第9話:涙のアップルパイ
夏姫の前に出来上がったアップルパイが並ぶ。
どれも見た目は美味しそうだ。
「さて、それじゃ実食と行きましょうか」
まず、最初は愛実の作ったアップルパイ。
林檎を丸ごとひとつ使ったもの。
リンゴの芯をくり抜いて、その中に砂糖、バター、シナモンなどを入れる。
それをパイで包んで焼けば出来上がる。
「愛実がこれをチョイスするのは意外だったわ」
「私もパティシエとしての腕を見せたくて」
「プロのパティシエさん? 未だによくルセットを間違えるのはどうかと思う」
「うぐっ。た、たまにじゃないですか」
時折、ルセット=レシピを間違えてしまうミスをする愛実である。
その辺はまだ二年目のパティシエ、彼女もまだ成長途中だ。
とはいえ、夏姫も「見た目のインパクトはある」と評価する。
「いただきます」
愛絆と玲奈も一口ずつ食べて味を確認する。
リンゴとパイの一体感。
リンゴそのものを食べているかのようで、味わい深い。
「焼きりんご。リンゴの味を活かしたパイになってる」
「美味しい。こういうアップルパイは初めて食べましたわ」
「うん。リンゴの食感がちゃんと残ってるのがすごい」
ふたりも納得の美味しさ。
愛絆はリンゴの芯があった所に詰められた白いクリーム状の味が気になった。
独特の風味はカスタードクリームでも、生クリームでもない。
「これってもしかして……チーズが入ってます?」
「気づいてくれた? そうなの。クリームチーズを入れてるんだ」
「なるほど。チーズのコクに、シロップ漬けにしたリンゴの組み合わせですか」
「大胆さと繊細さ、このバランス感はさすがにプロのパティシエと言えますね」
玲奈は「愛実さんの事を評価し直します」と味を認めた。
パティシエの仕事しては申し分のない一品だ。
――さすが、メグさん。良いものを作る。
なんだかんだと言いつつも実力はある。
このリピュアで働くパティシエなだけはあった。
「次は玲奈さんのアップルパイね」
玲奈の作り上げたアップルパイ。
他の物とは違い、カスタードクリームがたっぷりと入っている。
ただのカスタードではない、リンゴの風味を加えたアップルカスタード。
「なるほどなぁ。アップルカスタードできましたかぁ」
「カスタードクリームの中にもリンゴの果汁を加えてある。これで風味は倍増するもの。これもアップルパイのひとつだね、玲奈ちゃん」
「カスタードクリームを使ったお菓子はレナちゃんのスペシャリテ。得意分野ではあるけども、これもまた美味。くどくない甘さに仕上げてあるわ」
夏姫が評価したのはそのカスタードクリーム自体の出来の良さ。
口の中でとろける甘さのバランスがいい。
得意であるカスタードの魅力を引き出し、さらにリンゴの風味を活かす。
アップルカスタードがアップルパイの味わいを引きだてる。
「レナちゃんの成長を感じさせる味だわ」
「むむっ、私もこのカスタードの味は出せないや。カスタードクリームを使ったお菓子対決なら負けてたかもねぇ」
「本職のパティシエに褒められると照れくさくなりますわね」
「レナちゃんは元からパティシエになりたいと言う意識が高いから尚更だわ」
彼女達がクオリティの高さに驚く。
――やっぱり、玲奈ちゃんはすごい。
父親や兄がパティシエである玲奈。
彼女もパティシエと言う夢を追いかけている。
――相手にとって不足なし。玲奈ちゃんと七夕コンテストで対決するんだから。
玲奈の実力を垣間見た愛絆も侮れない相手だと再認識する。
「それじゃ、愛ちゃんのアップルパイをいただきましょうか」
最後は愛絆の作ったアップルパイだった。
まさに王道、これぞアップルパイだと言える定番の形をしたものだ。
網目模様に焼き目がついてこんがりと香ばしい匂いがする。
切り分けると中から甘いざく切りのリンゴが飛び出す。
「いい出来ですわねぇ。さすが愛絆ちゃん。これは見事です」
「ホント、素敵。定番タイプなのに、これだけの味を出せるなんて」
「クレームダマンドのしっとりとした甘さが印象的なパイね」
クレームダマンド。
フランスの洋菓子では定番のアーモンドクリームのことである。
バターと砂糖、卵をかき混ぜて、その中にアーモンドプードルを入れて作る。
カスタードやホイップと同じクリームの一種で、洋菓子には定番なものだ。
「クレームダマンドとジューシーな焼きリンゴの相性が抜群ね」
「シナモンの匂いが香る。食欲をそそるわ。さすが桜瀬さん」
「んー、程よい甘みがクセになる。まさに王道のアップルパイですわ」
アップルパイの出来もよく、皆が満足できる味だった。
実食終了。
「……さて、3人のアップルパイも食べ終えたし評価と行きましょうか」
夏姫の中で三品の評価を採点する。
メモ書きして沈黙する彼女を前に独特の緊張感が走る。
「う、うわぁ、どうしよ。めっちゃ、緊張してきた」
「メグさん、そこまで気にしなくても」
「だって、一位じゃなくて最下位だったら私の明日はないわ」
愛実が顔を青ざめさせるには理由がある。
思わぬ失言から無意味に自分を追い込んでいるのだ。
「それ、自業自得なのでは?」
「ですわよねぇ」
「ぐぬぬ。ふたりが冷たい。お姉さんのピンチなのに」
玲奈はと言えば結果を知りたくてうずうずしている。
「愛絆さん。これは前哨戦とはいえ、勝ちに行きますわよ」
「……私も負けるつもりなんてないよ」
「さて、プロのパティシエに食らいつけたかどうかですわね」
愛絆も自信作で、負ける気はない。
審査を終えて夏姫が皆に労いの言葉を告げる。
「お疲れ様。味と見た目、クオリティーは三者三様でどれも素晴らしかったわ」
「うぇーん、店長。もう順位の発表はやめませんか?」
「アンタはビビりすぎ。失言の事なら忘れてあげるから自信を持ちなさい」
「ふわぁーい」
すっかり年上の余裕もなく、愛絆にもたれる愛実だった。
よしよしと、その頭を撫でる。
「桜瀬さん優しい。その調子で私に負けて」
「発言がよろしくないです」
「自信がないよぉ。桜瀬さんのアップルパイ、美味しかったし」
色々と追い込まれている愛実である。
そして、順位の発表が行われる。
「それじゃ、結果を発表するわ。覚悟は良い?」
「……どうぞ」
「一位は……」
三人の顔を眺めて、夏姫はその名前を口にする。
「悩んだけども、愛実。貴方よ」
「やった。プロとしての面目躍如!」
「……プロとしてなら、この面子で独走するくらいの勢いが欲しかったわね。二位とは僅差。そこに差がほとんどなかったもの」
「ぐふっ。こ、これからも努力します」
愛実はシュンっと勝ったのにうなだれる。
――メグさんには負けちゃった。でも、二位は私だ。
自分でもそうだと思い込んでいた。
「二位は……」
だが、現実は思わぬ波乱を巻き起こす。
「二位はレナちゃんよ」
その場の空気が一瞬、ざわついた。
「え? 私ですの?」
「よく頑張ったわね。正直、ここまで急成長しているなんて思わなかったわ。一位の愛実とは僅かな差。私の中で最後までどちらかで迷ったの」
「あ、ありがとうございます。自信になります」
「もう少し、カスタードに頼らず、アップルパイの質をあげていれば貴方の勝利だったわ。これからも精進しなさい」
素直に認められて嬉しそうに笑う。
そんな玲奈をよそに愛絆はショックを受けていた。
このメンバーで最下位になるのは彼女の予想外。
自惚れていたわけでも、侮っていたわけでも、驕っていたわけでもない。
だけど、実力者を相手に負けたと思ったほどの致命的な差はなかったはずだ。
夏姫は残念そうに言うのだ。
「……最下位は愛ちゃん。正直、味のみならば、貴方が一番だった」
「それじゃ、どうしてですか!?」
夏姫は愛絆を真っ直ぐに見つめる。
最下位、敗北の理由が理解できない。
「分からない?」
「分かりません」
「……私は勝負の前に言わなかったっけ。この課題について」
「アレンジが足りていなかったと言う事ですか?」
確かに二人に比べて愛絆はアレンジが不足していた感はある。
しかし、王道とはいえアップルパイの味には一定の評価はされていたはず。
「スタンダードタイプで勝負しても、そこに私をうならせる創意工夫があれば別。だけど、愛ちゃんのはただ、美味しいだけのアップルパイだった」
「美味しいだけじゃダメって事ですか?」
「私はこうも言ったはず。失敗してもいいから成長を見せて欲しいって」
課題のアップルパイを作る際に夏姫は言った。
『愛ちゃんもレナちゃんも失敗してもいいから、今の自分にできる精一杯の物を作って見せてくれるかな。私は貴方達の成長が見たいのよ』
それが夏姫の想いだった。
今回の課題の本当の狙いだった。
思わぬ批判に愛実と玲奈も驚きを隠せない。
「ま、待ってください。愛絆さんのアップルパイの味は素晴らしいものでした」
「そうですよ、店長。その、お店で出してもいいくらいによかったですよ」
「……ふたりとも、一緒に料理していて何も感じなかった? 愛ちゃんはすごい子だわ。私は昔からこの子にはすごく期待していたし、情熱も感じていた」
厨房に響く冷たい夏姫の声。
それは、彼女にも辛い一言だった。
「だけど、あのアップルパイは違う。あれは愛ちゃんの料理ではない」
愛絆はその顔を満足見れずに顔を背ける。
――こんな風に夏姫さんに叱られるのは初めてだ。
そこで初めて気づくのだ。
「私のお菓子は夏姫さんを失望させましたか?」
失望とあえて自分から言った。
期待してくれてた。
その期待値に自分は応えられなかったのだ、と。
「失望したわ」
はっきりとした口調で肯定する。
「店長!?」
「愛実。貴方も感じたはずよ。この課題なら、愛ちゃんは普通のスタンダードなものを出すわけがない。だって、愛ちゃんの洋菓子は意外性に満ちているもの」
ずっと愛絆を見てきて、特別扱いしてきた。
溺愛して、妹のように可愛がってきた。
そんな夏姫だからこそ、今の彼女のふがいなさが分かるのだ。
「確かに味もクオリティも素晴らしいわ。そこに文句はない。技術だけで言えば、愛実以上のものがあった。味で言えば、玲奈ちゃんの上だった。なのに、どうしてこんな順位なの?」
夏姫は逆に不思議でしょうがないのだ。
「アップルパイ。かつて、コンテストに出た時、愛ちゃんがこの課題で作った物を覚えてるわよね?」
「……ローズアップルパイです」
震えるような小さな声で愛絆は答えた。
“ローズアップルパイ”。
一口サイズのアップルパイに薔薇の花が咲き誇る。
リンゴを薄くスライスしたものを、まるで薔薇の花のように飾り立てる。
見た目の華やかさと可愛さが人気のアップルパイだ。
「ローズアップルパイは見た目を綺麗に作るのが簡単そうに見えて大変なの。小学生だった愛ちゃんが初めて作った時は失敗もしたわね」
「花びらになるリンゴが焦げてひどい事になったり、うまくパイの上で花が咲かなかったりしましたね。失敗ばかりして、ひどかったものです」
夏姫の指導を受けてようやくまともな形になった。
失敗したと言う経験の記憶。
「だから、私は今回、そのリベンジをしてくれるんじゃないかって期待していたのよ」
「あっ……」
「貴方は負けず嫌いな子だったもの。この課題ならあれを思い出すはずだって。あの時とは違う、成長を見せてくれるんだって。だけど、違った。あまりにも普通なものだった」
愛絆の脳裏に過去の記憶が蘇ったことは確かだ。
それでも挑戦しなかったのは……。
「失敗することを恐れたのね。愛ちゃん」
図星だった。
「今回のアップルパイは技術的にもよくて、味もいいのに。そこに情熱と挑戦を感じられなかった。貴方は失敗を恐れ挑戦するから逃げたの」
「そんなことは……」
「違わないでしょ。自分でも分かっていて、これを勝負に出したんだもの」
「夏姫さん……私も愛絆さんに同じことを感じていましたわ」
苦い顔をする玲奈もまた同じ気持ちを愛絆に抱いていた。
それは調理中に感じた違和感のようなもの。
「普通のアップルパイを作っていたので意外に思っていました」
親友ゆえに、それが彼女の持ち味を損ねていると気づいていた。
「愛絆さんならば、もっと独創性のあるものを作ります。面白味のない安定したものを作るより、意外性のある挑戦的なスタイルが愛絆さんです」
かつての愛絆はそうだった。
ありきたりなものよりも、自分にしか作れないものを作ろうとした。
それを知るからこそ、彼女達には今の愛絆が昔と違うように見える。
「こういう安定した味を作るのはパティシエになってからでいい。今の貴方はアマチュアよ。素人らしく、プロにはない挑戦的なスタイルでいいのに」
夏姫は愛絆にかつてあったものがなくなっていることに気づいていた。
失敗と言う記憶が、彼女から挑戦的な情熱を奪っていたことに。
「失敗したくないから、確実に安定した物を作る。それが悪いとは言い切れない。だけど、愛ちゃんのスタイルではない。私が貴方に期待していたのはそんなものじゃない」
厨房に響く厳しい叱責に愛絆は静かにうなだれる。
「……ぁっ……」
――この勝負、敗けたのは自分のせいだ。
愛絆は挑戦をしなかった。
勝ち負けというレベルではない。
勝負に立ち向かおうとしなかった、自分自身が敗因なのだ。
そのクールな瞳から一滴の涙が零れ落ちた――。