、耳を澄ませば聞こえてきそうなほどに。
今この部屋に流れる音楽は、コンロから発せられるノイズと換気扇のファンの音、鍋から立ち上るこぽこぽという音を除けば、私の下手くそな鼻歌と、消えそうな彼女の寝息だけだ。それも私の耳に届くまでには消えてしまう。
私は彼女が、綾崎恋歌が椅子で寝ていることを確認して、もう一度小さく息を吐いた。
椅子からだらりと垂れた、筋肉質に細く伸びた足。
それがぴくりとも動かないことを確認して、私はそれ以上彼女を見るのをやめた。
冷蔵庫のドアを開け、中から1.8リットルのミネラルウォーターを取り出す。ピンクのラベルのついた、丸いボトルの水。この水が硬水なのか軟水なのか私は知らないし、その違いが分かるほど自分が繊細だとは思えなかった。
ボトルのキャップを開けて、だいぶ減っている中身を鍋の中へと注ぐ。こぽこぽと音を鳴らしながら、水がシチューに弾かれていく。どれくらい入れるのが正解かわからないので、すべてが目分量だ。味が薄くなったら、何かを足せばいいだけの話。
鍋の半分の半分くらいまで水を注いだ後、ボトルに口をつける。喉が潤う清涼感で、いくらか思考がクリアに晴れていくのを感じる。それでも水道水との違いは、私にはわからない。
果たして綾崎にその違いがわかるのかどうかも、私にはわからない。綾崎は間違いなく、私よりは良くも悪くも繊細なので、水そのものの違いはわかると思う。ただ、希釈したビーフシチューに入っている水が、水道水か、それともミネラルウォーターかどうか、その違いがわかるとは私には思えなかった。
それでも綾崎はそういうこと、つまりは水道水で料理を作ったりなんかした日には、苦虫を噛み潰したような顔で「本当に最悪だよ」なんてことを平気で言い放つだろうことが容易に想像できたので、私は一応ミネラルウォーターを使う。
綾崎のそれは、単に潔癖に近いものがあるのかもしれなかったけれど、そのことに関して直接、私から綾崎に訊いたりしてみたことはなかった。
だから私は、ちょっとだけ綾崎に気を遣って、鍋をかき混ぜる。シチューは徐々にどろどろした液体になって、ぼこ、という気泡が潰れる音を立て始めた。その様子はなんとなく、魔女という言葉を連想させる。
鍋がふつふつと音を立てるようになって、その香りが上り始めたとき。私はお玉を置いて、再び部屋を振り返る。
椅子にゆっくりと近づくと、すう、という呼吸音の方が、ノイズよりも徐々に大きくなる。そこで私は、ひじ掛けの上に、ちょこん、と乗った頭を見つけた。
頭は左向きに倒れていて、彼女の白い首がむき出しで外気に晒されている。カーテンから漏れた光がその肌を嫌に艶かしく照らしていて、私は思わずつばきを呑んだ。
「おい、綾崎。朝だぞ」
彼女はううん、と不快そうに身をよじった後、「知ってる」と小さく呟いた。
「不味そうな匂いがする」
「不味いビーフシチューだろうが、食わないよりは食った方がいいぞ」
そんな朝のあいさつの後、彼女は椅子から立たずに「ん」とだけ呟いて右手を上に伸ばした。それは、水をくれ、という彼女のサインだ。
だから私は、はい。と持っていたボトルを渡す。渡すのは、ピンク色のラベルのボトル。
右手でボトルを受け取った綾崎は、そのまま体勢を変えることなくキャップを開けて口をつける。ごくり、と二回だけ喉が上下して、着ていたシャツの袖で口を拭った。首がぐるんと向きを変え、その二つの瞳が私を向いた。
「最悪。翠ちゃん、口付けて飲んだでしょ」
あ、と私は思い出したように口を開いた。思い出したように、も何も。私は本当に忘れていたのだが。
それと同時に、そんなことがわかるのか、という疑問が脳裏に浮かぶ。
「ごめん、普通に忘れてた。というか、そんなことわかるもんなのか?」
綾崎は見るからに不機嫌そうな顔で眉を顰めて、右手で手にした空のボトルを振った。
「私からしたらむしろ、何でわからないのか不思議なくらいだけどね。翠ちゃんが口をつけて飲んだら、翠ちゃんの味がするでしょ」
私の味ってなんだよ、という疑問を飲み込んで、私は息を吐いた。「すまん」と一言謝ると、綾崎からボトルを受け取って、そのままラベルを剥がす。キッチンの方を振り返り、ラベルを燃えないゴミへ、ボトルをペットボトルのゴミ箱へと放った。
「今日は大学行けそうか? 体調とか、悪いところとかないか」
私はお玉で鍋の底をすくう。あらかじめ用意していたお椀に、ビーフシチューを注いでいく。
「翠ちゃんは私のお母さん? ……体調は、別に普通だよ」
「そうか、それならよかった」
綾崎の言葉に頷くと、私は再びお椀にシチューを注ぐ。お玉を鍋の中に沈めたあと、食器立てから2本のスプーンをを取って、綾崎の寝る椅子へと向かった。
向かう、と言っても一歩二歩だ。綾崎に向かい合うように床に腰を下ろして、お椀の片方を彼女に渡す。
「ほら。不味かろうが、食べないよりはマシだぞ」
綾崎はお椀を片手で受け取ると、もう片方の手でスプーンを握った。そのまま手にしたスプーンで、シチューをゆっくりとかき混ぜる。
「別に、匂いが不味そうってだけで、不味いとは言ってないよ」
それと、床に座るのやめたら。
そう言って、彼女はふいっとそっぽを向いた。
+ + +
血のにおいがした。
私は手にしたスプーンで、器の中身を口へと運ぶ。やや水っぽいそのビーフシチューを見て、食べる前からだいたいの味の予想はついてしまっていた。
翠のことだから、きっと何も考えずに水を足して加熱したんだろうな、と思った。そしてその予想は恐らく当たっている。翠の作る料理には2パターンあって、味が濃いか、薄いかだ。
口に入ったビーフシチューはやたらとさらさらしていて、私は自分の予想が間違ってなかったことを知った。シチューと言うよりは、スープと表現した方が適切な料理かもしれない。
ただ私はそんなことは気にせず、二口目を口に運ぶ。どうせ何を食べても一緒なのだ。私には味なんてそもそもよくわからないし、匂いだってわからない。
さっき翠から体調について訊かれた時、私は嘘を吐いた。
翠には言ったことがないけれど(というより、誰にも言ったことなんてないけれど)私は物心がついてからこのかたずっと、体調が良かったことなんてなかった。
私の頭が痛くない日はなかったし、鼻はずっと、頭の奥から流れてくる血のようなにおいで覆われていた。だからかは知らないけれど、味だってよくわからないままに生きてきた。医者に行っても「異常なし」「ストレス」「精神的なもの」としか言われたことがなかったので、そういうものだと思って今まで過ごしてきた。
その代わり、かどうかは知らないけど。私は動体視力や単純な運動機能には優れていて、頭の痛みや死にたくなるようなにおいを誤魔化すように、スポーツなんかに熱を上げて生きてきたのだ。
ただそれも、大学に進学してからは難しくなってしまった。何といっても頭の痛みが酷かった。
立ち上がることもできないような酷い頭痛が増えてきて、結局私はその生きがいすらも捨てざるをえなくなってしまった。
私は翠と違って、別にスポーツ推薦で大学に来たわけじゃないから、それで居場所を失うようなことはなかったけれど。
ただそれからは、こんな風に翠に介護されながら、椅子に横になって生活をする時間が増えているのだった。
だから私は、さっき翠には「普通」と言ったけど、それは私にとっては日常というだけで、体調はいつも通りに最悪だった。
それでも会話ができる程度の頭痛だったし、水に混じった翠の匂いもわかったので、最悪の中でもまだマシな方だと思った。
だから私は「普通」と言った。
翠はそんな私のことを、病弱な人間か何かだと勘違いしている節がある。まあ、そう思っていてもらった方が何かと都合がよいので、特に訂正もしていない。
「不味い?」
短く切り揃えられた金髪を掻きながら、翠がそう訊いた。椅子に寝ている私と床に座っている彼女とでは頭の高さが違うので、翠は必然的に上目遣いのような体制になる。
そんな彼女と目を合わせるのがなんとなく憚られて、私は意味もなくそっぽを向いた。
「そういうとき、普通は『美味しい?』って訊くもんじゃないの」
「いや、綾崎。怖い顔してたし。不味そうな匂いだって言ってたしな」
私は三口目のスプーンを口に運びながら、ううん、と小さく咳ばらいをする。
血のにおいがする。
ガンガンと鳴る頭を軽く振って、私は翠の方を見た。
私を見つめる瞳は大きくて、そのくせ顔は小さい。座っていてもわかるスタイルの良さ。
馬鹿だし家事はできないけど、その分運動ができる女。
私は、はあ。と大きく息を吐いた。
「別に、不味くはないよ」
「そっか」
翠はそれだけ言うと、何もなかったように黙々と自分の分を食べ進める。
私もそれ以上は何も言わずに、口とお椀の間で、スプーンを往復させる作業に専念することにした。
先に朝食を終えた翠が私の分の食器を洗っているとき、私は何をするでもなくスマホの画面を点けたり消したりしていた。特に何かを待っているわけでもなく、調べ物をする気にも、音楽を聴く気にもなれず、ただ画面の点灯と消灯を繰り返していた。
私の顔が、映っては消える。
9:20
9:21
それを何度か繰り返すうち、ふと。私の顔以外にも映るものがあった。
「なに」
画面越しに、翠の顔を見る。画面に引き伸ばされたその顔から、表情までは読み取ることができない。
「私に何かできることがあったら、言ってくれよ」
私はゆっくりと上を向く。椅子の背もたれ越しに私を覗き込む翠と目が合った。
ふう、と私は息を吐く。
血のにおいがする。
「どうしてそこまで、私のことを気にするの」
どうして、って言われてもな。と彼女は顎に手を当てて考える。その体制のまま椅子の背もたれに肘をついて、少しの間、ぼうっと遠くを見つめていた。
そうだなあ、と呟いて、彼女は私を見た。先ほどと立場は逆転し、私が翠を、見上げる形になる。
翠は私を見て、見下ろして。にこ、と笑うと口を開いた。
「ペアだろ、私たち」
「翠ちゃん、馬鹿なの?」
はあああ、と。私は今日一番大きく、長く息を吐いた。溜息かもしれなかった。
私はがんがんと鳴る額を抑え、ゆっくりと椅子に沈む。そのまま脱力し、ひじ掛けに頭を、その反対のひじ掛けから足を、だらりと垂らす。
「今日は学校休む」
「はあ? 何でだよ。今日は行くって言ってたじゃんか」
「翠ちゃんのせいだよ。疲れた」
「私のせいかよ、何だよ。私にできることならやってやるから、言ってみろって」
私は冗談や意地悪じゃなく、本当に疲れ切ってしまったので、もう半分くらいは寝るつもりでだらっと体を崩した。その上で肩を揺する翠ちゃんに、私はうんざりしたような視線を向ける。
「おぶってやろうか?」
「そういうとこだよ」
私はいつもの様にごろん、と体を横に向ける。もうそのまま寝るくらいのつもりで、ぱち、とすばやく目を閉じた。それでもなお体を揺する翠に、私は小さく言葉を漏らす。
「じゃあさ、私のこと、抱いてみてよ」
「こうか」
「おっ……、は?」
おやすみ、と言おうとした私の口からは、突然の衝撃で予想もしない言葉が漏れた。続けざま、反射的に飛び出した「は?」という言葉は、私に対しての言葉でもあったし、翠に対しての言葉でもあった。
「なにしてんの」
「いや、抱いてみろって言うから」
翠は、椅子の隙間からその長い腕を通して、お姫様抱っこのように私の体を抱きかかえていた。ついさっきまで私を包んでいた椅子の背は、いつの間にか翠の腕と胸、筋肉と脂肪へと変わっていた。
「……は、あはは。馬鹿だね、翠ちゃん」
思わず笑っていた。あまりにも唐突で、あまりにも直情で、私は思わず笑っていた。
「ガキだなあ。翠ちゃんは」
「どっちかと言ったら綾崎の方だろ、ガキは」
「私は身長の話をしているんじゃあないんだよ」
「身長じゃなくても、綾崎の方だよ。ガキなのは」
ひとしきり笑って、私は小さく息を吐いた。オレンジのような、柑橘のような香りがした気がして、私は思わず翠ちゃんの顔を見た。
彼女と目が合う。
その距離は、さっきよりもずっと近い。
「翠ちゃん、香水とか使ってる?」
「どうした急に。私がそんな風に見えるか?」
「だよね、じゃあ勘違いだ」
「お前、本当に大丈夫か? やっぱり今日休むか?」
私は頭を小さく横に振ると、ん、と呟いて腕を伸ばす。何かを察したのか、翠ちゃんは私をゆっくりと床へと下ろしてくれた。
私の両足がフローリングを掴む。両手をグーパーと開いて、自分のコンディションを確認する。
ううん、と小さく咳をして、私はもう一度、今度は大きく息を吐いた。
「もう一度抱いてくれたら、今日は学校に行こうかな」
そう言って、私は両手を大の字に広げる。
「やっぱり、ガキなのはお前の方だよ」
今度は間違いなく、柑橘の香りがした。