Transient Music
できれば、登場人物紹介をよんでからのほうがいいと思います。
では、本編をお楽しみください。
それは、いつ消えたのかわからないぐらいに空気に溶けていった。続いて割れんばかりの拍手。
―まだクラクラしてる。…ああ、もうおわったんだっけ。
気づいたら、頬を涙が伝っていた。ないてたんだ。初めて聴いたオペラで涙を流すなんて…。右を見ると、兄も涙を流していた。ここは京都コンサートホール。僕らは、生まれも育ちも東京。なぜ京都なんて遠いところになんで来たのか。今から数週間前のこと。
●
とうとう夏休みが来た!いっぱい遊んでいっぱい食べていっぱい寝るぞ!
そんな夢は、母のこの仕打ちによって打ち砕かれた。
「冗談だろ?なんだよ、このスケジュールは!」
裕聖は、おきたときに額にセロテで張られてあった紙を手にして母に詰め寄っていた。内容はこうだ。
夏休みのスケジュール
午前六時から午前七時まで 起床 洗顔 食事
午前七時から午前十時まで 宿題
午前十時から午後十二時まで ヴァイオリン
午後十二時から午後一時まで 食事
午後一時から午後三時まで スイミング夏期講習
午後三時から午後七時まで 塾夏期講習
午後七時から午後八時まで 食事 風呂
午後八時から午後九時まで 復習予習
午後九時 就寝
「あら、裕聖がまただらだらすごすのが目に見えてるからスケジュールを立ててあげたんじゃない」
聡子はニコニコと笑う。裕聖はあきれてぽかんと口をあけた。
(問題はそこ?そこなの!?)
「そーじゃなくって、いくらなんでも厳しすぎだろこんなの!僕、疲労死するよ」
「あら、そんなぐらいで疲労死するなら母さんや夏樹たちはもう死んでるわよ」
「うっ…け、けど裕輔はがんばってない!僕にこんななら裕輔にも!」
「だってあの子全部できてるじゃない。ま、あたりまえね。要領がよすぎるんだもの」
「つまり天才ってこと。裕聖はヴァイオリン以外裕輔にかなわないもんねぇ」
裕聖と母のどたばた騒ぎを聞いたのか、夏樹が二階から降りてきた。
「あら、早いわね夏樹。今日もバスケットの朝練習?」
「うん。母さん、裕輔がうるさいんで殴ってきたんだけど」
「あらま。あの子ご褒美の券ですっごくはしゃいでいたからねぇ」
「うん。気持ちはわからんでもないから手加減しといてやったよ。じゃね」
朝から交わされる非日常の会話。これが辻家には常識なのだ。
「姉ちゃん、日中症で倒れないでよね。それはそうと…ご褒美って何だよ!裕輔何もやってないのにご褒美とか理不尽すぎる!」
「あら、裕聖にもあげるっていったじゃない」
…?いつそんなことを母が言った?…ああ、そうか。
「母さん、いい加減勝手に時を超越ないで」
うんざりした息子の声を完全無視して聡子がため息をついた。
「だから、このスケジュールを完璧にこなしたら、特別豪華ご褒美をあげるって言ったじゃない」
豪華ご褒美!裕聖の顔が一気に輝いた。辻家はかなりの貧乏家族で、クリスマスプレゼントにはみんなでひとつの手動ゲーム機がせいいっぱい。誕生日プレゼントには服をワンセットが普通だったのだ。もちろん裕聖もクラスの大半が持っているゲーム機をほしいとは思うが、家の家計状況を十分知っていたのでもんくはいわなかった。それが、豪華ご褒美だという。
「いやなら、やらなくてもいいのよ」
母のにやけた顔。しかし、裕聖はすでにトリップしてしまい、その顔を見ることはなくこのご褒美に釣られて、裕聖はOKを出してしまった。
そして、数週間。長い長い夏休みの試練を何とか乗り切った裕聖は今、おやつを目の前におかれ、待てをされている子犬のような顔で母からのご褒美を待っていた。
母は、エプロンのポケットから封筒を取り出し、裕聖に渡した。急いであける裕聖。中には、三種類計六枚の紙が入っていた。紫の『歴史博物館入場券』、白の『霧沢鈴音コンサート入場券』、そして。
「京都←→東京往復飛行機乗車券…」
「どう?豪華京都三泊旅行セットよ!ホテルはすでに予約してあるし、おこずかいも少しだけどあげるし―」
裕聖は、なんともいえなかった。
(博物館……コンサートとかまったく興味ないし…けど、これ、かなり高かったんだよな)
そうだ。貧乏な僕らにとっては、最高のおくりものじゃないか!
「ありがとう、母さん。でも、なんで二枚組みなの?」
「裕輔も行くからよ。あなた一人じゃ心配でしょ?」
…そっか、そうなるよな。そういえば裕輔、この霧沢鈴音って人の大ファンだっけ…。まあ、夏樹姉ちゃんじゃないだけましか。
「…存分に楽しんでくるよ」
そして、数日後。一日目は霧沢鈴音のコンサート。そして、冒頭に至る。