プロローグ 2 夢で会えた妻の忠告
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ロンドン、ヒースロー空港に向かう搭乗口に、客が続々と吸い込まれていく。
並河泰三は予約していた席にたどり着いて座った。
急遽決まった出張だったため、250席弱のうち10隻もないファーストクラスは取れなかった。秘書の青年と並んでビジネスクラスの座席についた。
「お嬢さまはずいぶんご心配されていましたね」
いかにも生真面目そうに黒縁のメガネを押し上げて、秘書の青年が言う。
「大丈夫だ」
内心では後悔しつつ、泰三は平静を装った。
(秘書の前で自分が狼狽えるわけにはいかない。この私としたことが。何年、社長をやっているというんだ。なぜ、こんなに動揺しているんだ?)
どういうわけか心臓が早鐘を打ち出していた。
(いかん、落ち着かなくては!)
席についてしばらくすると、落ち着いた女性の声で英語のアナウンスが流れてきた。
『ご搭乗の皆さま、本日は○○航空○○○便、ロンドン行をご利用くださいましてありがとうございます。
この便の機長はジョン・ドゥ、私は客室を担当いたします○○○○でございます。
まもなく出発いたします。
シートベルトを腰の低い位置でしっかりとお締めください。
ヒースロー空港までの飛行時間は13時間○○分を予定しております。
ご利用の際は、お気軽に乗務員に声をおかけください。
それでは、ごゆっくりおくつろぎください。
本日は○○○航空をご利用頂きありがとうございました』
これまでの海外出張で何度も聞き慣れた機内アナウンス。
並河泰三は座席に腰掛け、アナウンスに従ってシートベルトを締めた。
トランク一つを手荷物に預け、機内に持ち込んだものは最小限のものだけ。
いつもの出張と何も変わらない。
そのはずだった。
「私は寝る。君も寝ておきなさい」
用意して置いたアイマスクをかけ、私、並河泰三は秘書の青年を促してから、眠りについた。
※
『あなた……あなた、泰三さん、起きて』
懐かしい声が聞こえて、泰三は目を開けた。
「……え? 沙織!? おまえなのか!?」
目の前に、妻、沙織がいた。
相変わらず、たまらなく綺麗だ。
抱きしめたい。
『ばかね、あなた。目を覚まして』
「沙織? 夢か!? 夢なのか、だったら醒めたくない!」
私は叫んでいた。
亡くなった妻が目の前にいるんだ。
夢でもいい。もう一度、抱きしめたい!
『だめよ泰三さん。起きて。でないと、眠ったままで、あなたは……』
※
突然、機体が振動して、
がくん、と大きく揺れた。
ガタガタと音がした。荷物棚からバッグが転げ落ちる。
乗客が騒ぎ出す。
周囲を見回した。
なぜか、秘書の青年の姿はどこにもない。
トイレにでも立っているのか。
だが、この非常時に、そんなことは些細なことだ。
……まさか。
出かける前に聞いた娘の声が、泰三の胸をよぎった。
『パパ。その飛行機には乗らないで!』
いつもワガママなど言ったことのない、聞き分けの良い娘、香織が。
今回の出張だけは、行かないでくれと懇願したのだ。
『その飛行機だけはダメなの!』
占いに凝っていた娘だった。
恐ろしいほどによくあたると友人達の間で評判だったという。
泰三と沙織は、一人娘の香織を、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。
沙織が二年前に病気で先立ってからは特に、いつかはこの自分も娘を残して逝くのだろうと思うと、不憫でならなかった。それが数年後、数十年後であろうとも、いつかは永久の別れが訪れる。
それまでに娘に何をしてやれる?
だからだろう。
泰三は、たいがいのことなら娘の忠告に従ってきた。
だが今回だけは、どうにも変更がきかなかったのだ。
人生で、これほど後悔したことはなかった。
機体が、急激に高度を下げていくのを感じた。
泰三が知るよしもないことだが、機体はドーバー海峡に墜落したのだった。