第13話:情熱のティラミス
「涼介センパイ」
帰り道、愛絆は涼介に誘われた。
あの件から数日が経って、2人の距離は近づいていた。
傷心の彼女は涼介の優しさに甘えていたのだ。
「愛絆ちゃん。今日は寄り道していこうか?」
「いいですけど。私、カラオケとか全然ダメですよ?」
「俺も苦手な方だね」
愛絆を連れて涼介が向かったのはスイーツストリートの一角。
あの場所に近づくにつれ、彼女の顔色が曇る。
「……センパイ」
「姉さんの店には行かないよ」
「今の私にはおふたりに合わせる顔がありません」
彼女達からも逃げ出した。
その事実が愛絆をさらに苦しめる。
「お菓子を作らないのは分かってる。でも、お菓子が嫌いになったわけじゃないんだろ」
「それは……」
どんなに悩んでも。
どんなに苦しくても。
お菓子を嫌いにはなれなかった。
それは彼女が心の底からお菓子が大好きだからだ。
「だったら、俺に付き合って。ほら、このお店だ」
そこは愛絆も知るお店のひとつだった。
「ここって、確か」
お店のメインの洋菓子はプリンやクレームブリュレ。
コンビニスイーツとは全然違う本物の味を楽しめる。
「この前、愛絆ちゃんが本物のクレームブリュレはもっと美味しいって言うから姉さんに聞いたんだ。買ってきてもらったらすごく美味しくてさ」
「コンビニスイーツと本物はやはり違うでしょ」
「そうだね。クオリティーの差って言うのは感じたよ」
「濃厚な甘みこそがクレームブリュレの魅力なんです」
「とはいえ、今日の目的はそれじゃないけどね」
お店に入ると、涼介はあるメニューの注文をする。
「ティラミスをふたつお願いします」
「ティラミス?」
ティラミス。
スポンジケーキにマスカルポーネチーズを使って作ったケーキだ。
上部にココアパウダーを振りかけている。
日本でも有名なイタリアンドルチェである。
「ここのティラミスは美味しいらしいよ。愛絆ちゃんは好き?」
「ドルチェとしては定番ですよね。男の人の方が好きかもしれません」
「甘さ控えめ、男のスイーツ。コンビニでもよく売ってるよ」
甘みが抑えられているため、男性でも好んで食べる洋菓子だ。
注文していたティラミスが運ばれてくる。
「美味しそうなティラミスですね」
「どうぞ、おめしあがりください。お嬢様?」
「ふふっ、いただきます」
ココアパウダーの風味が口に広がる。
しっとりとしたスポンジケーキにしみ込んでいるリキュール。
この独特の深い味わいこそがティラミスの醍醐味だ。
「美味しいですね。こういう味を好む男性は多そうです」
「うん、甘さがくどく無くて食べやすい」
「……ティラミスですか」
愛絆はふとティラミスを食べるフォークを止めた。
「センパイはどうして、私にこれを食べさせたかったんですか」
「愛絆ちゃんなら意味が分かるはずだけど」
そう、ティラミスにはある意味がある。
あえて今日、失意の愛絆に涼介が食べさせたかった理由。
――センパイはちょっとカッコつけな所があるんだなぁ。
悪い意味ではない。
素敵な男性だと愛絆は評価する。
「お菓子が好きだと聞いてましたけど、こういう意味も知ってるんですね」
名前の意味を知る彼女は微笑を浮かべながら、
「イタリア語でティラミスって『貴方を元気づけたい』って意味です」
「正解。よくご存じで」
涼介は柔らかな表情で答えた。
ティラミスは「元気を与えたい」と言う意味を持つ。
落ち込んで暗い表情ばかりを見せる愛絆を何とかしたい。
そんな涼介が考えたものだった。
「センパイの想いは嬉しいですよ。こんな風に私を想ってくれるなんて」
「愛絆ちゃんの笑顔が俺は好きだからさ。曇った表情はしてほしくない」
「……センパイは優しいですね。だから、甘えたくなるんです」
涼介と言う存在がいてくれるからこそ。
愛絆はひとりでふさぎこまなくて済んでいる。
――大した理由も聞かずに私の傍にいてくれる。
何があったのか、愛絆はあの日の出来事をまだ涼介に説明できていない。
それでも彼は彼女の力になろうとしてくれている。
「センパイ。私の話を聞いてくれますか?」
「……うん」
ようやく覚悟ができて、彼女はなぜお菓子作りをやめたのかを話し出した。
消せない記憶、自分の過去。
過去のコンテストで失敗したという過去が今の自分を縛り付けている。
最近はそれが表に出始めて、挑戦的な意欲を牛わせてもいた。
そして、そんな愛絆を夏姫は成長していないと気づいていたのだ。
「前々から自分でも思っていたんです。失敗を怖がっているって」
「失敗してしまった過去があるから」
「えぇ。同じ過ちを繰り返さない。最初はそう意気込んでいたんですよ」
それなのに、どうしてこうなってしまったのか。
「昔は失敗してもいいから自分の好きなように作っていたのに、それができなくなったんです。自分で食べて楽しむ分には満足できます。失敗しても、自分ならば評価を気にすることもないですし」
「……自信か」
「結局はそれなんでしょうね。私は自分の作るものに自信が持てなくなってしまっていました。本来の私のスタイルとはかけ離れていて、安定を求めはじめて」
毎日、作り上げる事で技術は格段にあがった。
だけど。
それだけでは人は成長できないものなのだ。
「夏姫さんに怒られてしまいました。安定を求めるなんて早すぎる。プロのパティシエではない、素人である私がするべきことじゃないって」
「……アマチュアだからこそできることがある」
「そう言う事です。玲奈ちゃんはそれができていて、眩しく見えました」
それこそが、今の愛絆と玲奈の明確な差だ。
失敗を恐れず、挑戦的であるか否か。
愛絆は持ち前の技術力に頼り切って、挑戦することをやめてしまった。
それが夏姫に責められた理由であり、愛絆自身も一番傷ついたものだった。
自分で分かっていたことを他人に指摘されることほど辛いものはない。
「お菓子作りをやめる。それは逃避かな」
「逃げたっていいじゃないですか。嫌々になってまでやることじゃないです」
「……愛絆ちゃん」
彼女のプライドを大きく傷つけて、自信も喪失した。
何もかも失ってしまい、やる気もなくなった。
――今の私に、何ができるって言うの?
このままやめてしまった方がいい。
そう繰り返し、愛絆は自分の心の中で悩み続けていた。
――どうせ、私には才能なんてなかったんだ。
冷めてしまった気持ちを立て直せないままでいる。
そんな愛絆をポンッと涼介は頭を撫でて励ます。
「いいんじゃないかな。やめちゃっても」
「え?」
「無理してやる必要はないし。お菓子が好きならこうして、お店で食べればいい。美味しいものを食べるのに、自分で作る必要はないんだから」
涼介の予想外の言葉に愛絆は軽く戸惑った。
どこかで諦めないで、という言葉を言ってくれるのだと思い込んでいたからだ。
「愛絆ちゃん自身がもう一度やりたいって言うのなら応援するよ」
「はい……」
「だけど、そんなに辛い顔をしてるのに、それでもお菓子を作れなんて俺には言えない」
「涼介センパイ」
「俺はお菓子を作る愛絆ちゃんの笑顔が好きだ。キミはお菓子を作る時に素敵な笑顔を見せるから。自分では気づいてないかもしれないけども」
最初にあった頃を愛絆は思い出した。
マドレーヌを作る彼女を見て、涼介は言ったのだ。
『キミは楽しそうにお菓子を作るんだね』
あの試験の日は、笑顔を浮かべていただろうか?
今の自分は純粋にお菓子作りを楽しめていない。
「楽しくてしょうがなかった頃の気持ちを取り戻せるまで、お菓子作りはやめます」
「でも、もう一度したくなったら、その時は俺のために作ってくれるかい?」
「その時はセンパイのために作りますよ。もう一度は来ないかもしれませんが」
愛絆の決断を涼介は受け入れた。
店内に響くクラシックのBGMを聞きながら、再びティラミスを食べ始める。
「ねぇ、センパイ。ティラミスのもう一つの意味って知ってます?」
「もう一つの意味? 他に何かあるのかな」
「イタリアではティラミスは大人のデザートなんです。『私を恋人にして』って意味もあるんですけど、そちらの意味はご存じなかったようですね」
「……あ、あはは。そうなんだ。それは知らなかったな」
涼介が苦笑いすると愛絆はふっと顔を近づけて、
「涼介センパイ……私を恋人にしたいって思ってくれてます?」
艶っぽい唇で彼女は甘く囁いた。
情熱のティラミス。
ふたりの恋はもう始まっている――。