紅い音色に想いを乗せて 7
刀を媒体にしなくてもすぐにでも私を喰い殺せたことを知ってひどく驚いた。それをしなかったのは、仲間のため。
春陽さんは、誰よりも周囲の事を考えている。周りもそれが分かっているからか、あの後に彼女を止めるような真似は誰もしなかった。
これから彼女は、死地に出る。自分たちが背負う大事な者を守るために。
「春陽さん。私に何かできることはありますか?」
「ない――いや、ある。祈ってろ。私が力の加減を間違ってお前まで喰い殺さないことを」
前だけを見据えて、冷たく言い放つ。ここ数日で同化が進んだことで言葉を交わさなくても、彼女の心の内が少し知れたから私は知っている。
樹希が飛び出していき、気を失った春陽さんと三人になった時に、どこか哀愁を感じさせる調子で局長が言った。
『宗助さん、あんたはもう春陽にとって、大事な者になっちまった。起きたら、ここを飛び出していくだろう――その時は、よろしくな。俺にはもう、こいつを守れるような腕はないからよ』
――守れていますよ。支えになってます。
宗助は伝えたい言葉を飲み込んだ。目の前で春陽が、叫び声を上げ始めたから。
彼女から流れてきた記憶は、部屋に飛び散る夥しい血。血だまりには、片腕を亡くした局長が斃れていた。
怪異が、人を襲い、喰らう。
あまりの惨状を春陽を通して見た時、春陽が――彼女が、怪異を憎む気持ちが理解できた。
宗助は、春陽に喰い殺されるなら、それはそれでいいかな、とも思う。こうなってしまった以上、自分も怪異と変わらない。彼女の生命力を吸って存在しているのだから。
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空からはひらりひらりと真白い小さな綿のようなものが降ってきていた。雪は地面に溶けては消えていく。相変わらず外は身体が芯まで凍るほど寒かった。
鉛のように重い体を引きずり、やっとの思いでたどり着いた隅田川。
枯れかけた桜の木を見ると、報せ通り満開になっていた。思わず春だと錯覚するほど見事に咲き誇っている。次々に寒風に散らされていく花びらは雪に混ざり幻想的な光景を創り出していた。急いでいたのに、思わず立ち止まって見入ってしまうほどの見事さだった。
ふいに、何かが動いた。そちらを中止すると、小柄な人影がひとつあった。桜の前に立っているのは、おそらく女性だろう。長い黒髪が風に翻っていた。
「皐月さん……」
「向こうもあんたにどうしても逢いたかったんだろう」
さらによく注視すると、藤皐月の足元――木の根本の近くに倒れているのは、樹希だった。
彼の生死を確かめるために刀を抜こうとしたが、刀の封印が解けていない。彼は、まだ生きている。
もし、古木の怪異が復活していたら。
もし、あの女性霊が化け物に身を落としていたら。
注意深く気配を探ると、複数の気配がした。あの桜の古木が、松木忠雄が周囲の怪異を喰って力を増したのか、元々の潜在的な力だったのかは分からない。
だが、確実に言えるのは今の私では負ける。武器がなければ勝てないのだから。
私が少しでもまともにが闘えるようになる方法はいくつかある――藍澤宗助を自分から引きはがすこと。
もしくは、何らかの方法で樹希を助け出し解呪させる。できるかできないかは別として、可能なら彼を助けだして解呪してもらいたい。
今までの自分なら真っ先に藍澤宗助を喰い殺していたはずなのに……。大義名分を得たが、迷っている自分に戸惑う。今は迷っている場合ではないのに。頭の中から、藍澤宗助の事を追い出すと目の前の怪異を見つめる。
桜の花弁が、あの日と同じように風に逆らって樹希の体に纏いついている。ふわりと広がった花弁は彼を何かから守っているようにも見えるし、憑りつこうとしているようにも見えた。
「彼女は、人を傷つけるような人じゃありません」
私の考えを読み取って、藍澤宗助が強い口調で断言した。
「生前はそうだったかもしれない。だが、今は? 今のお前は、藤皐月を知っているか?」
「それでも――」
「分かってる」
二の句を継がせないように強い口調で言い放つ。
もっとよく見たい。もう少し、何か……彼女が変わっていないと信じられる何かが欲しくて。
「少し近づく。黙ってろよ」
無言で藍澤宗助が頷いた。
怪異に気が付かれないように、周囲に密集している草に身を隠してそっと近づいた。草をかき分け、樹希の様子を見てみると体がかすかに動いていた。気を失っているわけではないようだった。
ただ、出血が酷い上に足に木の根が絡みついていて、樹希が一人で逃げ出すことはできないようだった。木の根は明確な意志を持ってうぞうぞと蠢き、さらに彼の体の自由を奪う隙を探しているように見える。
あの木には、やはり怪異が2体憑りついていた。樹希の血が、地面に広がっていく。力なく横たわる体から、熱が徐々に逃げていっているのが分かる。
「樹希の出血量はさほど多い訳じゃないが、一本だけ木の根があいつの体に巻きついてる。あれが桜の木の力の源になってる……樹希をあそこから引きはがさないと、死ぬ」
「今のあなたと私と同じ状態になっている、ということですか?」
「そうだ。どうやって助ければいいのか……」
「何が――春陽さん! よけて」
緊迫した声が聞こえた。木の陰から転がり出ると、さきほどまでいた場所に木の根が力いっぱい叩きつけられた。
大きな石が轟音を立てて砕けた。この力に対抗するための手段は、今の私にはない。だからと言って退く気もなかい。もう迷っている時間は残されていなかった。
次々と迫りくる木の根を避け、やがて河縁に追い込まれてしまう。逃げ惑う獲物を引き裂く瞬間を楽しんでいるのか、動きを止めてこちらの様子を窺がっていた。桜の花びらが、木の根の進行を止めるように纏いつく。と同時にどこからともなく悲しげな声が聞こえてきた。
「――助けて。彼を……」
声がした方をちらりと見やると、いつの間にか消えていた女性が樹希のそばに寄り添っていた。
藤皐月――彼女は、生前と何一つ変わっていなかった。
仲間を救う、そのことに対して否やはない。だが、このまま私まで掴まれば、息絶えるのは私のほうが早いだろう。
「春陽さん。大丈夫ですよ。覚悟はできてます」
とても穏やかな声がした。その一言に、背を後押しされた気がして柄を握りしめる。
ぎりぎりと何かが心を締め付け、刀を抜く決心がつかない。藍澤宗助を犠牲にするしかないのか。
「春陽さん」
「――――っ」
柄を力いっぱいにぎり、自らの魂を注ぎ込む。怪異との戦は文字通り、互いを喰らう。
――共喰い。
今まで振り払っていた考えが押し寄せる。それを無理やり振り払い、藍澤宗助の魂を喰らう。自分の中で、何かが外れた気がした。
彼の悲鳴が聞こえてくる。耳をふさぎたくなるような断末魔が。服の袂に入れた紐が、熱を持ち、一瞬で冷たくなった気がした。そして、私の中に彼の記憶が流れ込んでくる。最期まで。
生まれた時の記憶、両親の記憶、友人や恋人の記憶。嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、今までの藍澤宗助の記憶が全て。
徐々に同化し、消化していく感覚が身体を支配していく。今、まさに私は藍澤宗助を喰らっていた。
やがて、彼の気配が立ち消えた。今は残り香のようなわずかな残滓が、紐にあるだけ。
次に集中するのは刀。今まで抜けなかった刀が、徐々に鞘から出てくる。あと一歩。あと一息で、封印を喰らいつくせる。
最後の抵抗とばかりに、強い力の気配がした。それを破るために全身全霊で、宗助を自分の力にする。一筋、目から何かが零れ落ちるのが分かった。
目の前がにじみ、私の中の人間だった部分が眠りにつこうとする。が、ギリギリのところで堪えた。
でも、飢えだけはどうにもならない。
腹が減った。とてもとても。手当たり次第、喰い散らかしたい。
人を。記憶を。魂を。目の前の全てを。
「うあああああああああああああああああああああああああああ」
裂帛の気合と共に抜き放った私の牙が月光を受けて、ギラリと光る。目の前に迫っていた根を切り落とし、地を蹴った。
――私は、獣だ。