黒薔薇の憂鬱、侍女の至福
ご無沙汰しております。
いつもよりちょっと短めですが、どうぞ!
マリアンヌは酷く憂鬱だった。この日が来ることはずいぶん前から分かっていたし、ここ数日忙しかったのはこの日のせいだとわかっていたけれど、そういう問題ではないのだ。
できることなら、遁走したい。
しかし、それは出来ないのだ。
衛兵に捕まるとか、貴族たちから冷笑さるされるとか、他の王族から嘲笑われるとか、そういうことではなく。
「マリアンヌ様、お湯加減如何ですか?」
愛しい彼が、絶対に逃がしてくれないから。
「……調度いいわ。ローズマリー、貴女も一緒に」
「入りませんからね」
つれない返事に、マリアンヌは唇を尖らせる。
ローズマリーは非常に良く出来た侍女で、どんな仕事も自分で行ってしまう。しかし、例外的に、というかむしろ必然的に、湯殿の世話だけは行わない(出来たらそれはそれでマリアンヌに多大なる打撃を与えるだろう)。
しかしローズマリー以外の人間に無防備な姿を晒すことなど、マリアンヌは許容しない。そのため、マリアンヌはいつも一人で湯浴みをしていた。
マリアンヌはレオナルドの頃から湯浴みは一人で入っていたから、特に不便はない。そもそも、他人に体を洗わせるその心境がマリアンヌには理解できなかった。
「……上がるわ」
「はい」
湯殿から出たところに、バスタオルと下着が用意されており、マリアンヌは自分で身仕度を始める。慣れたもので、すぐに下着を着終えれば、仕切りの外に顔を出す。そして、こっそり笑うのだ。
マリアンヌの視線の先には、部屋の一番奥まったところで、目隠しをして耳を手で塞いだローズマリーが正座している後姿が。
主人の着脱の姿や音は絶対見ない聞かない想像しない、という彼の可愛らしい主張が聞こえてくるようで、マリアンヌの胸は一杯になる。
ガバッ
忍び足で近付き抱きつけば、「ふわぁっ!」という可愛い叫び声があがる。
「マ、マリアンヌ様!!」
真っ赤になったローズマリーに咎めるように名を呼ばれれば、マリアンヌはしれっといつものように答える。
「何、ローズマリー?」
「何じゃありません、何じゃ!はしたない行動は慎んで下さい!」
「あら、だってローズマリーったら耳まで塞いでいるんだもの。呼び掛けても聞こえないでしょう?」
「だ、だからって、抱きつくことないじゃないですか!肩を叩くだけで十分です!」
「こんなに寒い場所で待っていたから、体が冷えたのではないかと思って」
わたくし温かいでしょう、と囁くと、ローズマリーは脱兎のごとく逃げ出す。正確には逃がしてあげたのだが、きっとローズマリーは気付いていないだろう。
「へ、平気です、このくらい。それより、マリアンヌ様こそ早く着替えないと、お風邪を召されますよ?」
差しのべられた手を取り、マリアンヌは彼に導かれるまま、ドレスに腕を通した。
それぞれの塔に、湯殿はない。アルシュタインでは温めた湯を湯船に移すのが主流だが、塔には大量の水を沸かす設備がなく、また本殿から運ぶと冷めてしまうのだ。そのため、本殿の湯殿で皆湯に入る。
この仕組みの面倒なところは、朝起きて身仕度を整え、本殿に行き湯を浴び、着替えて薄く化粧をして、塔に戻ってまた着替えて化粧をしなければならないところだろう。
塔に戻ると、ローズマリーはマリアンヌの髪に香油をつける作業に入った。起床したのは6時だが、もう正午だ。マリアンヌはすでにぐったりしているのだが、なぜか彼女より忙しいはずのローズマリーは生き生きしていた。
(う〜ん、やっぱりマリアンヌ様の髪は美しいな……アイリーン様も綺麗な髪をしていらっしゃったけど、黒髪のほうが艶やかに光を反射するからな。手入れのしがいがある)
「……楽しそうね、ローズマリー」
「ええ!これ以上の至福はないってぐらい楽しいです!」
弾むように返した答えに、マリアンヌは不服そうに唇を尖らせる。
「わたくしは、これからのことを考えるだけで憂鬱だというのに……ズルいわ」
「ズルいって……マリアンヌ様も楽しめばいいじゃないですか」
「貴女もいないのに、どうして楽しめるというのかしら」
拗ねるような言い方に、ローズマリーは苦笑してしまう。
ローズマリーを置いていくと決めたのはマリアンヌの方なのだ。ローズマリーに変な虫をつけないためなのだが、不満なものは不満らしい。
「じゃあ、せめて今だけは楽しんで下さい。ほら、この薔薇、生花なんですよ。香りが出ればいいかなって思って、注文したんです。これなら香水の苦手なマリアンヌ様でも平気でしょう?」
ローズマリーが差し出したのは、白い小振りの薔薇だ。エレナに頼んでおいたものが昨日着いたのだ。ちなみに、荷はヘイゼンが東の塔に運ぶ手配をしてくれたので、その礼を言いに昨夜訪ねたら、深夜までジャガイモを剥く羽目になったのだが。
マリアンヌは薔薇を受けとると、その香りを確かめる。微かに鼻孔をくすぐる、上品な香りだった。
「……いい、香りね。でも、生花だとすぐ萎んでしまうのではなくて?」
「枯れにくい加工をしてもらってます。今日明日は大丈夫っていうお墨付きです」
胸を張ると、マリアンヌは苦笑する。
「流石、わたくしの侍女だわ」
その後もテキパキとマリアンヌの身仕度を整えるローズマリーだったが、パールパウダーを手に取った瞬間だけは、黒い笑みを浮かべるセオに戻ったりした。その瞬間をバッチリ目撃したマリアンヌは、しかし、特に突っ込まない。突っ込んだところで、彼の可愛い笑顔ではぐらかされるだけだと悟っているのだ。
「か、完成です……」
目に涙を浮かべ、恍惚とした表情のローズマリーが体を戦慄かせる。その視線の先には、漆黒のドレスを身に纏う黒薔薇の姿があった。
艶やかな黒髪は複雑優美な形に結わえられ、白い複数の薔薇が清楚さと華やかさを演出する。穢れを知らぬ白い首元には、大粒の真珠のネックレス。彼女の為に作られたドレスは、豪華なレースと艶やかなシルクで彼女の細い肢体を包み、散りばめられた真珠が、星のように輝いていた。
それは、ローズマリーが思い描いていた通りの、理想が頭の中から飛び出してきたかのような完成度。
今この瞬間に天からのお迎えが来ても可笑しくない、というぐらい、ローズマリーは狂喜していた。
「あぁ、俺は満足です!きっと、天はこの日の為に俺をマリアンヌ様の元に遣わしたんでしょう!神よ!感謝します!」
キラキラと眩しいくらいに顔を輝かせ、ローズマリーは天を仰ぐ。
興奮状態のため、ローズマリーは自分のことを「俺」と言ってしまっていたが、マリアンヌは突っ込まなかった。突っ込んでも今の彼には聞こえない、と経験から分かっていた。
基本的に、侍女は主人を着飾るのが好きな生き物だ。しかしローズマリーのそれは“好き”というレベルを越え、生き甲斐となってしまっている。
マリアンヌもローズマリーに着飾ってもらうのが好きだ。しかし、どうしても思ってしまう。
(彼が生き甲斐にしているのは、わたくしを着飾ることなのか、それとも着飾った作品を作ることなのか……)
後者であればちょっと居たたまれない。
「……ありがとう、ローズマリー」
取り合えず礼を言えば、ローズマリーはとびっきりの笑顔を向けてくる。
「いえ!マリアンヌ様をより美しくするのは、俺の使命ですから!」
あまりの眩しさに、マリアンヌは二の句を次げない。
沈黙してしまった主人に気付かず、ローズマリーは懐中時計を取りだし時間を確認する。
「頃合いですね」
時刻は16:45。
パーティは17:00から始まる。今から出れば、丁度パーティの始まる5分前くらいには着くだろう。
他の侍女から遅いと言われるかもしれないが、早く行けばそれだけ貴族たちと話す時間が延びる。それは主人の望むところではない、とローズマリーはわざとこの時間になるよう準備していた。
「……行かなきゃダメ?」
「当たり前です」
バッサリ言い返され、マリアンヌは唇を尖らせる。しかし厳しい顔から一転、柔らかな微笑みを浮かべるローズマリーの言葉に、覚悟を決めた。
「暖かいホットミルクをお淹れして、お帰りをお待ちしております」
「……行ってくるわ。いい子で待っているのよ、ローズマリー」
まるで幼子に対するような言い方に、ローズマリーは苦笑する。
「はい。いってらっしゃいませ」
深く腰を折り見送りの礼を取るローズマリーに送り出され、マリアンヌはパーティのいう名の戦場へと足を向けた。
読んでいただきありがとうございました!
ちょっとローズマリーがぶっ飛んでいる今回でした笑
次回、黒薔薇様戦場に降臨する、の巻です。




