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婚約者は、私の話を一度も聞かなかった。〜いまさら後悔してももう遅い〜

作者: 葦ノ冬夏
掲載日:2026/03/31

 

 馬車の中は、いつも静かだった。


 窓の外に流れていく夜の街灯を眺めながら、ヴィオレットは小さく息をついた。向かいの座席では、婚約者のクロードが膝の上に書類を広げている。社交パーティーの帰り道だというのに、仕事の書類から目を離さない。それがもう、当たり前になっていた。


「ねえ、クロード」


 声をかける。彼の視線は動かない。


「パーティー会場の庭に、エリシオンが咲いていたの。今年は例年より三週間も早いって、園芸師の方が言っていて……」


「ああ」


 それだけだった。


 ヴィオレットは窓の外に視線を戻した。街灯が、ひとつ、またひとつと後ろへ流れていく。


 三年前も、二年前も、去年も、同じだった。植物学の話、幼い頃に訪れた湖の話、先月読んだ本の話。どれも『ああ』か『そうか』で終わった。悪意があるわけではないのだとわかっている。ただ、聞いていない。最初から、聞くつもりがない。


(この人は、私の話を聞いていない)


 そう思ったのは、今日が初めてではなかった。ただ今回は、その事実がいつもより冷たく胸に落ちた。


 * * *


 翌日の昼過ぎ、ヴィオレットは王宮の回廊を歩いていた。父の代理として書類を届けに来ただけの用事で、手続きを終えれば帰るつもりだった。


「ヴィオレット様」


 声をかけられ、振り返る。


 書記官の制服を着た、きれいな顔立ちの青年が立っていた。リアン。二週間前、この同じ廊下で、ほんの少し言葉を交わした相手だ。


「先日おっしゃっていた、エリシオンの早咲きの件ですが」


 ヴィオレットは、一瞬、動けなかった。


「今朝、庭園の南側を通ったら、群生しているのを見かけました。確かに例年より早い。珍しいですね」


「……覚えていたんですか?」


 思わず声に出てしまっていた。リアンは少し首を傾ける。


「ええ。興味深い話でしたから」


 どこかで、鳥のさえずりがした。ヴィオレットの胸の中で、何かが音を立てて崩れたような気がした。それが何なのかはわからない。


「よろしければ——昼の休憩時なら、ご案内できますが」


「……ええ、ぜひ」


 自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。



 南の庭へ続く小道は、石畳の隙間から草が覗いていた。王宮の正面庭園と違って、ここは手入れが行き届いておらず、野生に近い。だからこそ、エリシオンが自生しているのかもしれない。


「ほら、あそこです」


 リアンが指を向けた先で、白みがかった薄紫の花が風に揺れていた。


 ヴィオレットは思わず足を止めた。


「綺麗……」


「このあたりの土は水はけがいいので、エリシオンには向いているのかもしれません。詳しいことはわかりませんが」


「当たってますよ、その考察」


 ヴィオレットは花に近づきながら言った。


「エリシオンは根が乾いた土を好むんです。水が溜まりやすい場所では育ちにくい。だから南向きの、石畳の隙間みたいな場所によく咲きます」


「なるほど!」


 返ってきた声に、ヴィオレットは顔を上げる。リアンは本当に興味深そうに、花のほうを見ていた。


「では、王宮正面の庭には向かないわけですね。あそこは土が深くて湿っている」


「そう。だから植えようとしても根付かない」


「勉強になります」


 その言葉が、お世辞ではないことが伝わった。ヴィオレットはしばらく、エリシオンの群生を眺めた。白と薄紫の花びらが、晴れた空の下で静かに揺れている。


(こんなに長く、植物の話をしたのはいつ以来だろう)


 胸の奥が、じんわりと温かかった。


 * * *


 それから、リアンと王宮へ出向くたびに顔を合わせるようになった。


 といっても、長い時間を共に過ごすわけではない。廊下ですれ違う。書類を渡す窓口で待つ間、少しだけ言葉を交わす。ただそれだけのことだった。


 ある日のこと。帰り際にちょうど食堂の前を通りかかったヴィオレットに、リアンが声をかけた。


「ヴィオレット様、昼食はもうお済みですか」


「まだですが」


「あちらの菓子台に、クルミのタルトが並んでいましたよ。私も食べたんですが、とても美味しかった——あ、でも、以前ナッツがあまり得意でないとおっしゃっていたか……すいません」


 ヴィオレットは足を止めた。


 ナッツが苦手だと話したのは、三週間前だ。廊下で、別の話題のついでに、本当に何気なく口にしただけだった。


「……覚えているんですね、そんな小さなことも」


「気になることは自然と頭に残ります」


 彼は特に誇る様子もなく答えた。ヴィオレットは小さく笑った。


「クロードに同じことを話しても、何も聞いてないのに……あなたは……」


 その時、言葉を続けてはいけない、と思った。婚約者の悪口を、他の男性に言うべきではない。


 だがリアンは特別な反応を見せなかった。ただ静かに『そうですか』と言い、『お口に合うものがあるといいですね』と付け加えた。


 それだけで、なぜか胸の奥が楽になった。


 * * *


 春の終わりに近づいた頃、ヴィオレットの実家が主催する夕食会が開かれた。クロードと並んで出席するはずが、彼が到着したのは会もほぼ終わりかけた頃だった。


「悪い、仕事が長引いた」


 それだけで、謝罪の続きはなかった。


 席に着いたクロードは、周囲の貴族たちとすぐに打ち解けた。笑い声が弾む。ヴィオレットは隣で、ほとんど言葉を発しなかった。


 席の並びの関係で、ヴィオレットの近くにいたのは、王宮書記官として招かれていたリアンだった。


「先日おっしゃっていた本、続きはいかがでしたか」


 彼が、ふと聞いた。


「あの——二ヶ月前に、まだ途中だとおっしゃっていた植物誌です」


「……読み終わりました」と、ヴィオレットは言った。


「後半がとても面白かったです。南方の乾燥地帯の植物について、今まで見たことのない分類の仕方をしていて」


「おお、どんな分類ですか?」


「水の保存能力で種を分けているんです。葉に蓄えるか、根に蓄えるか、茎に蓄えるか。それだけで、育つ環境の特性がほぼ決まってくるという考え方で——」


「それは面白い。つまり、外見の似た植物でも、全く異なる環境に適応している可能性がある」


「そう! まさにそれが本の主題で——」


 思わず声が弾む。


 そこへ、クロードの声が割り込んだ。


「ヴィオレットは本当に読書好きだなあ」


 クロードは平然と言葉をつづける。


「——刺繍も得意ですし、なかなか趣味が多くて、良妻になりそうだ」


 別の貴族に向けて言っている。笑いを含んだ、社交的な声だった。


 ヴィオレットは笑わなかった。刺繍は嫌いだ。不器用だから、よく針で指を刺してしまう。クロードに何回もそのことは言っていた。だが彼は、何も覚えていない。


 隣で、リアンがわずかに身じろぎした。


「失礼ですが」


 静かな、しかしよく通る声だった。


「ヴィオレット様は、刺繍があまり好きではないとおっしゃっていました。代わりに得意とするのは植物学かと。先ほども南方植物の分類について、大変詳しくお話しくださっていました」


 場の空気が、ほんの少し変わった。


 クロードの笑みが、音もなく消えた。視線がリアンに向く。値踏みするような、冷えた目だった。


「……書記官ごときが、口を挟むことかな」


 低く、しかし席中に届く声で言った。

 笑い声はなかった。それどころか、周囲の貴族たちがさっと視線を逸らした。見なかったことにしようとする、沈黙。


 リアンは何も言わなかった。ただ静かに口を閉じた。それ以上、何もできなかった。


 ヴィオレットも、目を伏せた。

 リアンは間違ったことを言っていない。ただ、正しいことを言っただけだ。私のことを、ちゃんと知っていたから。


 それを——『書記官ごとき』と。


 クロードはもうヴィオレットのほうを見てもいなかった。何事もなかったように隣の貴族へ笑いかけ、話を続けている。

 ヴィオレットはグラスを持ったまま、しばらく動けなかった。


 三年間。隣にいた。声をかけ続ければ、いつか伝わると思っていた。

 でも今夜、自分のことを理解してくれている人が、自分のために口を開いてくれた。それを、クロードは一言で踏みにじった。

 悲しくはなかった。泣きたくもなかった。


 ただ、静かに、はっきりと、思った。


(——もう、いい)


 * * *


 翌週、ヴィオレットはクロードの屋敷を訪ねた。

 応接室に通されると、彼はすでに執務の書類を広げていた。


「こんな早くに何の用だ」


「お話があります」


 ヴィオレットはテーブルの前に立ち、封筒を一枚、静かに置いた。


「婚約の解消を、お願いいたします」


 クロードは書類から目を上げた。一拍置いてから、ふっと笑った。


「何の冗談だ」


「冗談ではありません。弁護士に依頼して、申請書を作りました。封の中に入っています」


 笑いが消えた。


「……なぜ」


「三年間。一度でも私の話を覚えていてくれたことが、ありましたか」


 沈黙が落ちた。


「先週も、私が刺繍を得意だとおっしゃっていました。刺繍は嫌いです。そのことは、何回も話しました。代わりに、植物学の話は、何十回もしました。一度も、届きませんでした」


「そんな——些細なこと」


「ええ、些細なことです」


 ヴィオレットは静かに言った。


「でも、それが三年分積み重なりました」


 クロードは立ち上がった。


「待て。先週のことなら謝る。だが、婚約の解消は話が別だ。お互いの家の問題でもある」


「弁護士はその点も含めて動いています。ご実家への書面も、同日付で送付されます」


 クロードの顔が、初めて本当に変わった。余裕が剥がれ、その下から、焦りとも狼狽ともつかない何かが覗いた。


「待てと言っている。……俺は、お前と結婚するつもりで——」


「クロード」


 ヴィオレットは、静かにそれを遮った。怒りのない声で。


「私が好きな花は何ですか」


 沈黙。


「好きな本は。苦手な食べ物は。幼い頃に好きだった場所は」


 答えが、出てこない。

 クロードの口が、かすかに開いたまま、閉じられた。また開かれ、また閉じられた。何かを探しているように視線が宙を彷徨う。だが、そこには何もなかった。


「………………」


「三年間、ずっと。ずっと、話しかけていました」


 ヴィオレットの声は穏やかだった。責め立てるのではなく、ただ確認をしているような静けさで。それが、どんな怒声よりも重くクロードの胸に落ちた。


「あなたには届かなかった。それだけのことです」


 そう言って、ヴィオレットは頭を下げた。丁寧に、きちんと。


「お時間をいただき、ありがとうございました」


 踵を返す。廊下へ出ると、温かい春の光が窓から差し込んでいた。足取りは自分でも驚くほど、軽かった。


 * * *


 婚約解消の話は、思ったより早く広まった。

 社交の場へ出るたびに、誰かが聞いてくる。遠回しに探りを入れてくる。


「ヴィオレット嬢とは、どうされたのですか」

「仲睦まじいと思っていましたのに」

「何かご不満でもあったのですか」


 クロードはその都度、曖昧に笑って話を逸らした。理由を語れなかった。語れる言葉を、持っていなかった。


 ある夜、実母に呼ばれた。


「ヴィオレット嬢が好きだったものは何かしら。お好きなお花とか、趣味とか、ご実家への最後の挨拶の時に手土産を持っていこうかと——」


「………………」


 クロードは答えようとした。


 花が好き——。それは確かに聞いたことがある気がした。馬車の中で、何度も。でも、なんという名の花なのか。なぜ好きなのか。どこで咲くのか。何も知らない。植物学——そうだ、そういう話をしていた。でも、どんな本を読んでいたのか。何を面白いと言っていたのか。


 思い出せない。何も、思い出せない。


「……わからない」


「え?」


「彼女が、何を好きだったか、わからない」


 母は、静かに目を伏せた。その表情に、クロードは何も言えなかった。


 その夜、自室に戻ってから、クロードは長い間、窓の外を見ていた。

 三年間。ヴィオレットはずっと隣にいた。馬車の中で、舞踏会で、庭で、食卓で。声をかけてきた。話しかけてきた。何十回も、何百回も。


 声は確かに聞こえていた。空気の振動として。音として。でも——内容が、何も。何も、残っていない。


(俺は、何を聞いていたんだ)


 ヴィオレットの問いが頭から離れなかった。


『私が好きな花は何ですか』


 あの質問に、答えられなかった。三年間、婚約者として隣にいた女性の、好きな花の名前さえ。


 怒りではなかった。ヴィオレットに怒りをぶつける権利が、自分にないことはわかっていた。悲しみとも違う。もっと、底のない感覚だった。


 三年分の言葉が、どこにも残っていない。


 彼女が笑いながら話していた声の記憶はある。でも内容がない。輪郭だけがあって、中身が空洞になっている。


 今さら思い出そうとしても、もう彼女はいない。聞き直すことも、覚え直すことも、できない。


 クロードは額に手を当てた。

 好きだったのか、と問われれば、そうだと答えるつもりだった。当たり前のように隣にいて、当たり前のように話しかけてくる、その存在が。


 だが。『好き』と言うのなら、相手のことを理解していなければならないのではないか。


 好きな花を知っていなければ。好きな本を知っていなければ。どんな時に笑い、何を嬉しいと思い、何を傷つくと感じるか——。

 何も、知らなかった。

 三年間、隣にいながら、クロードはヴィオレットのことを、何ひとつ知らなかった。


 窓の外は暗かった。春の夜風が、カーテンの端を静かに揺らしている。

 その空白が、今夜初めて、本当の意味でクロードに伝わった。取り返しのつかない重さとして。


 * * *


 エリシオンが満開になった頃、ヴィオレットは王宮の南庭を歩いていた。

 隣には、リアンがいた。


「挿し木の件ですが——うまくいきました」と、ヴィオレットは言った。


「あなたが教えてくれた方法で、庭の隅に根付いて」


「それは良かった。花が開くのが楽しみですね」


「来年の春には咲くと思います」


 ふたりは、白と薄紫の群生の前で立ち止まった。風が吹くと、エリシオンが一斉に揺れる。


「いつか、見に来てくださいね」


「ぜひ」


 リアンはそう言って、静かに笑った。彼の笑い方はいつも優しくて、心が温かくなる。

 ヴィオレットも、微笑みを返した。


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