第1話:惹かれあうもの
お菓子作りをする愛絆の前に現れたのは見知らぬ男性。
思わず身構えてしまった愛絆に彼は、
「キミが噂の愛絆ちゃんか。寛太から聞いてるよ」
「もしかして、お兄ちゃんの友達ですか?」
「もしかしなかったら、普通に見知らぬ男が家にあがって犯罪の気配がするね」
それもそうである。
「ご心配なく。寛太の友達の相葉涼介(あいば りょうすけ)って言うんだ」
涼介が挨拶をすると、愛絆も警戒を解く。
優しい声色も彼女を安心させる一つの要因だった。
「さっき、寛太から連絡があって、他の友達を迎えに行くから先に上がってくれって言われた。俺は以前に寛太の家に来た事があってから知っていたからさ」
「そうだったんですか」
「……それより、今、作ってるのってマドレーヌ?」
涼介の興味は愛絆の手作りのマドレーヌだった。
ちょうど焼き上がり、いい匂いを漂わせている。
「レモンの爽やかな香りがする」
「良いレモンをもらったので、マドレーヌに使ったんです」
「へぇ、お菓子作りが趣味だって聞いてるけど、ホントなんだね」
「お兄ちゃんは私をどんな風に言ってるのか気になります」
――どうせ、よくない意味での噂なんでしょう?
兄の愛絆への評は普段の口ぶりからして、よくない事は想像に難くない。
――協調性がないとか、自分勝手とか、好き放題に言われるんだわ。
兄が自分をどう思ってるのか。
自分の知らない所で悪口を言われるのは不愉快になる。
「そんな顔をしなくても悪い噂じゃないよ。寛太の妹は美人でお菓子作りが上手な子だって評判なのさ。何度か、紹介してくれって言っても中々会わせてくれない」
「お兄ちゃんが私を褒めるなんて珍しい。てっきり、悪口ばかり言われていると思ってたのに。いえ、言ってるんでしょう。そうに違いない」
「……あはは、お兄ちゃんとの関係には何かありそうだね。俺達から見れば、寛太はかなり妹には甘いと思ったのだけど? 違うのかい」
「おーい、涼介。勝手に捏造しなさんな」
ポンッと涼介の肩を叩くのは帰ってきた寛太だった。
その顔はどこか気恥ずかしそうである。
後から合流した友人たちも口々に、
「おぉ、この子が噂の寛太君の妹さんか。めっちゃ美人じゃんか」
「桜瀬には美人な妹がいるから、紹介してくれって言うのに会わせてくれなかった」
「なるほど、これだけ美人ならそれもしょうがないか」
「よく妹のことを話すから気になってたんだが、想像以上だね」
「これが寛太の可愛がってると噂の妹ちゃんかぁ」
「……お、お前ら、まるで、俺がシスコンみたいな言い方はやめい」
愛絆の手前、寛太はそれを認めるわけにもいかない。
実際、寛太に愛絆が甘えるような関係ではない。
愛絆自身、誰かに甘えるという行為自体が珍しい。
だが、何かと妹の話題を口にしてしまうのは寛太の妹への兄妹愛があるゆえである。
「あのなぁ、こいつは確かに美人だけど、口を開けば毒舌ばかり。お菓子好きが異常レベルな小生意気の女の子だ。紹介しなかったのは人付き合いが悪いから、以上」
悪態つく寛太に愛絆も言い返す。
「ふんっ。年中発情期でエロいことしか考えられない品性下劣な人に言われてもね。生まれ変わったら、もっと素敵なお兄ちゃんが欲しいくらいだわ」
「お前の方がひどいから言い方だからな!? 品性下劣は言い過ぎや」
「人を毒舌家でお菓子好きの引きこもりボッチなんていうからでしょ」
「そこまでは思っていても言ってねぇよ」
兄妹が口喧嘩するのを涼介は笑いながら見て、
「……兄妹の仲はいいようだね?」
「どこをどう見て、そう見えるのやら。ええい、にやにやするな」
不満気に肩をすくめる寛太だった。
「俺には姉がいるけど、年下の弟や妹がいないからね。こういう風な関係って言うのは憧れる」
不仲と言うには険悪でもなく、いがみ合っているようでもない。
どこかじゃれあっているようにさえ涼介には見える。
「それに、寛太も素直じゃないからなぁ」
「うるさいですよ。ほら、勉強しようぜ。俺も赤点回避に忙しいんだ」
場の雰囲気を変えようと寛太は彼らを促した。
寛太の友人たちに交じって、涼介に愛絆は勉強を教えてもらう。
苦手科目である数学はひどいありさまだ。
「センパイ達も自分の勉強があるのにお邪魔してごめんなさい」
「あぁ、いいよ。こうして教えるのって楽しいから」
「……涼介は成績上位で優秀だから。人に教えるのも上手なのさ」
寛太の言う通り、苦手な愛絆にも分かりやすく彼は教えてくれる。
ひとつ、ひとつ丁寧な説明と共に問題を解いていく。
「愛絆ちゃんは基本問題はできるのに、応用が苦手なんだね」
「……基本と応用のレベル差がありすぎなんですよ、数学って。捨て科目です」
「それで諦めちゃうのはもったいないよ」
中学時代は相当にひどい点数だったため、未だに苦手意識がありすぎる。
いちから教えてもらい、少しずつだが愛絆も理解しはじめる。
――涼介センパイって良い人だなぁ。
愛絆が何度も初歩でつまずいても、笑うことなく、何度でも教えてくれる。
そのおかげで、少しずつだが、理解力が深まっていく。
「ここは……さっきみたいにこうですか?」
「正解。やればできるじゃないか」
「……センパイの教え方が上手なんです。うちの先生も見習ってほしいくらい」
「おい、愛絆。お前の先生はお前にだけは言われたくないって思ってるよ」
短期集中とはいえ、この調子ならば最低限の赤点回避はいけそうな雰囲気だった。
しばらくして、ティータイムと言う名の休憩にはいる。
紅茶の準備を始める愛絆はティーカップを並べながら、
「えっと、私を入れてお茶は5人分だから」
「おーい、一人足りていない。俺の分が足りてない。わざとか!」
「ちっ、うるさい。お兄ちゃんは紅茶なんて淹れても味が分かんないくせに。コーヒーくらい自分で淹れてください」
「……へーい」
愛絆が紅茶を淹れるのを寛太は眺める。
相変わらず、上手に紅茶を淹れる子だと素直に感心した。
「なぁ、愛絆よ」
「何?」
「お茶を淹れるのも上手。お菓子作りも上手。そんなお前には他人への気遣いという思いやりが欠けている。それが加わればお前は素敵な女の子になるだろう」
「誰がコミュ能力が低いって言った? ミルクいれまくるわよ」
「あー、人のコーヒーをカフェオレにするなぁ!?」
並々と牛乳を注ぎ込まれて、無残にもカフェオレになってしまう。
「……俺は無糖のブラック派なのに、なんて奴だ」
「人に文句ばかりいうお兄ちゃんが悪い」
「ちげぇよ。もったいないって思ってるんだ」
愛絆には他人にどうこうしようと言う気持ちが薄い。
友人関係も希薄、他人への愛想もない。
そこが直せれば、人気だって出るはずなのに、と常々、寛太は思っていた。
「私は別に誰かに対して思いやりを持つ気はないから。自分にメリットのないことはしない主義。人に愛想を振りまいて、何の得があるって言うの?」
自らを自己中心的だと認めてしまうありさまである。
「皆に好かれるのは良いことだぞ?」
「私は好かれなくてもいい。対人関係が面倒くさい。この話は終了。お兄ちゃんだけ、マドレーヌをなしにする。それでもいいの?」
強制的にマドレーヌを奪われると「暴挙はやめて」と素直に話題をやめた。
妹に説教をするよりも、マドレーヌの方が大事だった。
愛絆が作った手作りマドレーヌをお茶菓子にティータイム。
「美味いな。妹ちゃんってホントに上手だな」
「マジかよ。お店で買ってきたと言われても信じる」
寛太の友人たちからもおおむね高評価だった。
焼き加減が抜群で触感もよく、レモンの風味が口に広がる。
「マドレーヌも定番の焼き菓子だけど、こんな風にレモンの味が活かせてるのはすごいと思うよ。これはコンフィチュールの味かな」
涼介はマドレーヌを食べながら、ほのかに甘い味がするのはコンフィチュールの甘さだと感じていた。
「そうですよ。瀬戸内レモンで作ったコンフィチュールをつかってます」
「そっか。これはきっとコンフィチュールの出来の良さもあるだろうね。上品な甘さと酸味、そして何よりも口当たりが爽やかなのがいい」
愛絆に向けて涼介は笑みを浮かべながら、
「美味しいよ、愛絆ちゃん」
「ありがとうございます」
真正面から笑顔で言われると照れくさくなる愛絆だった。
――当然だけどね。
内心、当然と言い切れるだけの品だと言う自信があった。
それだけの練習や努力を重ねての今の愛絆の腕前なのだから。
「涼介センパイはお菓子に詳しい人ですか?」
「そうだぞ。涼介はこう見えてもスイーツ男子だからな。甘いものが大好きだ」
「お兄ちゃんには聞いてないし。向こうに行って」
「こら、兄を雑に扱うな。あー」
口うるさい兄を追い出して、愛絆は涼介に問う。
「センパイもお菓子好きなんですね」
「昔からケーキとか甘いものが大好きでさ。俺には姉がいるんだけど、パティシエをやってるんだよね。駅前の『リピュア』って店を知ってる?」
「ケーキが美味しいお店で人気のお店ですよ。私も好きです」
お菓子が好きと言う共通の話題から、ふたりの話が弾む。
その様子を眺めている寛太は複雑な顔をしていた。
「ぐぬぬ……」
友人たちは「どうしたんだよ?」と不思議そうに尋ねる。
「妹があそこまで男子と楽しそうに話しているのを初めて見た気がする」
「なんだ、妹を取られちゃう気がする複雑な兄心ってやつか」
「涼介なら問題ないだろ? 遊び半分で何かする奴じゃないし」
「いずれは兄離れするのが妹って存在なのだ、寛太君」
寛太は友人達から慰められて困惑する。
「ちげぇよ。お前ら、俺を慰めるな。そう言う話じゃない」
「分かってる。大事な妹が離れていくと寂しいよなぁ」
「肩を叩くな、慰めるな!? 俺としては愛絆に彼氏ができるのは良い事だよ」
兄として愛絆には早く彼氏ができて欲しいと思っている。
基本的に愛絆は自分の世界が狭い。
お菓子作りに情熱を傾けるのはいいが、それは自分のためでしかない。
常に自己中心的であるために、他人と仲良くなる事があまりない。
「愛絆が恋の一つでもしてくれるのは歓迎なことだ。恋して何か変わればいい」
「……妹ちゃんに変化を与えて欲しいと?」
「その通り。アイツ、昔からお菓子作りが好きなくせにパティシエになる気はゼロなのさ。単純明快、他人のためにお菓子を作る気がないって理由だ」
「意外だなぁ。あの子の腕前なら、十分に目指せるんだろ?」
彼らが食べたマドレーヌも市販品と何ら変わらない程にクオリティーが高かった。
「有名パティシエからもお誘いを受けてるらしい。でも、本人にやる気がない。パティシエって職業に憧れがないのか、その辺がよく分からないけども……お菓子が好きでもそれはあくまでも趣味のまま。その先を目指す気がないのさ」
「実力があるのに、もったいないよな」
「その通り。俺もそう思うから説得するんだが、無意味に終わってる」
誰かのためにお菓子を作ろうと言う気持ちが欠けている。
もちろん、絶対にパティシエになれ、と言いたいわけではない。
「愛絆には視野を広げて、周囲への興味と関心を持ってほしいのさ」
パティシエであれ、なんであれ、愛絆が自分でやりたいことを見つけて欲しい。
周囲とかかわりを持ち、他人に興味を抱いて欲しい。
寛太は兄として妹の成長を願っていた。
「なんだ、エロ画像収集が趣味なくせに、意外と妹思いのお兄ちゃんだな」
「海外サイトでマニアックなエロ動画を見つけてくるのが唯一の取り柄だと思ってたが、そんな心優しい一面もあるなんて見直したぞ」
「寛太をエロ男爵としか見てなかったが、良い奴だって評価を改めるぜ」
「……お前ら、揃いも揃って俺の長所と評価をエロ男爵って言うのはやめい」
エロだけが取り柄と言われてリアルにへこむ寛太だった。
そんな彼らを無視して、愛絆と涼介はお菓子の話題で盛り上がっている。
「そういや、姉さんが言ってたんだけど。もうすぐ新作のチーズスフレが発売されるって。新作は自信作だってさ」
「ホントですか? それは食べてみたいかも」
「それなら、テストが終わったら一緒に行かないか?」
「いいですね。私も新作は楽しみです」
すっかりと涼介と意気投合する愛絆。
思わぬ涼介の誘いを快諾してしまう。
それを眺めていた寛太は唖然としていた。
「……お、おいおい。あの愛絆がデートの約束しちまった!」
「やるな、涼介。手が早い。これは期待できるんじゃないの、お兄ちゃん?」
「ちゃんと応援してやるのが見守る愛。兄として妹を想うなら……」
「お前ら、うるせぇ。はぁ、アイツは無自覚だろうし、その辺が心配だぜ」
心配な兄心を知ってから知らずか、愛絆本人はデートだとさえ気づいていない。
「新作スフレかぁ。ふふっ、楽しみ」
デートのお誘いすらも自覚なしの猫系女子。
彼女はまだ恋をしたことがない。
恋心を知らないゆえに異性からのお誘いにも無自覚なのである。
涼介との出会いは彼女に何かしらの影響を与えるのだろうか――?