第10話:子猫は逃げ出した
――こんははずじゃなかったのに。
愛絆は唇をかみしめながら、そっと涙を流した。
「レナちゃんは将来、パティシエになると言う夢がある。それに向かって、ずっと挑戦しているわ。今回もそうだった」
「桜瀬さんのお菓子も技術は……」
「愛実の言う通り、技術はあるわ。だけど、何て言うのかしら。技術があるからこそ、小手先だけでお菓子を作っていた感じがするの」
愛絆の作ったアップルパイは味も美味しかった。
それは夏姫が期待したものではなかったけれど、十分に評価には値する。
なのにも関わらず、これだけ厳しい事を告げるには理由がある。
「最近、コンクールに出すお菓子に挑戦的なものを感じられない。そう思ってた」
「でも、桜瀬さんは優勝だって何度もしてますよ、店長?」
「技術も実力もあるから優勝はする。だけど、絶対に失敗しない自信のあるものしか作らない。今回の事で私は確信したの」
夏姫が愛絆のお菓子作りを見て、失望したのはその点だ。
昔のように失敗してもいいから挑戦的な意欲が感じられなくなってしまっていた。
「愛ちゃんはパティシエになる気がない。自分の満足できるお菓子作りができればそれでいい。そう思ってるんでしょう」
「……はい」
「どうして逃げてしまうの? もっと頑張れるはずなのに、頑張ろうとしないの?」
情熱に溢れていた頃の愛絆を知る夏姫はそれが悔しいのだ。
昔の彼女ならば、いろんなことに挑戦した。
パティシエにだってなりたいはずだった。
間近で見てきたからこそ、夏姫にはそれを素直に認められない。
「失敗を恐れずに何でもチャンレンジしていた。あの頃のような情熱がなければ、貴方はこれから先、成長することができないわ」
実際、愛絆と違い、常にパティシエになりたいと言う夢に向かって努力する玲奈の成長を彼女自身も感じ取ることができた。
「今、レナちゃんと愛ちゃんの間には少しずつ差ができ始めている。それを愛ちゃんも感じたでしょ。このままでいいの?」
成長を続ける玲奈と正反対に停滞してしまっている。
「今は少ししかないその差はいずれ大きな差になるわ。それがプロになるか、アマチュアでいるかの明確な差よ。愛ちゃんも分かってるでしょう?」
愛絆にはパティシエになりたいと言う強い目標がない。
だから、必死になれないでいるのだ。
「今の貴方には必死さが足りてない」
「私は……」
「失敗する事が怖いのは誰だってそう。貴方だけじゃない。パティシエならば誰もがそこに立ち向かいながらも、パティシエとしての仕事をこなしてるわ」
「そうだよ。私なんて何度失敗して店長に怒られてるか」
「ホントよね。単純ミスばかりで困ってばかり」
愛実は「そこはスルーしてほしい」と話ながら泣きそうだった。
「こんな愛実ですらパティシエになれているのは、失敗してもくじけないから。そのミスをミスで終わらせていないからよ」
どんなに自信のあるお菓子を作っても。
それが他人に受けいれられるとは限らない。
数多くの失敗と挫折を繰り返して、一つの成功をつかみ取る。
その成功体験が自信となって、人は成長するのだ。
失敗を恐れてしまう事で、挑戦をしなくなってはいけない。
愛絆の欠点を夏姫は克服してもらいたかった。
「このまま成長もできないで、立ち止まったままでい続ける気なの?」
愛絆に対して奮起を促すつもりだった。
厳しい言葉は彼女に対する期待があるからだ。
だが、しかし――。
「……めます」
「え?」
夏姫からの叱責に愛絆は小さな声で答えた。
「――私、お菓子作りをやめます」
それはその場の誰もを震撼させる言葉だった。
涙を瞳に溜め込みながら、愛絆は静かにそう告げた。
「な、何を言ってますの、愛絆さん?」
「そうだよ。桜瀬さんがお菓子作りをやめるなんてそんなの冗談でしょ!?」
愛実も玲奈も驚きを隠せずに戸惑うばかり。
下を向いて俯いたままの彼女は、
「前から思ってました。パティシエには向いてないって。だから趣味でもいいから続けていようって。でも、そうしてやってきたのがこれじゃダメですね」
愛絆にとっての完全なる自信の喪失。
「好きだからダラダラと続けていただけで、成長していないって言うのは当然かもしれません。あはは……私は何を無駄なことを続けてきたんでしょうね」
夏姫は彼女のうたれ弱さを知っていた。
それを乗り越えられると思っていたし。
これからも成長を続けてくれると信じていた。。
それなのに――。
「私、自己中心的だし、面倒くさがりやなんですよ」
「愛ちゃん」
「元から他に人対してお菓子を作るのも苦手ですし。何も成長してない。皆さんの言う通りです」
失笑気味に小さく笑う彼女。
それはとても辛そうに見えた。
「……愛ちゃん」
「ごめんなさい。夏姫さんを失望させてしまいました」
彼女は頭を下げて謝罪する。
「こんなダメな私に期待してくれていたのに……ごめんなさい」
それは愛絆の悪い癖。
いつだって嫌な現実から目を背けてしまう。
彼女は立ち上がると、そのままお店から出ていこうとする。
「ま、待って、愛ちゃん……。これだけは聞いて」
そんな愛絆を夏姫は引き留める。
出ていこうとする愛絆はかろうじて足を止めた。
それは、傷心の愛絆をさらに追い詰めるような事実だった。
「三週間後の七夕コンテストの審査員も決まったの」
「え?」
「あの諸塚シェフが来てくれることになったらしいわ。思い出して。あの時の苦い記憶を。愛ちゃんにとって、リベンジをするべき相手でしょう」
「――!?」
諸塚シェフと言う名前を聞いただけで愛絆は顔を強張らせる。
それは彼女にとって、心の傷と言う意味で因縁のある相手。
諸塚シェフの前で過去に忘れられない失敗をしてしまった。
数年前の悪夢、その相手が再び……。
「……そう、なんですか。でも、私には関係ありませんよ」
「愛ちゃん!? 逃げないで。お願いだから!」
「夏姫さん。私は……もうお菓子作りをやめるって決めたんです」
力のない声で彼女はそう答えた。
「お疲れ様でした。失礼します」
もう彼女は立ち止まらなかった。
後ろを振り返ることもなく、足早にお店から出て行ってしまう。
シーンと静まり返る店内。
後を追いかける事もなく、店に残された3人はそれぞれ深いため息をつく。
「お菓子作りをやめるなんて。愛絆さん。どうして、あんなことを……」
「ホント、びっくり。店長も桜瀬さんに言いたい事を言いすぎたのでは?」
「……言いすぎたと言うか、言葉が足りてなかったと言うか」
夏姫もここまで責めるつもりはなかった。
打たれ弱いあの子に説教は逆に悪影響だと知っていたからだ。
それでも言葉が出てしまったのは……。
「私の想像以上に愛ちゃんがダメになっていたんだもの」
「店長?」
「そんなの、我慢なんてできない。怒る時は怒るし、その事実を教えてあげたいと思ったのよ」
大事な愛絆の才能が潰れてしまう様を見るのは、耐えられなかった。
叱咤激励して、乗り越えるべき壁を乗り越えて欲しかった。
「くっ、この役目を愛実に押し付けようと思ってたのに、私が想像していた以上にあの子に思う所があって責めてしまったわ」
「そんな嫌な役目を人に押し付けようとしないでもらいたいんですけど」
「ぐすんっ。嫌われた……愛ちゃんに嫌われた」
がっくりと肩を落として嘆き悲しむ夏姫に愛実は焦りを感じる。
この展開はまずい。
「ど、どうしよう、店長がめっちゃ落ち込んでいる。明日のお店が心配だわ」
「……大丈夫ですわよ。どんなに辛くても、プロは逃げません」
「そうだと信じたい。けど、この人、桜瀬さんが好きすぎてマジで大丈夫か心配だわ。店長、ほら、元気出してください。これから飲みに行きましょう。ねぇ?」
必死に夏姫を励ます愛実だった。
今回の騒動で玲奈にも思う所があった。
それは親友に対してのこと。
「愛絆さんはその覚悟がない。前から感じてました。あの子は本気でお菓子作りに向き合っていないって……これはなるべくしてなった結果なのかもしれません」
「玲奈さん?」
「私も失礼しますわ。おふたりとも、今日の勝負、いい経験になりました。私は逃げませんよ。次のコンテストでも、結果を出して見せます」
玲奈は寂しそうに顔をしかめながら、
「……例え、ライバルがいなくなっても私は自分のするべき事をするだけです」
そのまま一礼してお店を立ち去る。
ふたりだけの店内、愛実は後片付けをしながら、
「玲奈さんはメンタル強いなぁ。最後のアレ、絶対に本心ではないけど」
「あの子達はライバル同士。これまで、親友以上の関係を続けてきたんだもの。見守り続けてきた私達以上に思う事はあるはずよ」
「桜瀬さんは本当にこのままお菓子作りをやめてしまうのでしょうか?」
「……それはあの子次第。この試練を立ち直れるかどうかね」
愛絆が再びお菓子作りに挑戦できるか。
「これ以上は私達に何かできる問題ではないわ。彼女自身が自分で乗り越えていかなければいけない問題だもの。しょうがない」
「あ、あのー、店長? 言葉のわりにめっちゃ身体が震えてるんですけど?」
冷静な言葉とは裏腹に、彼女は動揺しまくっている。
普段の夏姫からは想像できない程に。
「うわあああああ!! どうしよう、どうしよう!?」
「て、店長?」
「このまま、本当に愛ちゃんがお菓子作りをやめちゃったらどうしてくれるの!?」
愛実の身体を掴みながら彼女は後悔まるだしで、
「私の大好きな愛ちゃんがもうお店に来てくれなくなったら、私は耐えられないし、すごく寂しい。 あー、もうっ。私もどうして言葉を選ばなかったの」
「お、落ち着いてください、店長!? だ、大丈夫ですよ、きっと。多分」
「多分? その多分ってなに? もしも来てくれなくなったら責任とれる?」
「……え、えっと。軽率な発言でした、ごめんなさい」
予想通り、愛絆に嫌われて夏姫の心が折れそうになる。
慌てて愛実はフォローに回る。
「そもそもアンタのせいでもあるんだからね!」
「うわぁ、やっぱり、私に責任を押し付けて来るし」
「うぅ、愛ちゃん……ごめんね、ごめんね。怒るつもりはなかったのよ」
「……面倒くさい人だなぁ。あっ、今の失言は聞き流してください!?」
ショックを受けて錯乱する夏姫を必死で慰める愛実だった。
臆病者な子猫は逃げ出した。
愛絆は再び立ち直れることができるのだろうか。
「……ぐすっ」
愛絆は夜の繁華街を泣きながら歩いていた。
作ったお菓子にも自信があったつもりだった。
そんなアップルパイが低評価で、さらに夏姫から厳しい言葉を浴びせられてしまうなんて、彼女は考えもしていなかった。
――夏姫さんに怒られるのも仕方ない。
自分でも薄々気づいてはいた。
ここ最近、大きなコンテストでは満足な結果を出せていなかったことも。
挑戦的で自分らしいお菓子を作れずにいたことも。
――でも、これまで何とかうまくいってきたから気にせずに来た。
それを持ち前のお菓子作りの技術で何とか誤魔化してきた。
幸か不幸か、それでも良い結果がついてきていた。
愛絆は嫌な現実を直視するのが耐えられない。
「これでいいんだよね……私は、もうお菓子を作らない」
涙をポロポロと零しながら、彼女はそう呟いた。
逃げるのは楽だ。
嫌な現実から目を背けてしまうのは簡単だ。
これまでもその楽な方へと逃げ続けてきた。
「……もっと前からそうすればよかったのに」
お菓子作りを続けていれば、いつかはこういう現実が待っていたのに。
それが分かっていて、どうして続けていたのか。
「私は……うぅっ……」
大好きな夏姫からの言葉が胸を貫く。
『愛ちゃんには失望したわ』
それが何よりも悔しくて、寂しくて辛かった。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
心の中で何度も夏姫に謝り続ける。
――夏姫さん。私、私ね……貴方みたいにずっとなりたかったのに。
憧れていた人が自分にどれだけ期待をしてくれていたのか。
それを知っていただけに愛絆自身も裏切ったことが辛いのだ。
「……愛絆ちゃん?」
それは偶然だったのか。
静かに泣き続ける愛絆の目の前に現れたのは、
「大丈夫? どこか痛いの? 誰かに何かされた!?」
心配そうな顔をして、こちらに近づいてきた男の子。
それはここ最近、愛絆が心を許し始めていた人。
「涼介センパイ……?」
「そうだよ。びっくりした、いきなり泣いてるんだから。どうしたの?」
涼介が愛絆を安心させようとする。
優しい声色に、愛絆は思わず彼に抱き付いていた。
「愛絆ちゃん?」
「ぐすっ、うっ……ひっく……」
込み上げてきた涙が止まらない。
「センパイ……私は……」
抑えきれない感情。
人は悲しい時には涙を流す。
悔しい時にも涙を流す。
今の愛絆の瞳から流れるのは、どちらの涙か。
両方か――。
「うぅっ、ぁあああっ……」
彼に抱き締められたまま、愛絆はただ泣いた。
辛くて、どうしようもなくて。
「……愛絆ちゃん」
夜の繁華街、愛絆を涼介は何も言わずに抱きしめつづけた。
その包容力が今の彼女の心を包む。
――センパイ。私、自分がどうしたいのか分からなくなっちゃった。
暖かな温もり。
彼の温もりに包まれながら、彼女の瞳から涙がこぼれ続けていた――。