第3話 〜騎士の物語、あるいは昔語る老兵〜
いつの時代にも、どこの国家にも、並外れて人望があったり、その国家の歴史を動かした偉人というものが存在する。それは、アトラス大陸の西方に領土を有する皇国も同じことである。
皇国史を語る上で、やはり外すことは決してできない偉人というのは幾人か存在する。奴隷を指導して古代王朝に対して叛旗を翻し、初代皇王として列せられるクロヴィス聖皇。その嫡子であり、建国者であるシャルル一世。当時まだ弱小国の一つに過ぎなかった皇国を、たった一代のみで強国に押し上げたアレクサンドラ女皇。その後半期は国政に一切関与せず、皇国に無用な混乱を生み、皇国史に残る重大な事件であるオルレアン内戦を引き起こした悲劇の皇王フランソワ三世。フランソワ三世の嫡子であり、オルレアン内戦を終息させ、立憲君主制への移行や民撰議院の創設など、革新的な改革を実行したアンリ五世。などがそうである。
それぞれが異なる形で皇国史に名を残す歴代の皇王達。そして、その皇王達の陰には、彼等を支えることを史上の目的とした側近が存在している。常に皇王の側近中の側近ーー執政として皇国に君臨し、いつの時代にも大いに影響を及ぼした大貴族、ヴァロワ公爵ボーモン卿である。
皇都クロヴィス・デ・ロワの中心に聳える歴代皇王の居城クロヴィス皇王宮に最も近い場所に、門番の如く建てられているヴァロワ公爵家邸宅。その大広間へと続く長い廊下の両壁には、歴代のヴァロワ公爵家当主の肖像画達が軒を連ねている。
その長い廊下を、歴代の公爵家当主達から見守られながら、一人の少年が歩いている。初代ヴァロワ公爵家当主ジャン=クロードから、現当主である父フレデリックまでの肖像画を一通り眺めると、長い溜め息を吐いた。
「ヴァロワ公爵。クロヴィス聖皇の戦友であり、建国以来より代々の当主が執政を務める名家……か」
歩きながら呟いたのは、ユベール、という名の少年である。驚くなかれ、彼は未だ15歳にも到達していない若年にも関わらず、世界有数の、恐らくは首位を争う大学ーークロヴィス・デ・ロワ総合大学において、教授を務めている秀才の中の秀才である。
ユベールは、ヴァロワ公爵家を現在にまで絶やすことなく存続させてきた代々の当主達を尊敬している。その中でも彼が最も深く尊敬しているのは、彼の曽祖父である。恐らくだが、彼の曽祖父は、歴代のヴァロワ公爵家当主の中でも最も有名な人物だろう。現在でも、最も尊敬する人物として、彼の曽祖父の名を挙げる者も少なくない。
皇国において、初代クロヴィス聖皇に次いで英雄視されているアンリ五世。そのアンリ五世に友として仕えた最も偉大な近衛卿にして執政。シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン。彼等が生きた時代は、まさに激動の時代だった。大陸の各地で叛乱や騒乱などが多発し、やがては第二次大陸戦争が勃発した。そして、第二次大陸戦争終結後、僅か三年後に訪れた未曾有の危機、アトラス大戦。どれほどの憎しみが生まれ、どれほどの悲しみが生まれたのか。どれほどの血が流れ、どれほどの生命が奪われていったのか。それこそ、平和な時代に生まれたユベールは想像もできない、
そんな混沌の時代に活躍した曽祖父の英雄譚を聞くのが、ユベールは好きなのだ。今では曽祖父の部下だった者達の唯一の生き残りとなってしまった老ミレー卿が、年甲斐もなく興奮して曽祖父について語るのを、幼い頃からユベールは、ずっと聞いていた。その度に思ったのだ。己の曽祖父のようになりたいと。老いた退役軍人の口から語られる曽祖父の姿は、お伽話の主人公のように、強くて格好良かったから。
「曽祖父のように、なれるだろうか」
「なれますよ。きっと、なれますよ。ええ、なれますとも。ユベール様なら」
「そう君に言ってもらえると、心強い限りだよ。どうしてかな。少しだけ、気分が軽くなった気がしてきたよ」
「さあ、ユベール様。大広間で家臣達が首を長くして待っていますよ。今日という日は、ユベール様が十五歳を迎え、成人なさる祝すべき日なのですから。ユベール様の登場を今か今かと待ち侘びている家臣達を待たせてはいけません」
ユベールに声をかけた男性、こちらは、今度は青年である。ユベールに、正確にはユベールの家に仕える家臣の一人である。彼の名は、リュシアン、という。ユベールにとって、彼は側近であり、友人であり、兄弟でもあった。
二人が最初に出会ったのは、互いに未だ幼い頃である。ユベールが五歳、リュシアンが七歳の時だ。由緒正しき公爵家の次期当主として有望視されるユベールの、未来の側近兼遊び相手に選ばれたのが、古くから公爵家の家宰を務める家系のリュシアンだった。
それぞれの貴族に仕える家宰とは、主に領主たる貴族が不在の際に領地経営を行う代理領主である。しかし、ユベールの実家である公爵家は、それらとは異なる。皇国における最上級の官職ーー執政、大法官、国璽尚書ーーは、それぞれが三公爵家によって独占されている。故に、三公爵家の当主は皇都を離れることができない。なので三公爵家は領地が与えられていない。では、どこで家宰が必要になるのかと言うと、職務代行である。病気などで三公爵家の当主が職務を遂行できない時、代理として職務を代行するのが三公爵家に仕える家宰の役割である。
そして、皇国における最上級の官職を代行するわけだから、生半可な地位の者では役足らずである。そのため、三公爵家の家宰は、貴族の地位を持つ家系が務めている。ユベールの実家ーーヴァロワ公爵家で家宰を務めているのはバッツ=カステルモール家といい、伯爵の地位を持っている家系である。リュシアンの曽祖父がダルタニアンを名乗って以来、家宰である代々の当主はダルタニアンを名乗るようになった。
ユベールの実家であるヴァロワ公爵ボーモン卿家と、リュシアンの実家で家宰を務めるアルタニアン伯爵バッツ=カステルモール卿家。二つの家系の間には、皇国史の中で確固たる絆が築かれてきた。二つの家系の代々の当主は、それぞれが互いを好敵手とし、友とし、兄弟とし、育っていくのだ。
『きみ、だれ?』
『アルタニアン伯爵家のリュシアン・ド・バッツ=カステルモールでございます。本日より、ユベール様に仕えることに相成りました。どうぞ、気軽に私をダルタニアンとお呼びください』
『だるたにあん、だるたにあん……。うん、よろしく! ダルタニアン!』
『はい、よろしくお願い致します』
主君ユベールと、家臣リュシアン。この二人が最初に出会った日の、この光景が、ユベールの尊敬する曽祖父と、その家臣であるリュシアンの曽祖父が最初に出会った時の光景と、似通ったものであったことを知る者はいない。
リュシアンの曽祖父も、やはり家臣としての務めを立派に果たしたことはよく知られている。ユベールの曽祖父の名が舞台上に現れる時、そこに必ずリュシアンの曽祖父が傍に侍っていた。この二人の曽祖父の名が、偶然にも、シャルル、という同じ名だったことは有名である。この名こそ、公爵家史上において最高と評される絆を生んだのか。そう考える者は多いが、そうではない。それは、二人の曽祖父が、同じ種類の人物だったからである。なにが同じだったのか、ということは現段階では伏せておくことにするが、あれほどまでの絆で結ばれた主従は昔も今も存在しないだろう。
「シャルル様……」
もう一度、ユベールは最も尊敬する曽祖父の肖像画に視線を移した。首の辺りで束ねられた金色の長髪と、宝玉のように澄んだ碧眼を持つ美丈夫が、その子孫を見つめている。なんという美貌だろうか。このような表現が男性に対して適しているのかは不明だが、これほどに美しい存在があるものか。ヴァロワ公爵家の歴代の当主は、容姿端麗の人物が多いが、曽祖父の場合は明らかに群を抜いている。比でない。
ユベールは、己の顔に手を触れ、己が幼い頃に聞いた老兵の語った言葉を思い出した。
『よく、シャルル様に、執政閣下に、近衛卿閣下に似ておられる。父君よりも、祖父君よりも、貴方は若かりし頃の公爵閣下に、とても似ておられる』
この曽祖父に似ているという顔が、幼い頃のユベールには誇りだった。いや、今でもユベールの誇りである。己の最も尊敬する曽祖父に似ている、という事実が、とても嬉しかった。
「シャルル様……行ってまいります。ご先祖様、確と見届けてくださいまし。今日という日を、貴方の曾孫が成人を迎える日を、見守っていてください」
ユベールは再び廊下を歩きだした。しっかりとした足取り。力強く廊下を踏み締めながら歩く。その廊下を歩く未来の公爵家当主の背中を、肖像画の中の歴代の当主達が見守っている。
ユベールの眼前に、この公爵家邸宅の中でも一際大きな扉。リュシアンがユベールの前に進みでて、両の手で扉を開け放った。そこには、大勢の人々が待っていた。公爵家に仕える家臣や公爵家を慕う者達。老いた退役軍人。そして、ユベールの主君である皇太子の姿も見える。唯一無二の親友の成人の日と聞いて馳せ参じたのである。
「ユベール公世子様に、敬礼!」
大佐の号令により、公爵家に仕える家臣達が一斉に敬礼する。その号令に倣い、公爵家を慕う者や、退役軍人の老ミレー卿も併せて敬礼する。
「成人おめでとう。まあ、これからも変わらずに僕に仕えてほしい」
「はい、分かっています。成人したとしても、なにも変わりません。殿下は私の友人であり、永遠の主君です」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
そう言うと、ルイ皇太子は葡萄酒の注がれたグラスを両手で持つと、左手に持つグラスをユベールに差し出した。ユベールは微笑むと、ルイ皇太子からグラスを受け取り、頭上に掲げた。
ユベールは周囲を見渡す。すると、いつの間に注がれていたのか、大広間にいる総ての人々が、右手にグラスを持って待機している。ゆっくりと周囲を見渡したユベールは、満面の笑みを浮かべた。
「乾杯!」
大広間に硝子を打ち鳴らす音が響き渡った。
今日、成人を迎えた少年と、それを囲む人々の群れを眺めながら、老いた退役軍人の老ミレー卿は、己の心に熱い気持ちが込み上げるのを感じた。この人のためならば、己の生命すらも惜しくないとまで尊敬した恩師の一族の少年が、成人を迎えたのだ。
「あの日のことを思い出す。執政閣下が、近衛卿閣下がヴァロワ公爵家当主を継いだ日のこと。このような老齢になっても、まるで昨日のことのように、はっきりと鮮明に記憶が蘇る」
他人に話したならば、きっと、なにを莫迦なことを言い出すのかと罵られるに決まっているから口には出さないが、老ミレー卿にとっては、若い頃の己の上司であった近衛卿、すなわち、シャルルほど偉大な人物など皇国史に存在しない。初代皇王クロヴィス聖皇や建国者シャルル一世よりも、若い頃の老人にとっては、己の眼の前に存在している人物の方がより偉大だった。
あの人に己の一生を懸けて仕えたいと思った。あの人に己の一生を懸けて着いていきたいと思った。あの人に己の一生を懸けて傍にいたいと思った。しかし、それは叶わなかった。あの人には既に誰よりも信頼している家臣や友人がいた。やがて、あの人は公爵家当主を継承すると、近衛卿を引退し、副官に総てを任せると、近衛騎士団を去っていった。それからは、あの人に会う機会が減った。しかし、あの人は暇があれば近衛騎士団の訓練を見舞いに来てくれたし、公爵家当主を継いだからといっても、もう決して会えなくなったわけではなかった。それでも、あの人に会いたいと思わない日など、たとえ一日たりとも存在しなかった。
それほどまでに、ユベールの曽祖父が、若かりし頃の老ミレー卿に与えた影響は凄まじかったのだ。
「老ミレー卿、楽しんでますか?」
いつの間に老ミレー卿の眼前まで来ていたのか。ユベールが老ミレー卿に声をかけた。それにしたって、あの人に本当によく似ている。またしても、老ミレー卿は、己の心に熱い気持ちが込み上げるのを感じた。
「まったく、いけませんな。宴の主役ともあろう方が、儂のような、干からびた老兵に話しかけているようでは」
「私が老ミレー卿に話しかけたとて、誰が文句など言いましょうか。そんな愚か者がいるとしたら、この私が直々に殴りかかって成敗してしまいます」
「〝ああ〟言えば〝こう〟言うとは、まさに、このことですな。まったく、可愛げのない方ですな、公世子様は」
「お言葉ですが、残念ながら私は公爵家の皆に可愛がられていますよ」
「おや、儂としたことが、これは一本取られましたかな?」
笑い声が上がった。いつの間にか、ユベールと老ミレー卿の周りに人集りができている。ユベールと老ミレー卿との会話に興味を惹かれた出席者達が集まってきたのである。これも、またユベールの魅力である。気が付けば、ユベールの周りに人が集まっている。
「老ミレー卿、曽祖父の物語を聞かせてください。それが私の今日の一番の楽しみだったのです」
ほらきた。老ミレー卿の眼が輝く。この物語を聞かせている時の老ミレー卿は、もう来年には百歳に届く老齢を感じさせないほど眼を輝かせ、生き生きとしている。まるで、あの頃に戻ったように、昨日のことのように語る老ミレー卿の様子は、どのような時よりも本当に楽しそうなのである。
「では、僭越ながら、この儂が語ってさしあげましょう。我が生涯の恩師、ヴァロワ公爵シャルルの英雄譚を」
彼等の周囲が湧いた。この宴に出席している者達は、このような英雄譚が好きな者達ばかりだ。それに加えて、歴史上類を見ない動乱の時代を生きた偉人の物語を、その時代を実際に経験した証人から聞くことができるのだ。これで湧かないはずがないのである。
「いいぞ、いいぞ!」
「さあ、早く! 老ミレー卿!」
盛り上がる大広間。やがて大広間が静かになり、物音一つしない静寂に包まれると、老ミレー卿は粛々と語り始めた。
「そう、あれは……皇都の士官学校を卒業したばかりの頃に新任少尉として近衛騎士団に配属された日のこと。儂は近衛卿閣下と出会ったのだよ」
当時の記憶が、湧き出る泉のように脳裏に蘇るのを感じながら、老ミレー卿は、ヴァロワ公爵シャルルに思いを馳せた。