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第6話 〜騎士の仕事、あるいは不穏なる報せ〜

 

 近衛騎士団兵舎の最上階には、そのまま庁舎が併設されている。近衛卿の執務の効率化を図るとともに、騎士団に所属する近衛騎士との食い違いなど起こらないようにするためのものだ。

 有事の際に、近衛卿と近衛騎士団との間で食い違いが起こり、あたふたとするようでは眼も当てられない。有事の際に役に立たない近衛騎士団など、有って無いようなものだ。そんな事態に陥る可能性を少しでも減らすための処置なのである。

 近衛だからといって、訓練ばかりを行っているわけではない。訓練より、執務の方が圧倒的に多いのが現実だ。宮内院やら、財務院やら、各省庁から送られてくる書類の処理を行わなければならないのだ。毎日が多忙である。

 私の心境としては今すぐにでも執務に取り掛かりたいのだが、どうやら、そうもいかないらしい。


「そこの兎殿、茂みの中に隠れていることは分かっていますよ」


「……やっぱり、シャルルにはすぐに見つかってしまうんだね。それより、主君である僕を兎呼ばわりするのは、どうかと思うのだけどね」


「ああ、アンリ様、すみません。私としたことが、てっきり仕事嫌いで悪戯好きな兎が隠れているのではと勝手に勘違いしてしまっていましたので」


 オルレアン皇国君主フランソワ三世の二人目の子女にして唯一の男子。私の主君であり、未来の皇王となる第一皇位継承権保持者にして皇国皇太子。アンリ・クロヴィス・ギュスターヴ・ド・ボナパルト・ル・オルレアン。

 本来ならば、この場所に次代の皇王である彼がいるのはおかしいのだが、それを実際に実行してしまうのが私の主君であるアンリ様なのだ。良く言えば明朗。悪く言えば軽薄。執務が嫌いで、よく隙を見つけては、こうして私のもとへやってくる。

 私を友として慕ってくれているのは、私としてもありがたい限りだが、執務を抜け出すのは止してほしい。執務を抜け出したアンリ様を捕らえて、執務室へと連行するのは毎度私の役目なのだ。懲りてほしいものである。


「さあ、アンリ様、執務室に帰りますよ。どうせ貴方のことだから、まだ手を付けていない仕事が山のように積み上がっているのでしょう?」


「だってぇ、だってさぁ~。あんな息苦しい部屋で延々と仕事するよりも、宮内の可愛い侍女さん達と話している方が僕は好きなんだよ」


「もう十九歳なのですから、子どものような幼稚な我儘を言うのは遠慮していただきたいものですね」


 私は溜め息を吐いて、隣で苦笑いを浮かべているダルタニアンを見遣る。


「すまない、ダルタニアン、先に今日の執務に取り掛かっていてくれないか。私はアンリ様を送り届けてくるから」


「はい、承知致しました。できるだけ早くしてくださいね。私が机仕事の類が苦手なのは知っているでしょう?」


「ありがとう、ダルタニアン。ほら、アンリ様、早く行きますよ」


「はぁ~……はいはい、分かったよ」


 ぶつくさ私に文句を言いながらも、ちゃんと素直に後を付いてくる辺り、可愛いところもあるというか、そんなに歳の離れていない弟ができたような感覚だ。あの事件から立ち直ってくれて良かったと心底思う。

 今でこそ明るく朗らかな性格であるアンリ様だが、一時期だけ、本当に心の底から沈み込み、それこそ食事すらも碌に喉を通らない時期があった。

 あれは、まだ互いに幼い頃、九歳の時のことである。アルビオン連合王国からフランソワ三世陛下に嫁いできた皇妃クラウディア様、アンリ様の母君が、陛下の信頼していた家臣の一人によって暗殺されたのだ。死因は毒物の服用による毒死だったらしい。

 主犯はアンジュー公爵。四公爵家の一柱であり、皇王陛下から信頼の厚い忠臣の犯した皇妃暗殺は、皇国全土に衝撃を与えた。アルビオン連合王国が王女を嫁がせることによって、皇国を支配しようとしているのではないか、という公爵の邪推によるものだった。

 この事件により、アンジュー公爵と嫡子であった公世子は処刑され、公爵家は取り潰しとなった。四公爵家は、三公爵家となってしまったのである。

 この事件以来、皇王陛下とアンリ様は深い悲しみに打ちひしがれた。その後、アンリ様は無事に立ち直ることができた。しかし、皇王陛下は立ち直ることができず、この世に対する絶望に染まったままである。皇王陛下は国政に一切の興味を示さず、一切の関与を行わなくなってしまった。親友である父上の言葉にも耳を貸さない有様だ。まるで、自らに死が訪れること、それをただひたすらに待っているようだ。

 皇国は親政である。皇王陛下が自ら国政を行うのが皇国としての本来の姿なのだ。しかし、その皇王陛下が国政に関わらない以上、その役目は必然的に執政であるヴァロワ公爵、すなわち私の今世での父上に移ることになる。そうなると、今度は皇国に仕える他の諸侯から不満が出てくる。諸侯は皇王陛下に忠誠を誓っているのであって、ヴァロワ公爵に忠誠を誓っているわけではないのである。

 結果、現在の皇国の国政は、上手く立ち回ることができていない。政治的にも、経済的にも、なかなか物事が先に進まないのが現状なのだ。隣接するライン帝国ほどではないが、我が皇国も長期の不況に喘いでいるのである。


「近衛卿閣下、本日も殿下の連行、ご苦労様でございます!」


 アンリ様を連行していると、途中ですれ違った衛兵に敬礼される。いつも同じ時間帯にアンリ様を連行している私の苦労を分かってくれるようだ。

 敬礼してくれた衛兵に、私はお礼の言葉を返す。理解者が存在するというのは本当に嬉しいことである。


「おお、近衛卿閣下、助かりました。またしても殿下が急に執務室から消え失せてしまい、困っていたところなのです。いつもありがとうございます」


「なに、伍長、気にすることはない。いつものことではないか。私にとっては既に日常生活の一部だからな」


「いやはや、近衛卿閣下のおかげで、上官殿にアンリ様の逃亡が発覚せずに済んで助かっております。なんとも、お礼の仕様もございません。はい」


 執務室に着くと、皇太子執務室警護役の衛兵が困り果てていた。仕事熱心で真面目なのだが、少し鈍臭いところがあり、このようにアンリ様の逃亡を許してしまっては困り果てている。

 毎日アンリ様を執務室に送り届けているうちに、この衛兵との間に不思議な連帯感が芽生えてしまった。もはや彼は身内のようにも思える。


「ほら、アンリ様、着きましたよ」


「……ねえ、シャルル。どうしても僕は働かなければいけないのかい?」


「そうですね」


「……どうしても?」


「いい加減に観念してください。いつまで経っても執務が片付きませんよ」


 渋るアンリ様を引っ張り、無理矢理に彼を座らせる。これでようやく観念したのか、羽根ペンとインク、印鑑を用意して執務に取り掛かった。

 嫌だと駄々を捏ねる割には、アンリ様の仕事は早い。彼は一度執務の態勢に入ると、眼を見張るほどの集中力を発揮する。最初から素直に執務に取り掛かってくれれば、と思ったことは、一度や二度ではない。


「それでは、しっかり執務を済ませてくださいね。影の近衛が見張っているので、逃げようとしても無駄ですよ。分かりましたか?」


「もう、分かったよ。早く今日の分を終わらせて、可愛い侍女さん達と一緒に紅茶を飲みたいからね」


「はい、頑張ってくださいね。この程度の量なら、すぐに終わりますよ。では、私も執務があるので、また後で食事の時間にでも会いましょう」


 アンリ様に断り、私は執務室を後にする。ちゃんと影の近衛がアンリ様を見張る配置についたことを確認するのも忘れない。

 影の近衛とは、諜報活動と防諜活動を担当する機関であり、近衛騎士団と同じく、近衛卿の指揮下に置かれる。影の近衛卿によって率いられている。

 影の近衛が主に担うのは諜報活動と防諜活動だが、その他にも彼等の仕事は多岐に渡る。皇太子であるアンリ様の監視も、影の近衛が担う多くの仕事の一つなのである。

 正直なところ、隠密の玄人をアンリ様の逃走回避用の監視として配置するのは、非常に申し訳ない心境である。怠慢になってしまうのも仕方がないと思う。もっと皇国に貢献できる任務を遂行したいという気持ちも分かる。

 しかし、玄人として監視対象であるアンリ様に買収されるというのは勘弁してほしい。大方、今回もアンリ様に買収されて逃走を見逃したのだろう。やはり、担当を変えるべきなのだろうか。だが、この皆が嫌がる担当に誰が就きたがるものだろうか。

 近頃、私の心労の半分はアンリ様に関することだと思えてならない。なんといっても、この朝の短い貴重な時間をその対応に費やしているのだから。


「ああ、君、丁度良かった。すまないが、執務中のアンリ様に暖かい紅茶を汲んでやってくれないだろうか」


 とは言いつつも、このような頼み事を宮中勤めの侍女にしてしまう辺り、私もアンリ様に甘いのだろう。というのも、アンリ様を見ていると、自らの孫を見ている気持ちになるのだ。

 思えば、前世での年齢と合計して、私の現在の年齢は百歳を越えている。百年も生きていると、アンリ様などの青年に対して、老婆心のようなものが芽生えるものである。私にとっては、アンリ様は手のかかる孫のような存在なのだ。


「ふふ、やっぱりシャルルは私達には甘いんだから」


「……なんだって?」


「あら、シャルルでも見分けられないなんて。私の侍女姿も様になってきたかしら!」


 そう言うと、侍女は眼鏡を外した。いや、侍女などではない。もっと高貴であり、尊ぶべき存在だ。なんということだろうか。アンリ様のことに頭を取られているせいで、この方の存在に気づかないとは。

 皇王陛下の第一子にして長女、第二皇位継承者であり第一皇女のマリー・アレクサンドラ・ド・ボナパルト・ラ・オルレアン殿下。

 アンリ様と同じく、溌剌として天真爛漫な性格の持ち主である。アンリ様の性格は、このマリー様の影響によるものに違いないと確信している。


「マリー様、またそのような格好で、はしたないですよ。皇女たる者、こうもっと品位のある格好をですね」


「あら、男のシャルルには分からないでしょうけど、ドレスは動きづらくて肩が凝るの。市井の女はドレスに憧れを抱いているみたいだけど、私にしてみれば市井の人々の格好の方が憧れるわね。だって動きやすそうだし、なにより肩が凝らなそうだもの!」


「地位のある者、責任のある者の格好というものは、総じて堅苦しく、動きづらくて肩が凝るものなのです。それに耐えることも我々に与えられた立派な務めの一つなのですよ」


「もしも私が皇位を継いだら、こんな勅命を下すと思うわ。〝堅苦しい服装は全面的に禁止! たとえ管理職でも臣民は総て楽な服装をすること!〟」


「そういうことではありませんから。はあ、全く姉弟揃って頭が痛い。少しは妹君のルイーズ様を見習ってみてはどうですか?」


 妹君のルイーズ様とは、皇王陛下の第三子にして次女、第三皇位継承者であり第二皇女のルイーズ・シャルロット・ド・ボナパルト・ラ・オルレアン殿下のことである。

 アンリ様やマリー様と異なり、自己主張をしない物静かな性格である。私の見込みが正しければ、隣国の王太子であるアーサー様とは意気投合できるだろう。ルイーズ様の物静かな性格は、おそらく、上の二人の兄姉が反面教師になったものと思われる。どうして、アンリ様に対して効果を発揮してくれなかったのか。甚だ疑問である。


「むしろ、これくらいで丁度良いと私は思ってるわ。いつも厳しい現実の中で生きているのだから、私達のような人がいても問題ないでしょう?」


「それは……そうですが。まあ、我が国だけと言わず総ての大陸諸国が不況の苦しみに喘いでいる中で、貴方達のような存在は貴重でしょうが……」


「でしょう? なら、それで良いじゃない。はい、問題解決。この話はもう終わりにします!」


「なぜでしょう。巧く言い包められただけのような気がするのですが……」


 結局、いつもこうなるのだ。前世の年齢と合わせて、私は既に百年以上も生きているというのに、まだたったの二十一年しか生きていないマリー様に一向に勝てる気がしない。これまでの私の戦績は総て黒星なのだ。

 思えば、前世でも最後までメアリーには敵わなかった。というより、女性関係で私が勝った憶えがない。女性に対する負け癖でも付いてしまっているのだろうか。複雑な心境である。

 いや、しみじみと考えている暇ではない。まだ今日の執務に手を付けてもいないのだ。早く近衛騎士団の庁舎へ舞い戻らなければ、私の代わりに執務を行っているダルタニアンに申し訳が立たない。マリー様には悪いが、今回はダルタニアンを選ばせてもらおう。


「では、マリー様、そろそろ--」


「姫様!」


 私の言葉は、突如として飛来した、嗄れた怒鳴り声に掻き消された。私が背後を振り向くと、鬼のような形相をした剃髪の老人の姿が見える。老人とは思えぬほどの速度で、私達のもとへ向かってきている。

 五元老の一人であり、幼少であったマリー様の傅役を務めていた博識者。メスィドール侯爵オーギュスタン・ド・ショワズール卿。皇国史上屈指の苦労人である。


「姫様、姫様! やっと見つけましたぞ! またそのような格好におなりになって、まったくけしからん!」


「あら、爺に見つかってしまったわ。じゃあね、シャルル。御免あそばせ」


「お待ちなされ姫様! ショワズールから逃げ果せると思っているのなら、大変な思い違いですぞ!」


 逃げ出したマリー様を追い、私の傍を疾風の如く駆け抜けるショワズール卿。今の状態のショワズール卿と衝突でもしようものなら、牛に突進されるほどの衝撃に襲われることだろう。

 紅い布に突進する闘牛の如くマリー様を追う老人の背を見送り、今度こそ私は近衛騎士団庁舎へ向かう。今回は邪魔が入るはことなく、足止めされていた時間の半分で庁舎に辿り着いた。


「新人、息が上がっているぞ! この程度で音を上げるなど、それでも皇国最強を誇る近衛騎士のつもりか!」


「ゼェ……も、申し訳ありません!」


「謝るだけの体力があるのなら、その余っている体力で走る速度を上げろ! よし、新人、小官の言葉を繰り返せ! 我等不敗の近衛騎士!!」


「「「我等不敗の近衛騎士!」」」


「声が小さい! 少なくとも、その倍は響かせるのだ!」


 庁舎の前では、通常の近衛騎士団の訓練に交じって、シャリフが新人達を扱いている。シャリフは自分に厳しいが、それと同じほど他人にも厳しい。

 士官学校を卒業したばかりの新人達にとって、近衛騎士団配属後の最初の一週間は地獄のように感じるだろう。

 私は近衛騎士達からの敬礼に対して応えながら、ようやく騎士団の庁舎に辿り着いた。二人の門衛に扉を開けてもらい、庁舎内へと入る。

 庁舎内では、近衛騎士団の事務員達が仕事に追われている。たとえ事務員とはいえ、有事ともなれば、近衛騎士としての任にも就ける強者達である。


「近衛卿閣下、本日もお勤め、ご苦労様であります!」


「ああ、ありがとう。君達も、適当なところで休憩を挟むように」


「はッ、了解致しました!」


「ふむ、相変わらず良い返事だな」


 近衛騎士団の事務職は、仕事こそが生き甲斐と考えている者達の巣窟だ。仕事熱心なのは良いことだが、適当なところで休憩を挟まなければ、身体を壊してしまう恐れがある。

 自らの身体の体調管理を確りと行うことも、近衛騎士団に所属する者達の務めだ。私が逐一言わなければ休憩も挟めないというのも、今まさに私の頭を悩ませている悩み事の一つである。


「では、私は執務室にいるから、なにかあったら呼んでくれ」


 私はダルタニアンの下へと向かう。執務室の扉を開けると、そこには予想通り、書類を相手に悪戦苦闘しているダルタニアンの姿がある。

 ダルタニアンは、執務室に入った私の姿を見つけると、困り顔で言った。


「ああ、ようやく来ていただけましたか。シャルル様、やはり、私に机仕事は向いていません。どちらといえば、私は斥候の方が好きなのです」


「由緒ある伯爵家の次期当主に、斥候などさせられるわけがないだろう」


 もはや毎日の慣習となった、いつものやり取りを終え、私は近衛卿専用の執務机に着いた。


「なんだ、これは近衛騎士団宛の書類ではない。財務院宛の臨時予算申請書が紛れ込んでいるな」


「なにかの拍子に紛れ込んでしまったのでしょう。シャルル様、私が財務院に届けて参ります!」


「うむ、よろしく頼む」


 言うが早いか、私の返答を待つことなく、ダルタニアンは嬉々として執務室を出ていった。この時になって、私はダルタニアンに、机仕事から逃げる口実を与えたことに気付いた。

 今になって気付いたとして、既に時遅し。まあ、私が着くまで、彼の苦手な机仕事を頑張ってくれたことだし、少し休憩させてやろう。

 私は再び書類の山に向き直る。武具防具の請求書など金銭関係の書類の他に、とても一言で説明するのは難しい書類まで、様々である。その中の一枚を確認して、捺印する。その時、扉が叩かれ、乾いた音が響いた。

 少なくとも、ダルタニアンではないことは確かである。財務院の庁舎は、この近衛騎士団の庁舎兼兵舎からは、離れた位置にいる。ほとんど正反対にあるといってもいい。この距離を往復するのに、あまりに短時間過ぎる。


「よい、入ってくれ」


「失礼いたします」


 そこにいたのは、近衛騎士団と同様に、私の指揮下にある影の近衛の一人であった。その手には、我が国では、もうほとんど使われていない羊皮紙が握られている。

 理由は不明だが、なぜか影の近衛卿は、一般に流通している普通の紙よりも、手間も費用も掛かる羊皮紙を使いたがる。そのため、影の近衛卿からの文書は必ず羊皮紙である。


「影の近衛卿より、報告書を預かっております。曰く、皇国の威信に関わる重要事とのことであります」


「分かった、ありがとう。影の近衛卿に、私が感謝していたと伝えてくれ」


「お言葉、確かに承りました。では、これにて失礼いたしまする」


 影の近衛が退室したのを確認して、私は羊皮紙を開いた。そこに書かれていた言葉は、一瞬間、私の思考を停止させるのには充分過ぎるほどだった。


 〝テルミドール男爵領に、時計衆の影あり。〟


 テルミドール男爵。先述した通り、近衛騎士団の副指揮官であるオノレ・ド・フォーシュルヴァンの父親だ。

 テルミドール男爵領では、黒い噂が絶えない。昨今では、同領で児童失踪が多発しているため、その調査のために、私の指揮下にある影の近衛を潜伏させていたのである。

 私とて、良い報告の期待などはしていない。むしろ、悪い報告こそ待っていたほどだ。しかし、まさか時計衆が関わっているなどとは、夢にも思わなかったというのが正直なところだ。


 私は大急ぎで机から紙を取り出し、手紙を書き、呼び鈴を鳴らした。

 階段を駆け上がる音が響き、執務室の扉が開かれる。そこには、先程、私と会話した事務員が立っている。


「近衛卿閣下、只今参りました」


「オノレ、いや、フォーシュルヴァン大佐を呼んでくれ、頼みたいことがある。それと、この手紙を大法官殿に届けてほしいのだ。よろしく頼む」


「承りました」


 大法官とは、皇国の唯一の司法機関である皇国大法院の首長であり、その地位は、代々のアランソン公爵家当主によって世襲されている。皇国における三大高等官位の一つである。

 大法官であるアランソン公爵は、法の番人としての務めと別に、皇国臣民の戸籍管理や、身分証発行なども兼務している。今回、私が必要としているのは、その身分証である。


 事務員は私から手紙を受け取ると、これまた大急ぎで執務室を去る。階段を駆け下りる音が響いている。

 階段を駆け下りる靴の音が途絶えたのと、ほとんど同時に、またもや扉が開かれた。ダルタニアンだ。


「シャルル様、なにやらクーペが階段を駆け下りていったのですが、なにかあったのですか?」


「ああ、ダルタニアン。ちょうど良いところに来てくれた。今すぐに外出の支度をしてくれ。支度が終わり次第、私は皇都を出なければならないのだ」


「おお、ということは、なにか事件が起こったのですね。それも、シャルル様と私の力が必要な事件が。これで、しばらく机仕事から解放されますね。今すぐに支度を致します!」


 テルミドール男爵領。そこでなにが起きているのか。ここでは、直接この眼で確かめることなどできない。影の近衛の推測が的中しているのか、ここにいては知る由もない。

 どちらにせよ、テルミドール男爵領に出向き、直接この眼で確かめる必要があるだろう。


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