第五章「カスで何が悪い」
文化祭まで、一週間を切った。
冊子の表紙は、Geminiで生成した画像に決まっていた。
凛が一緒に作ったあの画像——砂浜に立つ、靴紐のほどけかけた女の子——をクラスの冊子係に送ったら、「いい」と言われた。「雰囲気あるじゃん」と言われた。「これ誰が作ったの」と言われた。
由奈は少し迷ってから、「自分とクラスメイトで」と答えた。
それで全部、丸く収まった。
丸く収まった。
由奈は夜、布団の中でその言葉を繰り返した。
丸く収まった。表紙はある。小説はある。冊子は完成する。何も問題ない。
なのに、何かが落ち着かなかった。
何が、とは言えなかった。言えないまま、天井を見ていた。
翌日の夜、由奈はノートを開いた。
落書き用の、端っこが黒ずんだノートだ。人間とも動物ともつかない何かを、暇なときに描くためのノートだった。
由奈はそこに、女の子を描いた。
夜の海辺に立つ女の子。由奈の小説の中にいる子。
案の定、ひどかった。
顔のバランスが崩れていた。髪の線がよれていた。砂浜のつもりで描いた地面は、なぜか畳みたいになった。靴紐をほどけかけにしようとしたら、靴全体がよくわからない物体になった。
うわ。
由奈は自分の絵を見て、素直にそう思った。下手だった。救いようがないくらい下手だった。Geminiが出してくれたあの絵と並べたら、同じ女の子だと誰も思わないだろう。
でも由奈は、消さなかった。
何度か描き直して、色鉛筆で色を塗った。はみ出た。塗り直した。また少しはみ出た。
一時間ほどかけて、由奈は完成させた。
下手だった。でも、確かにそこに、由奈の女の子がいた。
文化祭の前日、冊子が刷り上がってきた。
表紙は、あの画像だった。きれいだった。雰囲気があった。
由奈は冊子を受け取りながら、鞄の中のノートのことを考えた。
これを、どこかに入れられないだろうか。
冊子係に頼んで、奥付のページの隅に、小さくスキャンして載せてもらった。「なんか味があるじゃん」と言われた。よくわからない評価だったが、載せてもらえた。
文化祭当日。
冊子は思ったより手に取ってもらえた。小説を読んでくれた人が何人かいて、「良かった」と言ってくれた人もいた。由奈はそのたびに「ありがとうございます」と言って、少し照れた。
昼過ぎ、ハルキが冊子を手に由奈のところに来た。
「これ」とハルキは奥付のページを開いた。「この絵、なに」
「私が描いた」
「え」とハルキは言って、もう一度見た。「下手すぎ」
笑いながら言っていた。悪意は一グラムもなかった。ただ、下手だという事実を述べていた。
由奈は笑い返した。
「知らなかっただけだから。カスで」
言ってから、少し驚いた。自分でも、そういう言葉が出てくるとは思っていなかった。悟ったわけじゃない。開き直ったわけでもない。ただ、何かが少しだけ、外に出た気がした。
何かが、とは、まだ言えなかった。
夕方、片付けをしていると、凛が冊子を持って立っていた。
奥付のページを、見ていた。
由奈は声をかけようとして、やめた。
凛は何も言わなかった。ただ、スマホを取り出して、そのページを撮った。
それだけだった。
凛はそのまま片付けに戻って、由奈の方を振り返らなかった。
由奈は何も聞かなかった。
凛が何を思って撮ったのか、私にはわからない。
わからないまま、でも、それでよかった。
由奈はもう一冊、冊子を手に取った。表紙の女の子と、奥付の女の子を、交互に見た。
二人は全然違う女の子に見えた。でも、どちらも同じ夜の海辺に立っていた。
どちらも、私が出した子だ。
それだけは、わかった。
帰り道、由奈は一人で歩いた。
駅まで、バスで十分の距離だった。
でも由奈は、歩いた。
特に理由はなかった。ただ、歩きたかった。それだけだった。
バスの方が速い。それはわかっている。でも今日この十分間は、バスでは手に入らないものだと、なんとなく思った。
夜の海辺に立つ女の子のことを考えた。
Geminiが出したあの子と、自分が描いたあの子。どちらが本物か、なんて問いは、たぶん最初から意味がなかった。
どちらも本物で、どちらも由奈が出した。
それだけで、十分だった。
来年も、描こう。
うまくなるかどうかは、わからない。
でも、描くことは、できる。自分は書くことが好きだから。
ーー理由はないけど、書くことが好き。
それが、今日由奈が手に入れた、たったひとつのことだった。




