レモネード
雨の音は、人の心を落ち着かせると共に心寂しくさせる。いつまでも鳴り止まない雨音。墨汁で描いたような淡い景色を眺めながら、ホットレモネードを少しずつのどの奥にしみ込ませていく。冷えた身体に染み渡っていく熱いレモネード。それはまさにひと雫の毒である。焼けるようなのどの感触をぐっとこらえつつ飲み込むと、レモネードは香りとともに微かにお腹の中に消えていった。
あいつの事を思い出す度、お腹の中のレモネードが逆上してきたみたいに火照ってしまう。火照った身体は言うことを聞かず、自分の意志に逆らったような行動をし始める。今日だってそうだった。
二時間前の自分はなんて意固地でやなやつだっただろう。素直に傘をもらっておけばこんな雨の中を走って帰らなくて良かったのに。酸味の利いたまったりした甘さに、ちょっとセンチな気分になってくる。あんな笑顔で見られて平気なほど人間ができてる訳じゃない。透明な傘をいったん受け取ったときのあの微かな温もりが、まだ頭の中を駆け巡っている。あの時お腹の中のレモネードが沸騰なんかしなければ、今頃あいつと楽しく話せて良かったなぁって思えたのだろうか。ため息を左手で押さえた後、そのまま頬杖をついた。
目の前にあるティーカップを何でもなく眺めていると、もう半分も飲んでしまったレモネードが細かく波打っていることに気づいた。右手が細かく震えているせいだと気付き、慌てて両手を擦り合わせる。帰ってすぐにシャワーを浴びたというのに、もう手の先が冷えてしまっていた。目の前のレモネードに手の先を浸したら温かいだろうなぁなんて考えてしまうほど。なんでこんなに弱気になっているのだろう。馬鹿みたい。
止まない雨が槍となって、速度を上げて地上に叩きつけていく。瞬きもせず、ひとつも動かず、ずぅっと座り続けていると、頭の中が真っ白になってくるものだと思っていた。でもそれは違って、やはり外の景色のように微かな墨汁がしみ込んでいるのだった。
いっそレモネードを飲むのをやめてみようか。そういえばレモネードを飲むようになってから、あいつのことが忘れられなくなったような気がする。いつでもお腹の中に居座り続ける甘くて酸っぱいレモネード。全部身体の中から追い払ってしまえば、あいつのことなんてこれっぽっちも思い出せなくなるだろうか。そうすればもっと毎日が楽に流れていくだろうか。心の中のレモネードには雨水が混ざっていくだろうか。それとも墨汁が混ざっていくのだろうか。雨水で薄れていって忘れてしまえ、という自分と、墨汁でさらに濃くなって忘れられなくしてやる、という自分が頭の中で交差している。雨音が聞こえなくなるほど胸の鼓動が高まっていく。決断しきれない優柔不断な自分にさよならを告げたい。いっそ空からレモネードか墨汁かどちらかが降ってきて私を染めてくれればいいのに。
そうすればこんなに苦しくて悩ましくてどうしようもない思いをしなくて済むのに。
冷えきったレモネードからは湯気が消えていた。それを一気に飲み干すと、さっさと洗って戸棚に戻した。やっぱりどの道、遠回りしてもレモネードに還っていく。雨が降っていようと墨汁が降っていようと、レモネードが冷めていようと、レモネードなしでは生きられない。そんな気がしてきた。さっきの冷えたレモネードでも、あいつの事を思い出してしまう。心の中に、妙に納得した自分がいた。
そんな自分はレモネード依存症なのだろうか。それとも。