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第1話 〜騎士の生涯、あるいは生き様〜

 グレートブリテン及びアイルランド連合王国の王都ロンドンで、既に滅び過去の国となったフランス王国出身の、一人の老人が最期の時を迎えていた。

 今は亡きフランス王国君主、ルイ十五世とルイ十六世の二代に亘り仕えた騎士である老人の名を知る者は、もはや、最盛期と比べれば無に等しい。

 しかし、それでも彼の存在を知る者にとっては、その能力に焼き付き、誰しもが一度でも出会えば、一生忘れることができない不滅の存在だった。

 エオンの騎士。こう呼ばれた女装の美丈夫の名を是非とも諸兄の記憶に留めておいてほしいと心底から願う。


 シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン。

 先史の時代にも、後史の時代にも、断じて類を見ない美貌と武術と知能を兼ね備えた騎士。彼の生涯について、愚鈍なる私が語るのを許してほしい。


 彼はフランス王国ブルゴーニュ地方のトネール(現フランス共和国ヨンヌ県の町)で誕生した。父親は弁護士のルイ・デオン・ド・ボーモン。母親は貴族出身のフランソワーズという女性である。彼の幼少期について、彼自身の自伝でしか知る術がないため、その信憑性には多くの疑問が伴う。

 彼は学校では抜きん出て優秀だったようで、王都パリにある大学の一部のコレージュ・ド・カトル=ナシオンを卒業している。卒業後、彼は財務部署の王室監査官として勤めた。

 彼に転機が訪れたのは、1752年、彼が二十四歳の時だった。彼の執筆した経済論文〈ルイ十四世ならびにオルレアン公摂政治下におけるフランス王国の経済状態諸相〉が財政問題で苦しんでいた政府高官に注目された。やがて、それがコンティ公の眼に止まったことで、宮廷に上がるようになる。己の職務に忠実であり、文学と武術に励む模範的青年は、国王の直属の諜報機関である〈スクレ・デュ・ロワ(〝国王の秘密機関〟の意)〉に推薦される。

 1756年、彼は諜報機関に加わった。彼は国王ルイ十五世から、ロシア帝国の女帝エリザヴェータ・ペトロヴナに謁見し、ハプスブルク家と対立する親フランス派の人物と接触するという旨の秘密指令を受ける。彼はリア・ド・ボーモンという名の女性に成りすますことで女帝付きの女官となった。

 1761年、彼は祖国であるフランスに帰還する。翌年、彼はド・ブロイ元帥が指揮官を務める竜騎兵ドラグーンの部隊長となり、中尉に任官された。そして、七年戦争後期を戦った。負傷した彼は聖ルイ十字勲章を与えられ、騎士シュヴァリエとなった。

 1763年、彼は再び国王ルイ十五世の諜報員として、次はグレートブリテン及びアイルランド連合王国の王都にて特命全権大使となった。この王都で、彼は侵略に必要な情報収集に努めた。彼は自らの所有する葡萄園で醸造した葡萄酒ワインを連合王国のウッド国務次官などに贈り、繋がりを深めた。

 その後、新任の特命全権大使として国王ルイ十五世によって伯爵がロンドンに派遣されると、新任の特命全権大使である伯爵が彼に毒を盛ろうとしたと国王ルイ十五世に報告し、自身の外交的地位の保全に乗り出した。結局、国王ルイ十五世は、彼の願いを聞き届け、彼の働きに対して年金を与えた。再び彼は諜報員として復帰したが、ロンドンに政治亡命している状態であった。

 1774年、国王ルイ十五世が死去すると、彼は新国王ルイ十六世に対して帰国を交渉した。国王ルイ十六世は、彼が今後の人生を女性として生きることを条件に、彼の帰国を許可した。以後、彼は女性として生きることになった。これまでの事情を知らないルイ十六世の王妃マリー・アントワネットは、彼が女性にも関わらず軍服を着用していることに同情し、彼女が贔屓にしているデザインのドレスを彼に贈っている。

 1785年、彼はグレートブリテン及びアイルランド連合王国の王都ロンドンに戻った。バスティーユ牢獄襲撃に端を発したフランス革命によって、貴族より下位にある准貴族である騎士の地位とはいえ、貴族身分を持っていた彼は、総ての財産と、年金を失った。

 1796年に重傷を負うまで、生活費を確保するために彼は、見世物としてのフェンシングの決闘に参加していた。


 そして、1810年。若かりし頃の美貌の面影を残した老人ーーエオンの騎士は、友人に見守られながら、その数奇な人生の最期を迎えようとしていた。











 私は、私らしい生き方をすることができたのだろうか。私は、人間らしい生き方を、有意義な生き方をすることができたのだろうか。近頃、私は特にそう考えるようになった。

 私は、楽しかったのかもしれない。自分で言うのも変だと思うが、私ほど数奇な人生を歩んだ人間は存在しないだろう。決して自惚れているわけではない。しかし、国民の真実の声を拒絶し、現実から眼を逸らし続ける王族。領民を虐げ、貪り、自らの財を貯めることしか趣味を見出すことのできない地方領主。そして、本当に天から我々を見守っているのか、存在するはずのない虚構の偶像に対して、祈りを捧げ続ける教会の聖職者よりも、遥かに私は有意義な人生を歩むことができたと思うのだ。私は決して自惚れているのではない。実際その通りなのだから。

 嗚呼、そうだ。私は楽しかったよ。嗚呼、そうだとも。私の人生は、これ以上ないほど楽しかった。喜びよりも怒りの方が遥かに多く、楽しみよりも哀しみの方が遥かに多かった人生であったが、それでも私は幸せだった。

 私は寝台に身体を預けたまま、天井に向けていた視線を移す。そこには、私の右手を、その美しい純白の両手で握りながら悲痛な顔を私に向ける一人の女性の姿がある。

 今や、たった一人となった私の最後の友人。シュヴァリエ・デオンの友人であり、女性としての私ーーリア・ド・ボーモンの友人。男性としての私と、女性としての私、この両方の私の友人でいてくれた、私の愛する親友。


 美しき老女、コール夫人メアリー。


「……ねえ、リア? 苦しくない?」


 心の底から私の身体を心配する彼女の言葉に、愛しさが込み上げる。私の生涯に出会った中で、最も美しい彼女が最期の瞬間を看取ってくれるという事実に、舞い上がってしまいそうだ。


「嗚呼、メアリー」


「リア、どうしたの?」


「君に伝えたいことがある。きっと、君と話すのは、これが最後になる」


 私が呟くと、眼前の彼女の美しい顔が曇った。悲しげに歪んでいた顔が、今にも泣き出しそうな顔に変わる。


「そんなッ、最後だなんて! 嫌よ!」


「頼むよ、メアリー。そのようなことを言わないで、私の頼みを聞いてよ。君に私の言葉を聞いてほしい。なんとしても伝えたいことがあるんだよ」


 そう、これだけは伝えなければならない。私の生命か尽きる前に、この私の気持ちを彼女に伝えたい。

 私に初めて〈愛〉という名の感情を与えてくれた彼女に。


「メアリー、ありがとう。私の友人でいてくれて、ありがとう。君のおかげで、苦難ばかりの私の人生を、悲しみばかりの私の人生を、幸福と思えた」


 私の人生は幸福だった。しかし、私がそのように思うことができたのも、総て彼女のおかげだ。

 彼女が私の友人でいてくれたから。彼女が私を愛してくれたから。彼女が私の最期を看取ってくれるから。彼女が私の眼を見てくれるから。彼女が私に触れてくれるから。彼女が私の傍で微笑っていてくれるから。だから私は幸福だった。私の人生は幸福だった。

 彼女は私の友人。のみならず、彼女は私の相棒であり、家族でもある。私は彼女が好きだ。彼女を愛している。それこそ、どうしようもないほどに。


「嗚呼、メアリー。どうか、そんな顔をしないでほしい。そんな悲しい顔をしないでほしい。いつものように私に君の微笑みを見せてほしい。さあ、私に君の美しい微笑みを見せてほしい」


 今は亡き私の友人ラ・フォルテールに、昔このようなことを問われたことがあった。


『もし、もしもの話しだが、死んだ後に再び生まれ変われるとしたら、君はどのように生きたい?』


 その時は、突然そのような突拍子もないことを問われて、私は答えることができなかった。しかし、今なら私は、その問いに楽に答えることができる。

 普通の暮らしがしたい。決して裕福ではないけれども、毎日まるで馬車馬のように働いても、得ることのできる賃金は雀の涙だけれども、それでも、日々を実感し、生命を実感し、苦労を実感できる。そんな暮らしがしたい。毎日が自由な辺境の暮らしがしたい。

 騎士とはいえ、貴族の身分を持つ私が、このようなことを言うことを、彼は笑うだろうか。いや、彼ならば、私らしいと微笑ってくれるはずだ。


 ーーちっとも、君は変わらないな。君と最初に出会った、あの頃から。


 そんな彼の声が聞こえた気がした。


「メアリー。嗚呼、メアリー。いくら感謝してもしきれない。それほど私は君に感謝しているんだよ、メアリー」


 彼女の美しい碧色の瞳から、まるで宝石のような涙の雫が滴る。これが、この世で最も価値のある宝石であると言われれば、私は信じるだろう。この世で最も神聖にして不可侵なものなのだと言われれば、私は信じるだろう。

 かの慈愛の聖母マリアすらも、彼女の美しさには成す術もないに違いない。彼女の美しさには、天界の天使すら嫉妬するだろう。それほどまでの魔力が、彼女には存在しているのだ。いや、魔力ではなく、魅力という表現の方が適切かもしれない。この魔力、もとい魅力に、私は魅了されたのだ。

 嬉しい。とても嬉しい。美しい彼女の瞳が私に向けられているのだから。我が主君であるルイ十五世陛下から、聖ルイ十字勲章を与えられ、騎士という身分を手に入れた時も、まして、特命全権大使に任命された時も、これほどの嬉しさを私は感じたことがない。


「メアリー、少し疲れた。話し過ぎてしまったようだ。眠い。もう私は眠ることにするよ。ほら、そんな顔をするのはやめてほしい。大丈夫、君が私の傍にいてくれさえすれば、私が悪夢を見ることなど、決してないのだからね」


 本当に眠い。これほど眠気を感じたのは生まれて初めてだ。この眠気に身を任せれば、私が再び目覚めることはないのだろう。己の身体なのだから、よく分かる。しかし、それでも良い。愛する者に見守られながら息絶える。これほど嬉しいことはない。

 人間は誰しも息絶える。それは、誰しも抗うことなどできない。息絶えるべくして息絶えるのだ。このまま、私は息絶える。それで良いではないか。


「ありがとう、メアリー」


 私は眼を閉じる。視界が暗闇に支配される。そして、意識が霞む。











 かくして、エオンの騎士は、生涯を終えた。しかし、考えてみてほしい。この世から消えた魂は、一体どこへと行くのだろうか。天国へと行くのか。もしくは、地獄へと行くのか。それが定説ではあるけれども、実際に天国か地獄へ行き、証言した人間は、いまだかつて存在しない。それは当然のことだろう。死人に口なしなのだから。

 結局のところ、この世で消えた魂がどこに行くかなど、誰にも分かるはずがないのだ。天国や地獄が実際に存在するのか、存在しないのかは定かではないが、少なくとも我々は知らない。イエス・キリストや、仏陀や、もしくはムハンマドも知っているわけがない。もし、読者の中に、敬虔なキリスト教や仏教やイスラム教の信者がおり、今の発言に対して不快な感情を抱いたのならば、今すぐに頁を閉じてほしい。


 彼ーーエオンの騎士は、その生涯を終えた。そして、再び生まれたのだ。〈此方の世界〉から〈彼方の世界〉へ場所を変えて。彼の魂は、この世から確かに消滅したのだ。ただし、人の魂が生きる世界が一つとは限らない。

 彼の物語は、まだ終わらない。そうではない。むしろ、彼の物語は、まだ序章を終えたばかり。まだ本編にすら突入していないのである。


 そろそろ序章が終わる。これから、やっと彼の人生の本編が幕が開ける。エオンの騎士ーーシャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモンの物語の幕が開ける。


 au revoirルヴォワール


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