プロローグ:出会いのマドレーヌ
可憐な少女が鼻歌交じりに美味しそうにパンケーキを食べている。
色白で線の細い身体、ショートカットの黒髪の美少女。
名前は桜瀬愛絆(おうせ あいき)、高校一年生の少女である。
幸せそうな表情で彼女は至福の時間を過ごしていた。
自宅のキッチンで、お菓子作りをするの日課である。
「甘くてたまらない。美味しすぎる」
口の中で広がるのは溶けたバターと、生クリームにハチミツの究極コラボ。
生クリームに混ざるハチミツの甘さ、それを最大限に引き出すのはバターの風味。
何かひとつでも足りなければ、この甘い美味は引き出せない。
「この甘さはずるいわ。反則的だもん。最高に幸せ」
たっぷりの山盛りの生クリームが乗ったハワイアンパンケーキ。
パンケーキを何枚も積み重ねた上に、生クリームとハチミツがかけられている。
とろけるような甘い味に飽きが来ない。
「もちもち、ふわふわ。王道ゆえに、この触感がいいのよね」
いまや人気スイーツであるパンケーキ。
フレッシュなフルーツを添えて、粉砂糖を振りかけている。
生クリームが乗ったパンケーキをフォークで切れば、甘いはちみつとバターが溶けだして見るからに美味しそうだ。
お店で出せるくらいにクオリティーが高い。
これを作ったのは愛絆である。
「んー、この生クリームの山を崩す感覚がたまらないわ」
「……お前はホント幸せそうに食べるなぁ」
「だって幸せなんだもの」
半ば呆れ顔の一つ年上の兄、桜瀬寛太(おうせ かんた)。
「それだけお菓子作りの天才なんだから、パティシエを目指したらどうだ?」
家に帰ってくるなり、満足気にお菓子を食べる妹を見てそう呟いた。
実際に愛絆の腕前は素人ながらも大したものだ。
これまで何度もコンクールやコンテストで優勝している腕前もある。
それでも、彼女にはパティシエになる気持ちはさらさらなかった。
「いやだ」
「即拒否かよ」
「何度でも言うけど、誰かのために作るのは面倒くさいもの」
「それだけの腕前があるのに?」
「私は自分のために最高に美味しい物を作りたいだけ」
愛絆は基本的に誰かのためにお菓子作りをしない。
実力試しにコンテストには出ても、それは自分の実力をあげる経験のひとつでしかない。
「私って、自己中だからね。誰かのためになんて、考えた事もない。パテシィエにはなりません」
「それを自分で言うなっての」」
愛絆は自己中心的で自分本位な方だと、自分でも感じている。
どんなにお菓子作りが上手でも、それは自分自身を満たすため。
お菓子コンクールに出るのも自分の実力を自分で評価するため。
誰かのために作るという行為に意味が見いだせない。
「普通は逆じゃないか。誰かに美味いって言ってもらえると嬉しいだろ」
「嬉しいことは否定しない。でもね、それだけでパティシエになるなんて、単純な人よ。あの職業のモチベーションを維持できるとは到底思えないね」
「そういう言い方をするなよ。そんな性格だから、クラスにも馴染めてないんだろ」
高校に入学しても浮いていると噂程度に寛太は聞いていた。
愛絆は美人な容姿のために、人気があってもよさそうだ。
クールな印象を受ける物静かな態度。
空気をあえて読まず、人と馴染まないために、どこか猫っぽい印象を抱かれる。
男子からも女子からも、一定の距離を置かれていせいで、教室内でも浮いた存在だ。
「それは昔からだから問題なし」
「おーい、少しは気にしろ。放課後、遊び相手もいないんじゃ寂しい日常だろうが」
「どうして? 私の放課後は自分のために美味しいお菓子を作る時間だもの。他人に邪魔される気はない。友達だって3人はいるし、何も問題はないでしょ」
「たった数人程度の友人で自信を持つんじゃないよ」
こういう事を平気で言う妹が心配になると寛太は頭を抱えた。
「例えば、彼氏を作るとか?」
「恋愛なんて、無意味なことはしない。どうせ、高校時代に付き合った彼氏と結婚する可能性なんて低いんだからしても意味なんてない」
「青春を無駄にしてどうする。愛絆は愛の絆って名前なんだぞ」
「……人にどうこう言う前に彼女の一人でも家に招いたら? お兄ちゃん」
嫌味っぽく返されて寛太は苦い顔を浮かべるしかなかった。
「そ、それができたらしてるやい」
先日、寛太は好きな相手に告白してフラれたばかりである。
未だに癒えていない傷口にソルトを塗り込まれた感じでダメージを受ける。
「ふんっ。人様に文句を言うのなら、自分がしてから言うのは常識でしょ。自分にできないことを人に言うのは自分がダメ人間だと証明しているようなものよ」
「そこまで言うか」
「もっと言ってあげてもいいけど?」
「いえ、やめてください。お兄ちゃん、こーみえても打たれ弱いので」
最後の一枚のパンケーキを食べ終えると、愛絆は後片付けに入った。
寛太は「昔の愛絆はこんな面倒くさい女の子じゃなかったのに」と嘆く。
ここまで自己中心的に育ってしまったことが悲しい。
「そうだ、愛絆。あとで友人達が来るんだけどさ。お菓子でも作ってくれない?」
「嫌だ。めんどい」
「……ちょっとは考えるそぶりくらい見せろよ、妹」
「だって、私にメリットがないもの。兄」
肩をすくめる寛太は「メリットとか言うなよ」とふてくされる。。
どこまでも自分本位、自分に素直な愛絆だ。
他人のために何かをすると言う行為がまず欠けている。
他人に喜んでもらう、それすらも自分が満たされるからでしかない。
「メリットねぇ。金銭を要求する気か?」
「あるの? お小遣いの全額をエロ本に費やす人からもらえるとは思わない」
「え、エロ本以外にも使ってるっての。DVDとかゲームとか。決めつけは良くないぞ。ただ、俺にもしもの事があればパソコンは中身を見ずに全削除してください」
「……変態趣味丸出しのパソコンなんて触りたくもない。壁紙が女の子のおっぱい丸出しの写真だった時はドン引きを越して、潰したくなったわ」
彼個人所有のパソコンの壁紙を覗き込んだ時の衝撃を愛絆は忘れていない。
「これが私の血の繋がった兄だと言う現実が私はとても悲しいや」
エロい事にしか興味がない兄に軽蔑の視線を向けた。
その冷たい眼差しに耐えられず寛太は遠い目をしながら、
「げふっ。あ、あれはだな……俺だって、普通の思春期真っ盛りの男の子なんですよ!」
「自制心ってものくらいあるでしょ」
「思春期の男子の性欲を舐めてもらっては困るぜ!」
「自信を持って言わないで、この変態」
愛絆に睨まれながらも寛太は諦めずに、提案を続ける。
「それはおいといて」
「おいておきたくない。どこかに捨てて」
「ひでぇよ。くっ、話を戻すぞ。では、新作のお菓子作りの実験体になります」
これは愛絆にもメリットだ。
いかに料理上手な愛絆とはいえ、新作を作る時は数も作るし、失敗作も生まれる。
一人では食べきれないこともあるゆえに、時には兄を味見の実験体にする。
「へぇ、本当に? 私が今作ってるのはカカオ99%のチョコレートを使用したチョコレートケーキなんだけど? 超絶な苦さで死ねるわよ。さぁ、死んでください」
「何でだよ!? いきなりハードルを上げやがる」
「もしくは激辛スイーツ。激辛のハバネロを致死量ギリギリに使用したケーキとか……」
「やだ、この子、素で怖い。普通のでお願い。お兄ちゃんを病院送りにしないで」
寛太をヤル気満々な様子。
この妹なら平気でやりかねない、と本気で焦る。
「あれもダメ。これもダメ。お前は我がままだな」
「魅力的な提案をできないお兄ちゃんが悪い。交渉力なさすぎ」
「いいじゃん。人にお菓子を作るくらい。何だよ、自信がないとか?」
「安っぽい挑発ね? ふざけたことを言うと本気でカカオ99%のチョコレートケーキを食べさせるけど、いい? 皆さん揃って全滅コースだわ、うふふ」
友人を巻き込んで、全滅の気配。
命の危機を感じる寛太はお手上げポーズで「ごめんなさい」と謝罪した。
そもそも、愛絆が他人にお菓子を作ることは珍しい。
やる気がない、他人に手料理を振舞うという精神が足りてない。
過去のある経験が拍車をかけているのだと言う事を寛太は知っている。
「ところで、何で今日はお友達を集めるの?」
「明日からの中間テストに向けての一夜漬けの勉強会さ」
「ふっ、無駄な努力ね。私のように苦手科目を捨てる覚悟を見せなさい」
「また数学か。お前、高校じゃ捨てたところで追試っていう追い打ちがあるからな。赤点続きで追試でもダメなら留年って可能性もなくはない」
「え? ホントに? 留年になったら、超面倒くさい」
思わず、素で焦る愛絆だった。
中学時代から苦手科目の数学は捨てる気満々だったのだ。
赤点をとっても中学のように、適当に何とかなると思い込んでいた。
「ど、どうしよ? どうしよう? 留年はまずい、非常にまずい」
「……マジで捨てる気だったのか。道理でテスト前に余裕だと思っていたぜ」
「お願いです、お兄ちゃん。お菓子作るので勉強を教えてください」
「えー。そんなにあっさり承諾するのかよ。うわぁ、この妹、超自分勝手」
先ほどあれだけ嫌がってたのに、と寛太も呆れる。
どこまでも自己中心、自分が大事なのがよく分かる。
「い、いいじゃない。交換条件ってやつ。どちらも得するウィンウィンな関係って理想的でしょ。その代わり、ちゃんと面倒をみてください」
「……お前ってホント天邪鬼だよなぁ。そこが可愛くもある」
「なによ。文句でもあるの?」
すがりつくように、顔を青ざめさせる妹を前に嫌とは言えない。
赤点、追試、留年……。
その追い討ちコンボはさすがに愛絆も勘弁願いたい。
急に素直になった妹を可愛い奴めと思いながら、
「しょうがない。お前も混ぜてやるよ。数学に強い友人もいるから頼りにしてくれ」
「……お願いします」
素直になると実に可愛らしい妹だと寛太は思う。
この素直さはあまり維持しないのが問題だけど。
「それじゃ、新作『瀬戸内レモンのマドレーヌ』を食べさせてあげる」
「あぁ、伯父さんからいっぱいおくってきてくれたレモンか」
「そう。瀬戸内の方は温暖な気候だからいいレモンができるんだって」
愛絆たちの伯父は独身者ゆえに旅行好きで、その度に各地の名産品を送ってきてくれる。
今回も瀬戸内海方面で人気のあるレモンを送ってきてくれた。
「マドレーヌとは……?」
「説明が面倒なので割愛」
「してくれよ」
面倒くさがりな妹に説明を求めた方が間違いだった。
「なんだっけ。オレンジのジャム?」
「それはマーマレード。全く違うものだってば」
「長ったらしくカタカナで言われても想像つかんのだ」
渋々、愛絆はマドレーヌの説明を始める。
「フランス発祥の焼き菓子。貝殻型の焼型を使用して作ることが多いの。酸味のあるレモンを使用する事が多くて、レモンを使ったお菓子としては最適。レモンの風味とバターの甘味が混ざり合う事で爽やかな味に仕上がるの」
「お、おぅ。美味そうだな?」
「お兄ちゃんみたいにこだわりのない人に説明しても無駄か」
「そんなことないぞ! ……爽やかな味、と言う想像だけはできました」
寛太はお菓子に無知ではあるが、愛絆の手作りなら期待できる。
冷蔵庫から手作りのコンフィチュールを取り出す。
「今回はこのコンフィチュールを使用するわ」
「こんふぃ? 必殺技か何か?」
「料理番組じゃないから説明は割愛。いちいち面倒くさい」
バター、薄力粉、ベーキングパウダー、と適当に材料をそろえていく。
レモンの下準備を始め、黙々とお菓子作りを始める愛絆に寛太は、
「兄妹間の親睦を深めたいと思ってるだけだ。会話しようぜ」
「お兄ちゃん程度の人間と会話する言葉がもったいない」
「ホントにひどい奴ですね!」
兄の存在そのものを全否定だった。
「ぐすっ。兄として過小評価されてることが本気で悲しい」
「事実だもの。あんまり文句言うと作ってあげないよ」
「それは困る。お茶菓子としてお前のお菓子は魅力的なものだ」
「ならば、何て言うのかな?」
「……俺の妹は素晴らしくお菓子作りが上手な上に美人で素敵な女の子です」
手のひらを返したように賛辞を並べ立てる寛太だった。
愛想がないと言われる愛絆だが、褒められるのは嫌いじゃない。
実の所、兄妹間の仲も決して悪くない。
「ふふっ。分かってるじゃない」
気分よさそうに小さく笑う。
「最初からそう言えばいいの」
愛絆は無愛想に見えるだけで、良くも悪くも素直じゃないのだ。
あえて言うのなら、どこか猫のように気分屋な猫系女子。
他人に懐かず、自分勝手な所がよく猫に似ていると寛太は思う。
「コンフィチュールってそれか?」
手作りのレモンのコンフィチュール。
小瓶に入ったオレンジ色が綺麗だ。
「そう。ちなみにコンフィチュールはジャムの事よ。覚えておいて」
「ジャムならジャムと分かりやすく言ってくれ」
「旬のフルーツを使った果汁たっぷりのコンフィチュール。ママーレードと同様にレモンの皮をいれるの。刻んだ果皮と砂糖を煮込んで、爽やかなレモンの味を引き出すとこの魅惑の味になるわけ」
「……それだけでも美味そうだな」
レモンの味のジャムは中々食べる機会はない。
果実の甘味をぎゅっと閉じ込めたコンフィチュール。
「これをパンに塗るだけで私の朝は爽やかに迎えられるわ」
「それを作ったのが自分だと言う自画自賛かい。たまにはお兄ちゃんにもください。お前の手作りジャム、俺は毎回、お預け状態だ」
「だって、お兄ちゃんはパンの食べ方が汚いから嫌だ。もったいないもの」
「……パンの耳の部分が嫌いで残すだけでそこまで言うかい」
愛絆はこう見えて、本当にお菓子作りにおいては天才的なセンスがある。
地元だけでなく地方のお菓子作りのコンテストで優勝を重ねて、名のある有名パティシエや有名洋菓子店からも注目されている。
センスが抜群によく、味覚も確かなものだ。
「私の青春はお菓子作りなのよ。小さな頃からこれだけは誰にも負けない」
「……その情熱を他にも振り分けたら素敵な女子になれますよ」
女子力がお菓子作りと言う部分のみ、一点突破していることに不安な兄だった。
もう少し別の方面もステータスのバランスを見直してもらいたいものだった。
愛絆はマドレーヌを型にはめて焼き始める。
すると、寛太の携帯に連絡が入った。
「俺、ちょっと友達を迎えに行ってくる。なんか近所で迷ってるらしい」
「うん。もう少しでこっちも焼きあがるから」
「完成が楽しみだな。それじゃ、行ってくるから」
お菓子作りをしている時は集中して、時間が経つのも忘れてしまう。
楽しくて、楽しくてしょうがない。
小さな頃から続けてきたお菓子作りは愛絆の趣味だ。
これからもずっと趣味として続けていく。
――お兄ちゃんはパティシエになれって簡単に言うけど、そんな楽な世界じゃない。
愛絆はパティシエと言う職業に憧れていないわけはなかった。
華やかなイメージを抱く、職種ゆえに人気も高い。
ただ、その裏側であるパティシエの辛さも面倒さもよく知ってるつもりだ。
――なりたいって言う意気込みだけでなれる職業でもないしねぇ。私には無理。
この事には彼女なりにいろいろと思う所があるのである。
「そろそろかな?」
マドレーヌが焼きあがって、オーブンから取り出す。
香ばしい匂いがキッチン内に広がる。
「んー、いい匂い」
バターとレモンの香り、ふわふわな生地。
焼き加減も抜群で、実に美味しそうなマドレーヌが出来上がった。
「――美味しそうだね。キミはすごく楽しそうに料理をするんだな」
気が付けば、キッチンをのぞき込む見知らぬ男性が立っていた。
整ったイケメンな顔立ち、優しそうな雰囲気の男の人。
「……誰?」
猫系女子はまだ何も知らない。
マドレーヌがもたらした、ひとつの出会い。
これから“初恋”が始まることを――。