第一章「普通に頼んだだけなのに」
文化祭まで、三週間を切っていた。
クラスの出し物は小冊子だった。有志が文章を書いて、まとめて印刷して、当日に配る。去年も一昨年もやっていた、特に面白くも面白くなくもない企画だ。
桐嶋由奈は、小説を書いた。
八千字ほどの短編で、自分で言うのも何だが、そこそこ上手く書けたと思っていた。国語の先生に見せたら「文章が丁寧だ」と言われた。友達に見せたら「読みやすい」と言われた。クラスの冊子係に送ったら「表紙に使いたい、イラストを用意してくれ」と返ってきた。
イラスト。
由奈は自分の落書きを思い浮かべた。ノートの端に時々描く、人間とも動物ともつかない何か。それを人に見せたことは、今まで一度もない。
つまり、自分では無理だった。
誰かに頼もう、と由奈は思った。ごく自然に、ごく当然に、困ったから人に頼む、それだけのことだった。
クラスで一番絵が上手いのは、朝倉凛だという話だった。
由奈は凛と同じクラスになって半年が経つが、会話らしい会話をしたことがない。印象としては、口数が少なくて、いつも何かを見るような目をしていて、友達が多いわけでも少ないわけでもない、そういう人だった。SNSでイラストを上げているという噂は聞いたことがあった。
声をかけるなら昼休みだろうと由奈は判断した。
凛は窓際の席で、スマホを見ていた。特に急いでいる様子もなく、かといって話しかけてほしそうな様子でもなかった。どちらかと言えば後者だったが、由奈は三歩だけ迷ってから近づいた。
「あの、朝倉さん」
凛が顔を上げた。
「文化祭の冊子、知ってると思うんだけど」
「うん」
「私、小説を書いてて、その表紙のイラストを誰かに描いてもらえないかなって思って。絵が上手いって聞いたから、もしよかったら——」
言い終わるか終わらないかのところで、凛が言った。
「ジェミれ、カス」
それだけ言って、スマホに視線を戻した。
由奈は、その場に三秒立ち尽くした。
怒っているのか、と最初に思った。でも凛の声のトーンは平坦で、怒気というよりは、ただ事実を述べたような、そういう言い方だった。
次に、自分が何か失礼なことをしたのか、と思った。「ジェミれ」の意味を調べようとして、スマホを取り出して、でも何を打ち込めばいいかわからなくて、結局ポケットに戻した。「カス」という言葉の方が、頭から離れなかった。
「……あの」
由奈はもう一度声をかけようとした。凛はすでにスマホを見ていて、由奈の存在をもう処理済みにしたような顔をしていた。
それ以上、由奈は何も言えなかった。
席に戻りながら、「ジェミれ、カス」という言葉を頭の中で繰り返した。
カスは、まあ、カスだろう。
問題は「ジェミれ」の方だった。
昼休みの残りの時間、由奈は自分の落書きノートを開いて、何も描かずに閉じた。
私、何か変なことした?
思い返しても、わからなかった。ただイラストをお願いしようとしただけだ。それが「カス」呼ばわりされるような行為だとは、正直、今も思えなかった。
でも凛は怒っているわけじゃなかった。
あれは、怒りじゃなかった。
もっと別の何か、由奈にはうまく名前のつけられない感情が、あの四文字には入っていたような気がした。
気のせいかな。
たぶん気のせいだ、と由奈は結論づけた。怒るより先に自分を疑うのは、昔からの癖だった。




