第18話:成長の証
大会当日、会場となるホールにはある種の緊張感が漂っていた。
この大会は20歳以下のパティシエ志望の子供たちをメインにしもの。
将来有望視されている、パティシエ見習いたちが揃っている。
審査員のひとりとして会場入りした夏姫は不安げな表情を崩さない。
「この大会で私が審査員をするなんて……」
本来、審査員をする予定だったパティシエのひとりが来なくなった代わりに急きょ、夏姫が代役として選ばれたのである。
ただ、その顔色は決して余裕のあるものではなかった。
「店長。そんな顔されると審査される子たちがもっと悲痛な表情になるのでやめてください。審査する側が緊張してどうするんですか」
「あ、愛ちゃんがいない。まだ来てないだけ? それとも参加してくれない!?」
「そっち!? あー、桜瀬さんの件も大事なんですけど。貴方、審査員ですよ」
愛実は半ば呆れつつも、「公正な審査を求めます」と釘をさしておく。
「まぁ、店長はどんな状況でも公正公平な審査をしてくれると思いますけど」
「今、愛ちゃんの顔を見たらそれだけで優勝させてあげるわ」
「公正公平は!? お気に入りの子だけ評価するのはダメですから!」
「ぐすん。だって、もう三週間も愛ちゃんに会っていないだもの」
あの事件から夏姫の店に姿を見せていない。
彼女は寂しそうに唇を尖らせて拗ねながら、
「そもそも、アンタが涼介君から確定情報を入手できなかったのが悪い。役立たず」
「……また私のせいですかぁ」
愛実は弟の涼介から「一応、大会には出るらしい」程度の情報しか得られず。
参加するかどうかも、確証を得られない夏姫は不安なのである。
そんな彼女の前にシェフ姿の中年の男性が現れる。
「夏姫さんじゃないか。こうして会うのは久しぶりだね」
「も、諸塚シェフ!? お、お久しぶりです」
「この前のコンクール優勝おめでとう。キミの活躍も耳にしているよ」
諸塚シェフは一流のパティシエ、で今回のメイン審査員だ。
日本屈指のベテランを前にさすがの夏姫も緊張する。
「諸塚シェフのような方がこの規模の大会の審査員をするなんて珍しい」
「将来性のある有望な子供達がどんなパティシエに成長するのか。それが楽しみでね」
諸塚シェフは世界的にも注目される一流パティシエ。
今後の業界全体を盛り上げるような若手の登場に期待をしている。
「今年は有力な子が多いね。竹岡浩太君に、菅野玲奈さん。そしてキミが可愛がっている愛弟子の桜瀬愛絆さん。あの子は将来がとても楽しみな子だよ」
夏姫は「ご存知でしたか」と少し顔色を曇らせた。
今日、来るかどうかも分からないとは口にできず。
「名前自体は業界内で噂にもなっているからね。実績、実力的にも興味深い」
「諸塚シェフにも名前を覚えてもらえるなんて彼女も光栄ですね」
「実際、数年前に一度、彼女にも会っている。ただ、その時は大きな失敗をしてしまった。緊張感からか実力を発揮できなかったのだろう」
愛絆が今もトラウマになっている例の大会だ。
「だが、今や、いろんなコンテストで彼女が優勝しているという噂を聞いた時は嬉しかったものさ。あの時の失敗を乗り越えた、成長した証をぜひ今日は見てみたい」
「え、えぇ。私もそう思います」
「とはいえ、今回は期待の若手も多くいる。簡単には優勝できないだろうが、楽しみにさせてもらおう。それでは、また審査の時に」
笑いながら立ち去っていく諸塚シェフの後ろ姿を見送りながら、
「はぁー」
盛大にため息をつく夏姫だった。
「諸塚さん、めっちゃご機嫌でしたねぇ」
「どうしよ。これで愛ちゃん来てくれなくて、再起不能だったら。私の立場がなくない? 将来有望なパティシエを潰したポンコツパティシエとして業界に噂されるわ」
「ポンコツって……あ、あの、店長? そんなに落ち込まなくても」
ここまで落ち込むとはさすがに愛実も夏姫を見ていられない。
「桜瀬さんなら大丈夫ですよ。彼女は逃げたりしません。信じましょう」
「根拠はなに? 何の根拠もなくて大丈夫なんて軽々しく言ったら許さない」
「うぐっ……え、えっと、ただの乙女の勘デス」
「なるほど。ならば、その勘を信じるわ。来なかったときはアンタのせいね」
愛実は「全責任を私に背負わせた!?」と嘆き悲しむのだった。
エントリー終了間際になり、ようやく愛絆は会場に現れた。
いつも自信がなくて、弱気な自分が心のどこかにいつもいる。
メンタルが弱い愛絆の弱点は完全に克服されたわけではない。
「センパイが見ていてくれてる。私の支えになってくれている」
それでも、支えてくれる相手がいる今は、ほんの少しでも勇気をもてる。
「不思議な感覚。こういう風に落ち着いて会場入りできるなんて」
そう、緊張感に包まれる会場の中で愛絆はすごくリラックスした状況だった。
「いけそうな気がするや。こんなの、初めてかも」
彼女がエントリーをすませると、審査員席に夏姫が座っているのを確認する。
「え? 夏姫さんが審査員?」
知らない間に彼女が審査員をすることになったらしい。
「夏姫さんにも迷惑をかけちゃった。あとで謝らなきゃ」
夏姫は大切な姉のような存在であり、自分を見守り続てくれた相手だ。
愛絆にとって、彼女を失望させたことはショックだった。
――失望を希望に変えたい。もう一度、チャレンジだ。
そして、その隣にいる男性に目を向けた。
「諸塚シェフ」
思わず、唇をかみしめる。
彼女にとっては苦い記憶の相手。
以前の愛絆なら失敗した過去に捕らわれていた。
この時点で、きっと緊張感に押しつぶされていただろう。
しかし、今の彼女は以前とは違い、その不安や緊張感すら楽しめていた。
「私は負けず嫌いな所もあるんだよね。あの人を見返す大チャンスかも」
脳裏に残り続ける苦い想い、大失敗した過去がある。
だからこそ、成長した姿を見せつけて諸塚シェフに評価をしてもらいたい。
――それが、私のセンパイとの約束でもあるんだから。
この大会、愛絆は涼介に一つだけ約束をした。
『優勝するという目標ではなく、諸塚シェフに認めてもらえる作品を作ること』
『え? 優勝じゃなくて?』
『トラウマを乗り越えるために。キミの実力、見せてきてごらん』
過去の自分を縛り続けているものから解放される。
涼介が大切に思うのは愛絆の心の傷そのものを消し去る事だった。
「愛絆さん。やっときましたわね」
「玲奈ちゃん……」
「その顔なら負けに来たわけではないのでしょう。私との勝負、受けてもらいますわよ」
「……いいよ。私は今の私にできる最高の物を作るだけだもん」
玲奈の差し出した手を彼女は握手で返す。
親友との仲直り、それはライバルとしての宣戦布告でもあった。
「それでは、七夕ケーキコンテストを始めます」
集まったパティシエの卵たち。
彼らはまだアマチュアの挑戦者。
プロのパティシエに認められるケーキを作るために努力を重ねて。
誰もがやる気をもって、この日を迎えてきている。
「誰にも負けられない。もちろん、自分にだって……」
それは愛絆自身、久しぶりに感じる闘争心。
波乱の三週間を経て、大きく成長した成果を見せつけたい。
コンテストは二時間と言う時間制限の中で、ケーキを作り上げなくてはいけない。
それぞれの参加者が集中して料理を続ける中で、ひとり異彩を放つのは愛絆だった。
お菓子作りの手際の良さ、技術力の高さ。
もちろん、それもある。
だが、その場を支配する少女に誰もが視線を奪われる。
「ふふっ」
愛絆はお菓子を作りながら無意識でも可憐に微笑んでいる。
その微笑みは思わず誰もが見惚れてしまう。
「……愛絆さんは面白い子だな」
審査員席からその光景を眺めていた諸塚シェフは微笑を浮かべて夏姫に言った。
「面白いですか?」
「この場では誰もが緊張しながらお菓子を作ろうとするものだ。だが、彼女は違う」
「笑顔。愛絆スマイル。あの子は特別なんですよ。普段は感情表現がさほど豊かな子ではないのにお菓子作りが大好きだから、楽しくて笑ってしまう」
その笑みが夏姫には安心感を与えてくれる。
ああやって笑えていると言う事は心に余裕があるということ。
普段の愛絆が本調子を取り戻したことに期待できる。
「楽しくて、か。なるほど、彼女はずいぶんと成長してるようだ。技術だけではなく、心の方も前とは全然違うのだな」
「……精神面の成長は最近ですけどねぇ」
それは、夏姫ですら驚く変化ではあった。
つい最近までお菓子作りをやめてしまうほどの面たるの弱さ。
それをどうにかギリギリ克服したのだから。
会場内が愛絆に注目する中でも、彼女は自分の料理の手を止めることはない。
完全に集中しきっており、まるで影響を受けていない。
その様子を眺めていた諸塚シェフは苦笑い気味に、
「キミたち、美少女の微笑みに見惚れるのは良いが、手を止めている余裕はあるのかな? この日のために努力を重ねてきたのだろう?」
その声にハッとする面々は自分たちのお菓子作りに再び集中する。
「見惚れる気持ちは分かる。まるで魔法だな。競う相手すらも魅了してしまう」
「それが彼女の持つ魅力なんです。愛ちゃんはとても純粋ですから」
パティシエとなるすべての人間が持つ単純な感情。
お菓子を作るのが好き。
愛絆のお菓子作りの想いが純粋ゆえに、多くの人間がそれに影響を受ける。
「技術力も表現力も他の子とはレベルが違う。あの子の将来がとても楽しみだ」
パティシエとしての将来性への期待。
プロの彼らに期待させるほどに、愛絆に再び輝きが戻り始めている。
「……愛ちゃん。貴方のホントの実力、私達に見せて」
愛絆を見つめる夏姫は口元に笑みを浮かべ、可愛い弟子の成長を見守っていた――。