プロローグ 5 魔女の長である幼女からの餞別
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グラン・マという魔女の長は、地球の長い歴史の始まりから生きていて、しかも見た目は十歳の幼女だという。
必要があって成人を装う時には、幻覚を見せたり、精巧な人形を遣うというのだ。
「えええええ!? 人形っ!? 幻覚!?」
「成人でないと面倒なことになる場合はね。他の魔女に代行してもらってもよかったのだけど、おばあさまは、自分で挨拶に行くとおっしゃって」
『そのくらいにしておやり、普通の人間には、なじみのないことを理解するのは難しい。それにおまえたちがそうしていられる残りの時間は僅かだ。名残りを惜しむとしても全ての思いを断ち切ることなどできはしない』
ふいに聞こえてきたのは、幼女の声。
だが、それはたいそう威厳のある『声音』だった。
何もない真っ白な空間に突如として十歳ほどの幼女が現れたのだ。
射るような青い瞳と、足首まで届く、三つ編みのお下げ髪。
漆黒の、足首まで覆い隠す細身の長衣の上に、腰までの丈のゆったりとしたローブを幼い身に纏う。
まるで昔に読んだファンタジー小説に登場した『灰色の魔法使い』だ。
『沙織から話を聞いたようだね。まあ、沙織という名前にも深い意味など無いのだけれどね。知っていたかい。沙織という名は、おまえがむかし、この子に与えたのだよ。我らは本来、名前なき者。名前などに縛られず自由に流れる、風や水のように』
それではまるで。
人間ではない。
精霊か何かのような?
「おばあさま(グラン・マ)」
苦しげに声を出す沙織。
おれがしっかり抱き寄せているのに沙織の身体が震えている。
『話はついたよ。人間と結ばれた『魔女』は、いずれ存在を保てなくなり消滅する。それを防ぐ手段は、二つ。その男の命は獲れた。あとはその男の魂を食らってしまうのだ。なれば、おまえは再び、名前と肉の器から解き放たれる』
衝撃だった。
おれが彼女に名前を与え縛っていたと、魔女達の長は告げた。
答えなど決まっている。
「それで彼女が消えないですむなら、いい。おれの魂を食べてくれ」
「そんなことできないわ!」
沙織は即答した。
『だろうよ、なあ』
魔女の長である幼女は、おかしそうに声を上げて笑った。
『さて、ではもう一つの方法だ。おまえたちは二人とも転生する。ただし。この地球ではない。面倒臭そうな魂を受け入れてくれるという世界があったのだ』
「て、てんせい?」
『そうじゃよ』
この上なく楽しげに笑う幼女。
『その世界自体が、生きている。知識や経験を欲しているのさ。だから多くのサンプルが欲しいのだ。我が愛娘を娶った『勇者』よ。そこは魔法と冒険の世界となるであろう。ともに旅立つがいい。おまえたちの間に生まれた娘も、いずれ、この地球での寿命が尽きれば、そこへ向かうゆえ。再び、一家で睦まじく暮らすが良かろうよ』
「おばあさま!?」
『ただし、試練を乗り越えねばならぬよ』
幼女の口から、歳経た者のような老成した声が紡がれる。
『転生すれば記憶は失われる。まっさらな嬰児として生まれ直せ。そのうえで、再び相まみえるのだ。さあ、もうじき、迎えが来る頃合いだ……』
おれは沙織を固く抱きしめた。
彼女も、おれにすがりついた。
『……しょうがないな。われも一族の長ぞ。愛しい娘と伴侶の新しき門出に贈り物をやろう。闇夜を行くにはランタンが必要じゃな』
魔女の長が、つぶやいた。
百年の眠りにつくいばら姫に、最後の贈り物をくれた仙女のように。
『転生した先で、現在の知識を参照できる異能を与えよう。生まれて間もなくは前世の記憶を持たない普通の子供として育つがよい。そうじゃな……十歳までには、記憶を取り戻すようにセットしておいてやる。それを活かせ。娘の伴侶よ』
『おまえたちは容易く出会うことはかなわない。がんばって生まれた場所で行き抜くのだ。いずれは出会うと、約束してやろうぞ! さあ、旅立つがよい!』
おれたちの目の前が、みるみる、色という色を失っていく。
『そうそう、言い忘れておった! その世界の名前は、セレナンじゃ! まあともかく、転生じゃ。楽しめばよい!』
魔女の長は、すげえ楽しそうに笑って、おれと沙織を、新しく転生する世界に、送り出したのだった。