第1章 2 忘我の先祖還り
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おれは、自分が何者なのか、記憶が無い。
状況から考えると穴の上にいた、見届け役の人々の中におれの母親がいて、泣いていた。息子が雨の神様へ『お使いに出された』というのだ。ここがもしも古代マヤだとしたら『聖なる泉』セノーテに。生贄として落とされた。
まだ古代マヤだと決まったわけではないが。
そしてピンチは続いている。
このままだと『雨の神さま』が出てきて、おれを食べるんじゃ、ないのかな~?
誰だよ『雨の神さま』って。
おれは手近に垂れ下がっていた蔓にしがみついた。なんとか登れないものかとがんばってみる。四苦八苦だ。懸命に蔦を手に巻き付けて岩壁に足をついてよじ登って行く。しかし十センチ登って十五センチ滑り落ちてみたり。むかっ腹が立つ。ふだんこういう運動なんてしてないしな。
ああ、母さんが帰ってしまう。セーアって呼ばれてた。きっと美人だ。早く昇りたいのに。
……だが、待てよ。
もしも……上まで昇れたとして。
そんなおれを見たら、母さん困るだろうな。
生贄に出したのに戻ってきたら。
そう思ったとたんに、手から力が抜けた。
しゃ~ねえな。転生してまたすぐに死ぬってことも、あるさ。
前世も今世もまったく思い出せないままのおれは、生きる意味が見いだせず、執着も湧かなかった。蔓から手が離れ……さっきよりは低い位置から、水面に落ちる。
溺れるのってすぐかな。
突き落とされたときは無意識に、溺れたくないと思ってあがいたけれど。
どうせ上にも登れないし、今世で生まれた土地にも戻るすべはないのだろう。
そのときだった。
『何をもたもたしておるのだ! 疾く来よ、新しき従者よ』
頭の中に、声が響いた。若々しい男性の声で、いらついていた。
いたのだ。
透き通った水底から、呼ばわる声の主が。
長い髪をたなびかせている。髪の色はウルトラマリンブルー、瞳はアクアマリン色で、身に纏っているのはウェットスーツに似ていたが、銀色の鱗を模したような紋様がキラキラと水面の光を反射している。
筋肉質で大柄な体躯の青年だ。二十歳過ぎくらいだろうか。
すこぶる不機嫌そうな表情をした青年をひと目見た瞬間。
おれは、ここが古代マヤではなかったのだと気づいた。
真っ青な髪をした人間なんて、地球にいるはずはないのだ。
『どうやら何かが誤動作しておるようだな。おまえは《忘我の先祖還り》だな。ふむ。水面に落下したショックか。今世の自分も、前世の記憶もなくしたのか』
「おれは」
答えようとしたとき、自分の周囲にあるのが水ではないと気づいた。
足先が自然に水底の砂に触れた。
降り注ぐ光はエメラルドグリーン。
周囲は白い砂地で、楽に呼吸ができている!
セノーテじゃ、ない。
「ここはどこだ……おれは、だれだ?」
困惑して立ち尽くすおれを、青年は憐れむように、優しい声をかけた。
『ふぅむ。まずは、儂の名前を尋ねるべきではないのかの?』
ただし、面白がっているような口調で。
『おまえをここへ、水底の異界へ招待した、この儂は何者であるのかを』
「……あなたは」
首をかしげた。
「だれ、なんですか?」
青年は、くいっと顎を上げ。
胸を反らして、誇らしげに言い放った。
『雨の神ユムと、ここ数百年間、この界隈では呼ばれているが。我が名はカエルレウム・ドラコー(caeruleum draco)、おまえの意識では、《青の竜》だな。この名前は人間世界の至高神、真月の女神イル・リリヤ様より授かったのだ。ここは儂が管理する亜空間、すなわち聖域である』
「え? カエル?」
『違うわ! ボケ!』
整った威厳のある表情が一瞬にして崩れた。
『今まで儂に仕えるためにやってきた従者の中で、おまえは一番のボケナスだな!』
ぷんぷん怒ってる。
だって、本当に『カエル』って聞こえたんだよ。
……悪かった。反省はしてる。